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名前で呼ぶ距離

 三上玲子さん。


 その名前は、入社前に見た組織図にも載っていた。企画部シニアマネージャー。霧島部長の直属で、大型案件をいくつも通してきた人。


 ただの肩書きなら、私だって落ち着いて受け止められたと思う。


 問題は、名前だった。


「助かった、玲子」


 低い声が、さっきから耳の奥で繰り返されている。


 玲子。


 名字ではなく、名前。


 仕事上の信頼だとわかっている。大人の社会人同士、長く一緒に働いていれば名前で呼ぶこともある。ある、はず。たぶん。いや、私の前職ではなかったけど、世の中にはある。あると言ってほしい。


 なのに胸の奥が、やけに狭い。


 七年前、私は彼のことを何も知らないまま好きになった。写真サークルに時々顔を出す、少し年上の社会人。穏やかで、聞き上手で、雨の日に傘を貸してくれた人。


 その人が、今は十二歳上の上司で、社内では氷の部長と呼ばれている。


 そして私の知らない七年の中に、三上さんがいる。


 ずるい。


 いや、ずるくない。何もずるくない。七年間、私が彼の隣にいなかっただけだ。勝手に振られて、勝手に傷ついて、勝手に忘れられないまま今日まで来たのは私である。被害者ぶっている場合ではない。


 頭ではそう整理しているのに、手の中の缶コーヒーが少しへこんだ。


「ひなたちゃん、缶に恨みでもある?」


 隣から、あかねさんの声が飛んできた。


「ありません。握力測定です」

「社内で?」

「健康経営の一環として」

「動揺してるねえ」


 にやりと笑われ、私は資料に視線を落とした。


「してません」

「してる人の『してません』だ」

「会議前で緊張してるだけです」

「それもある。で、三上さんもある」


 この人、恋愛方面の嗅覚だけ警察犬並みではないだろうか。いや、犬は悪くない。問題は私の顔面管理能力である。


 あかねさんは声を潜めた。


「三上さんは怖いけど、悪い人じゃないよ。仕事はめちゃくちゃできる。部長が唯一、真正面から相談する相手って感じ」

「唯一」

「そこだけ反応しない」


 無理です。そこだけ太字に見えました。


 その時、三上さんがこちらを向いた。


 視線が合う。


 背筋が、勝手に伸びた。


 綺麗な人だった。華やかというより、磨かれた刃物みたいに無駄がない。黒いジャケット、低いヒール、まとめた髪。表情は淡々としているのに、目だけがよく動く。人も資料も、一瞬で要点を見抜きそうな目。


