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雨音の向こう側

 葵さん、という名前が頭から離れなかった。


 病院から電話。

 三上さんが、湊、と呼んだ声。

 霧島部長の顔から、すっと血の気が引いた瞬間。


 昨夜、家に帰ってからも、私は何度も検証設計の資料を開いては閉じた。集中しなければいけない。明日までに出すと約束した。ここで失速したら、昨日の会議で踏ん張った自分に申し訳ない。


 わかっている。


 わかっているのに、脳内の会議室では「葵さんとはどなたですか委員会」が緊急招集されていた。議題が重い。出席者は私の不安と想像力と、七年前から居座っている未練です。全員、発言力が強い。


 結局、私は深夜まで資料を直し続け、朝いちばんで企画部の共有フォルダにアップした。


 出社すると、霧島部長の席は空だった。


 いつもなら、私より早く来ている。机の上には資料が一直線に揃い、マグカップは右端、ペン立ての向きまできっちりしている。なのに今日は、椅子だけが静かに机の下へ収まっていた。


 胸の奥が、変にざわつく。


「おはよ、ひなたちゃん。顔が徹夜明けの企画書みたい」


 隣の席から、あかねさんが容赦なく刺してきた。


「おはようございます。せめて人間にたとえてください」

「人間で言うなら、寝不足と嫉妬を水で溶いた顔」

「水で溶かさないでください」


 反射で返したものの、否定しきれなかった。


 嫉妬。


 その単語だけで、耳の奥が熱くなる。


 まだ何も知らないのに。葵さんが誰かも知らないのに。私は勝手に心をざわつかせている。


 大人なのに。二十六歳の社会人なのに。仕事中なのに。


 ……恋って、どうしてこう、年齢確認をすり抜けてくるんだろう。


「部長、午前半休だって。三上さんも外出」


 あかねさんが声を落とした。


「昨日の電話?」

「たぶん」


 私は画面を見つめたまま、うなずいた。


 そこで「誰なんでしょうね」と聞けばよかったのかもしれない。けれど、口にした瞬間、自分の気持ちまで周りに漏れてしまいそうで怖かった。


 私は仕事に逃げた。


 検証設計の細部を詰める。ターゲットを既存顧客と新規流入に分け、診断の入口文言を三パターン用意する。クリック後の遷移、離脱ポイント、二週間で見られる指標。前職で死ぬほど作った資料の癖が、こんなところで役に立つ。


 役に立つなら、あの会社で泣きそうになりながら残業した日々にも、少しは意味があったのかもしれない。


 午前十一時過ぎ、共有フォルダにコメントが入った。


 霧島部長だった。


『設計の方向は妥当。二点修正。サンプル数の見込みを現実値に落とすこと。診断結果ページの訴求は営業部と事前確認』


 短い。

 冷たい。

 でも、ちゃんと読んでくれている。


 その事実だけで、胸の中の水位が少し下がった。


 午後二時前、霧島部長が戻ってきた。


 フロアの空気がほんの少し引き締まる。誰かが背筋を伸ばした音まで聞こえた気がした。氷の部長、出勤。気温マイナス二度。社内天気予報です。


 けれど、私にはわかった。


 いつもより、顔色が悪い。


 ネクタイの結び目がほんの少し緩い。目元に疲れが滲んでいる。それなのに足取りは乱れず、部下への指示もいつも通り無駄がない。


 無理をしている人ほど、平気な顔をする。


 私はその顔を知っている。前の会社で、何度も鏡の中に見た。


「結城さん」


 呼ばれて、私は立ち上がった。


「修正版、十五時までに出せる?」

「はい。営業部への確認は、私から依頼します」

「頼む」


 それだけ言って、彼は自席へ向かった。


 通り過ぎる一瞬、かすかに消毒液の匂いがした。


 病院の匂い。


 胸がきゅっと縮む。


 聞きたい。

 大丈夫ですか、と。


 でも、上司の私事に踏み込むのは違う。私たちはまだ、上司と部下だ。七年前を知っている私と、知らないふりをする彼。そこに勝手な感情を混ぜたら、仕事の場を濁してしまう。


