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七年分の傘

「まだ、持っていたのか」


 雨音が、エントランスの高い天井に反響していた。


 社員たちの足音。自動ドアが開閉するたびに入り込む湿った風。誰かの笑い声。傘の雫が床に落ちる音。


 全部聞こえているはずなのに、私の世界は、霧島部長の低い声だけになっていた。


 まだ、持っていたのか。


 それはつまり。

 つまり、つまり、つまり。


 この人は、覚えている。


 七年前の雨の日を。大学の正門前を。私が震える声で「好きです」と言ったことを。彼が、ほんの少しだけ目を伏せて、「ごめん。君の気持ちには応えられない」と言ったことを。


 全部、覚えている。


 だったら。


「……初対面だって、言いましたよね」


 自分でも驚くくらい、声が小さかった。


 責めたいのか、泣きたいのか、逃げたいのか、よくわからない。胸の奥で七年前の私が、傘も差さずに立ち尽くしている。


 霧島部長は、すぐには答えなかった。


 沈黙が長い。

 この人の沈黙はずるい。冷たい顔をしているくせに、その沈黙の中に、言わなかった言葉をいくつも隠している気がしてしまう。


「言った」


 ようやく落ちた返事は、短かった。


 短すぎて、胸が痛い。


「どうしてですか」


 その質問だけは、止められなかった。


 七年間、聞けなかったこと。

 転職初日から、喉の奥にずっと引っかかっていたこと。


「覚えていたなら、どうして」


 霧島部長の指が、黒い傘の柄を強く握った。


 ほんの少しだけ、骨ばった手の甲に力が入る。それだけで、私は息をのんでしまう。


 この人も動揺するんだ。

 そう思った瞬間、腹立たしさと、どうしようもないときめきが同じ場所でぶつかった。


 やめて。今はときめく場面じゃない。私の心臓、会議の議題を勝手に変更しないでほしい。


「会社の前で話すことじゃない」


「じゃあ、どこなら話してくれるんですか」


 早口になった。


 あ、これはまずい。私が緊張している証拠だ。自覚したところで止まらない。


「会議室ですか。部長室ですか。それとも、また何もなかったことにしますか」


 言った瞬間、自分の声が震えているのがわかった。


 霧島部長の目が、少しだけ細くなる。


 怒ったのかと思った。

 けれど違った。


 その目は、困ったように、痛そうだった。


「結城さん」


「名前で呼ばないでください」


 反射で言っていた。


 自分でも、何を言っているんだろうと思う。


 職場では名字で呼ばれて当然だ。上司だし、部下だし、ここは会社だし。なのに、その呼び方すら、今は逃げ道みたいに聞こえた。


 霧島部長は、言葉を失ったように黙った。


 その沈黙で、私は少しだけ冷静になる。


 エントランスにはまだ人がいる。受付の人もいる。別の部署の社員もいる。誰かに聞かれたら困る。困るのは私だけじゃない。彼だって、部長という立場がある。


 わかっている。

 わかっているのに、七年前の私が、まだ泣いている。


「すみません」


 私は視線を落とした。


 バッグの中の紺色の傘が、半分だけ顔を出している。


 古い。持ち手には小さな傷がある。何度も捨てようとして、結局捨てられなかった傘。


 返せない気持ちの形。


「これ、返します」


 私は傘を取り出した。


 手の中に乗せると、七年分の重さがあった。いや、傘としては普通の重さだ。わかっている。でも心の中では、これ一本で引っ越し段ボール三箱分くらいある。重い。精神的に。


 霧島部長は、傘を見つめたまま動かなかった。


「借りたままでした。七年前」


 言葉にしたら、胸の奥がきゅっと縮んだ。


 七年前。


 その単語を、私たちは初めて今の声で共有した。


「……返さなくていい」


「どうしてですか」


「君に渡したものだから」


 ひゅ、と喉が変な音を立てそうになった。


 君。


 会社での「結城さん」ではなく、七年前の距離をかすめる言葉。


 だめだ。そんなふうに呼ばれたら、怒っていたはずの心が勝手にほどけてしまう。単純すぎる。私の情緒、福利厚生が弱い。


「渡したんじゃなくて、貸したんです」


「そうだったな」


「だったら、受け取ってください」


 私は傘を差し出した。


 霧島部長は、私の手元を見ていた。


 その視線が近い。指先が触れそうで触れない距離にある。たった数センチなのに、雨の匂いより濃く、彼のコートから漂うコーヒーみたいな香りがした。


 心臓がうるさい。


 今、怒っている。たぶん。ちゃんと怒っている。なのに、こんなところで彼の体温を意識している自分が本当に悔しい。


 霧島部長は、ゆっくりと手を伸ばした。


 けれど傘を取る前に、その手が止まる。


「悪かった」


 雨音に紛れそうな声だった。


 でも、聞こえた。


「初対面のふりをしたことも、七年前のことも」


 息が止まった。


 彼は私を見なかった。傘を見ていた。まるで、私の顔を見たら言葉が続かなくなるみたいに。


「君を傷つけた」


 その一言で、胸の奥にあった硬いものが、少しだけ形を変えた。


 謝ってほしかったのかもしれない。

 でも、謝られたかっただけじゃない。


 私は、あの日の私が何だったのかを知りたかった。


 迷惑だったのか。

 若くて、幼くて、何も知らなくて、ただ一方的に好きだと押しつけた重荷だったのか。


「私の気持ち、迷惑でしたか」


 気づいたら、聞いていた。


 怖かった。


 この質問は、七年間ずっと胸の奥に隠していた。答えを聞いたら、もう言い訳できなくなるから。


 霧島部長が、はじめてまっすぐに私を見た。


 黒い瞳の中に、エントランスの白い照明と、外の雨が映っている。


「迷惑だったことは、一度もない」


 世界が、また静かになった。


 さっきとは違う静けさだった。


 胸の奥で、七年前の私が顔を上げる。


 濡れた髪。震える指。泣くのを我慢して、笑おうとして失敗した私。


 あの子に、今すぐ言ってあげたかった。


 迷惑じゃなかったって。

 重荷じゃなかったって。


 好きになったこと自体は、間違いじゃなかったって。


「じゃあ、どうして」


 声がかすれた。


 霧島部長の目が、ほんの一瞬だけ揺れた。


 その奥に、私の知らない夜が見えた気がした。病院の白い廊下。鳴り続ける電話。誰にも頼れずに立っている彼の背中。


 でも彼は、そこまでは言わなかった。


「応えられなかった」


「理由になってません」


「今も、ここでは言えない」


「また線を引くんですね」


 口にしてから、しまったと思った。


 でも霧島部長は怒らなかった。


 むしろ、痛いところを突かれたみたいに、短く息を吐いた。


「そうだな」


 認めるんだ。


 ずるい。

 そんなふうに認められたら、責める言葉の置き場がなくなる。


「今の俺は、君の上司だ」


 俺。


 その一人称が、仕事の顔の隙間からこぼれたみたいで、私は思わず見上げてしまった。


「だから、過去を理由に君を振り回したくない」


「もう振り回されてます」


 即答してしまった。


 霧島部長が、わずかに目を見開く。


 ああ、言った。

 言ってしまった。


 でも、止まらなかった。


「初対面のふりをされて、仕事ではちゃんと見てくれて、雨の日にそんな顔をされて。こっちは毎日、昔のことを思い出して、忘れたいのか忘れたくないのかもわからなくなってます」