 そう思って、私は椅子に座り直した。


 十五時前、修正版を提出した。営業部からの確認も取り、想定質問への回答メモも添えた。


 やれることはやった。


 そう思った瞬間、緊張の糸が切れたのか、喉がからからになった。私は給湯室へ向かった。


 給湯室には誰もいなかった。シンクの横で電気ポットが小さく鳴っている。窓の外は、また雨だった。細い雨がビルのガラスを曇らせ、街の輪郭をやわらかく溶かしている。


 私は紙コップにお湯を注いだ。


 湯気が立ち上る。


 その向こうに、七年前の駅前が重なった。


 濡れた前髪。震える指。好きです、と言った自分の声。返ってきた、ごめん、という静かな言葉。


 あの日も、彼はとても平気そうな顔をしていた。


 私だけが、世界の終わりみたいに泣きそうだった。


「結城さん」


 背後から声がして、私は危うく紙コップを落としかけた。


 振り返ると、霧島部長が入口に立っていた。


「すみません。お湯、使いますか」

「いや、いい」


 彼は一歩だけ中に入った。給湯室は狭い。距離が近い。近いです部長。社内の廊下幅に感謝していた人生だったのに、今ここで急に裏切られました。


 逃げ場のない湯気の中で、彼の疲れた横顔が見えた。


 私は紙コップを両手で包み込む。


 熱いはずなのに、指先はまだ冷たかった。


「あの」


 声が出てしまった。


 霧島部長の視線が、私に向く。


 黒い瞳。感情をしまい込むのが上手すぎる目。


「昨日の……葵さんは、大丈夫でしたか」


 言った瞬間、後悔した。


 踏み込みすぎた。完全に踏み込みすぎた。私の中の社会人が机を叩いている。結城ひなた、アウトです。


 けれど、霧島部長は叱らなかった。


 ただ、一瞬だけ黙った。


 その沈黙が長く感じた。雨音が、窓を細かく叩いている。


「大丈夫だ」


 低い声だった。


「検査の確認だけだった」

「そう、ですか」


 よかった。


 その一言が、喉元まで出かかった。でも、私がよかったと言うのは何か違う気がして、飲み込んだ。


 霧島部長は紙コップではなく、棚から自分のマグカップを取った。いつもの黒いマグ。けれど、コーヒーを入れる手がほんの少しだけ止まる。


「葵は」


 彼が言った。


 私は息を止める。


「妹だ」


 胸の奥で、何かが落ちた。


 安堵だった。

 でも同時に、そんな自分が恥ずかしくなった。


 妹さん。


 病院からの電話。三上さんの硬い表情。彼の血の気が引いた顔。


 そこには、私の知らない家族の時間があった。軽々しく想像して、勝手に苦しくなって、勝手にほっとしている自分が、ひどく子どもみたいに思えた。


「すみません。立ち入ったことを聞きました」


 頭を下げると、霧島部長は少しだけ眉を動かした。


「聞かれて困ることなら答えない」


 その言い方が、あまりにもこの人らしくて、私は困った。


 冷たいのに、逃げ道を作ってくれる。

 突き放すようで、ちゃんとこちらの足場を残してくれる。


「……妹さん、大事なんですね」


 ぽろりと、また余計なことがこぼれた。


 彼はマグカップを持ったまま、窓の外を見た。


「唯一の家族だから」


 その声は、とても静かだった。


 たったそれだけ。


 でも、その短い言葉の向こうに、私の知らない七年どころか、もっと長い時間があった。


 私は何も言えなくなった。


 霧島部長がこちらを見る。


「結城さん」

「はい」

「今日の修正、よかった。数字を落とした分、説得力が出た」


 不意打ちだった。


 心臓が、変な跳ね方をした。


 今ですか。ここで褒めますか。妹さんの話の余韻で私の防御力がゼロのところに、仕事の評価を投げ込むのは反則では。


「ありがとうございます」


 声が少し小さくなった。


 彼はまた一瞬黙り、ふと視線を私の手元に落とした。


「無理はするな」


「え?」


「寝不足の顔をしている」


 言われた瞬間、私は紙コップを握りしめた。


 見られていた。


 仕事だけじゃなくて、顔色まで。


 上司として当然の観察かもしれない。部下のコンディション管理かもしれない。そうだ、そうに決まっている。なのに胸の奥が勝手に温かくなるの、やめてほしい。本当にやめてほしい。私の心、業務時間外手当を請求したい。


「部長こそ、無理してませんか」


 言ってから、またしまったと思った。


 けれど今度は、彼がほんの少し目を伏せた。


「……癖だな」


 それは独り言みたいだった。


 誰に向けたものでもない、少し疲れた本音。


 私は、その言葉を胸の奥で受け止めた。


 無理をする癖。

 平気なふりをする癖。

 先に線を引く癖。


 七年前の彼も、そうだったのだろうか。


 本当は何かを抱えていたのに、私には何も見せずに、ただ静かに断ったのだろうか。


 考えた瞬間、痛みの形が少しだけ変わった。


 傷が消えたわけじゃない。あの日の私は確かに泣いた。あの言葉で、長い間、自分の気持ちを重荷みたいに扱うようになった。


 でも、彼の背中にも何かがあったのだとしたら。


 私はまだ、何も知らない。


 知りたい、と思ってしまった。


 その日の帰り、雨はさらに強くなっていた。


 会社を出る頃には、エントランスのガラスの向こうが白く煙っている。社員たちが傘を開き、駅へ向かって流れていく。


 私はバッグを探った。


 折りたたみ傘はある。


 紺色の、古い傘。


 七年前、彼が貸してくれた傘。


 何度も捨てようとした。返す相手なんてもういないと思っていた。それなのに転職初日、まさかその相手が上司として目の前に現れるなんて、人生はたまに脚本家を呼んできてほしいくらい雑に劇的だ。


 私は傘の柄に触れたまま、動けなかった。


 これを開いたら、何かがばれてしまう気がした。


 まだ言えない。

 まだ、返せない。


 そこへ、背後から足音が近づいた。


「結城さん」


 振り返ると、霧島部長が立っていた。


 黒い傘を手にしている。けれど、彼は私のバッグの中に半分だけ見えた紺色を見て、ぴたりと動きを止めた。


 ほんの一秒。


 でも、私にはわかった。


 彼の目が、確かに揺れた。


「その傘」


 低い声が、雨音の手前で止まった。


 心臓が、喉まで跳ね上がる。


 七年分の雨が、いっせいに降り出したみたいだった。


 霧島部長は、私から目を逸らさなかった。


「まだ、持っていたのか」


 その言葉で、世界が静かになった。


 初対面のふりなんて、もうできない。


 私は傘の柄を握りしめたまま、息をすることも忘れていた。


(第5話へ続く)

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