 息が上がる。


 恥ずかしい。会社のエントランスで、何を言っているんだ私は。大人の社会人二十六歳、情緒の勤怠管理が完全に崩壊している。


 けれど霧島部長は、逃げなかった。


 ただ、静かに聞いていた。


 それがまた、苦しい。


「私はもう、十九歳じゃありません」


 その言葉だけは、どうしても伝えたかった。


 七年前の私を否定するためじゃない。

 今の私を、ちゃんと見てほしかった。


「わかっている」


 霧島部長の声は、低く、少しだけ掠れていた。


「わかっているから、余計にいい加減には扱えない」


 胸が、熱くなった。


 これは、優しさなのか。

 それともまた、彼の臆病なのか。


 きっと両方だ。


 この人はいつもそうだ。冷たい言葉の奥に、温度を隠す。差し出すくせに、触れそうになると引っ込める。


 私は傘を持つ手に力を込めた。


「じゃあ、いつか話してください」


 霧島部長が、私を見る。


「七年前のこと。どうして断ったのか。どうして覚えていないふりをしたのか。今すぐじゃなくてもいいです。でも、なかったことにはしないでください」


 言い終えた瞬間、体の力が少し抜けた。


 逃げなかった。


 私、今、逃げなかった。


 それだけで、泣きそうになった。


 霧島部長は、長い沈黙のあと、小さくうなずいた。


「わかった」


 その二文字だけで、胸の奥に細い光が差した気がした。


 約束、なのだろうか。

 まだ信じきるには怖い。でも、何もないよりはずっといい。


 私は傘をもう一度差し出した。


「これは、いったん返します」


「いったん?」


「はい。七年前の貸し借りは終わりにしたいので」


 自分で言って、少しだけ背筋が伸びた。


「その代わり、今日の雨は、部長の傘に入れてください」


 言ってから、耳まで熱くなった。


 何を言っているの、私。

 これは業務上の合理的判断です。傘を一本返却したため手元に傘がない、したがって駅まで相合い傘を希望する、というただの物理現象です。断じてロマンチックな申し出ではありません。ないったらない。


 霧島部長は、数秒黙った。


 そして、私の手から紺色の傘を受け取った。


 指先が、ほんの少し触れた。


 冷たいはずの指が、なぜか熱く感じた。


「駅までだ」


「はい」


「会社の人間に見られたら、雨が強いから送った。それだけだ」


「はい」


「近すぎたら言え」


「……はい」


 近すぎたら言え、って。


 言えるわけがない。近いです、心臓が限界です、上司として適切な距離を保ってください、なんて口に出せる人類がいるなら紹介してほしい。


 霧島部長が黒い傘を開いた。


 雨の中へ一歩出る。


 私はその隣に入った。


 肩が触れそうで、触れない。黒い傘の内側で、雨音が近くなる。外の空気は冷たいのに、隣にある彼の体温だけがやけにはっきりしていた。


 七年前は、彼が傘を貸して、私は一人で帰った。


 今日は、同じ傘の下にいる。


 それだけで、過去が少しだけ違う形に結び直されていく気がした。


 駅までの道を、私たちは黙って歩いた。


 沈黙はまだぎこちない。でも、さっきまでみたいに苦しいだけじゃない。


 信号待ちで、霧島部長がふと足を止めた。


 横断歩道の向こう、コンビニの明かりが雨ににじんでいる。


「結城さん」


「はい」


 また名字に戻った。


 でも、今は少しだけ許せた。


「明日、昼休みのあと、十五分だけ時間をくれ」


 心臓が跳ねた。


「仕事の話ですか」


 霧島部長は答えなかった。


 代わりに、傘を持つ手を少しだけこちらへ傾けた。私の肩が濡れないように。


 その小さな動きが、答えみたいで、答えじゃない。


 信号が青に変わる。


 雨の向こうで、彼の声が静かに落ちた。


「七年前の続きを、少しだけ話す」


 足が止まりそうになった。


 七年前の続き。


 それは、私がずっと閉じ込めていた雨の日の扉が、ようやく少しだけ開く音だった。


 けれど次の瞬間、霧島部長のスマートフォンが震えた。


 彼は画面を見て、表情を変えた。


 そこに表示されていた名前を、私は見てしまう。


 三上玲子。


 そして短い通知文。


『葵さんのことで、至急』


 霧島部長の横顔から、温度が消えた。


(第6話へ続く)

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