 その三上さんが、私の席まで歩いてきた。


「結城ひなたさん?」

「はい。昨日から企画部に配属になりました、結城です」


 立ち上がると、三上さんは軽く頷いた。


「三上です。十五時の会議、あなたの案を使うんでしょう」

「はい……たぶん」

「たぶんは要らない。使うなら、あなたが説明できないと意味がない」


 冷たい、と思った。


 でも嫌な冷たさではない。氷水を浴びせるような冷たさではなく、熱を持ちすぎた頭を冷ますための、正確な温度。


「資料、見せて」

「はい」


 私は慌てて印刷した修正版を渡した。


 三上さんは立ったまま目を通し、二枚目で指を止めた。


「ここ。ターゲットの切り方はいい。でも、既存顧客に寄せすぎ。新規獲得の導線が弱い」

「あ……はい」

「会議ではそこを突かれる。答えを用意して」


 的確だった。悔しいくらいに。


 胸の中の嫉妬が、少しだけ形を変える。


 この人は、霧島部長に名前で呼ばれる距離にいる人。


 そして、それだけの仕事をしてきた人。


 私はまだ、そこに嫉妬する資格すらないのかもしれない。


「ありがとうございます」


 頭を下げると、三上さんがほんの少しだけ目を細めた。


「霧島が新人の案を二日目で会議に出すなんて珍しい。見込みがなければやらない人だから」


 霧島。


 また、呼び捨て。


 心臓が忙しい。仕事のアドバイスで浮上したと思ったら、呼び方で急降下する。私のメンタルはジェットコースターか。


 三上さんは資料を返して、短く言った。


「期待されてるんじゃない。試されてる。間違えないで」


 その言葉で、浮つきかけた胸がすっと落ち着いた。


 そうだ。


 彼が私にくれたのは、特別扱いではない。


 仕事を見せる機会だ。


 だったら、過去の恋だとか、名前の距離だとか、今は全部机の下に押し込むしかない。いや、押し込めるかな。はみ出してくる気配はある。けれど、はみ出したら足で戻す。社会人だから。


 十五時。


 会議室の空気は、フロアより二度くらい低く感じた。


 長いテーブルに、各チームのリーダーたちが並ぶ。霧島部長は上座に座り、隣に三上さん。その向かい側に、私は資料を抱えて座った。


 中途入社二日目の人間が座るには、あまりにも胃に悪い席である。胃薬の広告に出られそうだ。


 霧島部長が会議を始める。


 声は相変わらず低く、無駄がない。


「新規キャンペーン案について、結城さんから補足してもらう」


 一斉に視線が集まった。


 喉が乾く。


 資料の端を持つ指に力が入る。


 その時、霧島部長がこちらを見た。


 表情は厳しい。甘さなんてどこにもない。


 でも、その視線は逃げ場を奪うものではなかった。


 ちゃんと立て。


 そう言われた気がした。


「結城です。今回の案では、既存顧客の購買履歴を起点に、購入頻度が落ちている層への再接触を軸にしています。ただし、既存顧客だけでは伸び幅が限られるため、同じ導線を新規向けにも転用します」


 最初の一文が出ると、少し呼吸が戻った。


 午前中に何度も直した言葉が、口から出ていく。怖い。怖いけれど、昨日までの私みたいに語尾を曖昧にしたくなかった。


「具体的には、比較記事から診断コンテンツへ誘導し、結果に応じて商品を出し分けます。広告の入口は広く、購入前の不安解消は細かく。最終的に既存向けのシナリオと同じ分析基盤に乗せることで、運用工数を増やさずに検証できます」


 言い終えた瞬間、向かいの男性課長が眉を上げた。


「理屈はわかるけど、診断コンテンツって流行りものだよね。中途の人にはわからないかもしれないけど、うちの顧客は保守的だから」


 中途の人。


 言葉の端が、ちくりと刺さった。


 私の前職でも、似たような言い方をされたことがある。若いから。女の子だから。外から来たから。どうせわかっていないから。


 胸の奥で、古い癖が顔を出す。


 すみません、私の考えが浅くて。


 そう言えば、場は丸く収まる。傷つく前に自分を小さくすれば、誰もそれ以上踏み込んでこない。


 でも。


 上司として、今の結城さんの仕事を見る。


 今朝の声が、胸の奥に残っていた。


 私は資料を一枚めくった。


「保守的だからこそ、診断という形式が有効だと考えています」


 声が震えなかった。自分でも驚いた。


「こちらは前職で扱った別業種の数字ですが、商品名を前面に出した広告より、課題確認型の入口のほうが離脱率が低くなりました。売り込みではなく、自分で選んだ感覚を持ってもらえるからです。御社……いえ、当社の顧客にも、その仮説は検証する価値があります」


 御社と言いかけた。危ない。入社二日目感が全力で出た。今のは心の中で反省会行きです。


 会議室が少し静かになる。


 三上さんが、資料に目を落としたまま言った。


「検証範囲を限定すれば、予算内で試せますね」


 援護、だった。


 霧島部長が続ける。


「最初から全展開はしない。二週間、既存向けと新規向けでABテストを組む。結城さん、明日までに検証設計を出して」


「はい」


 返事をした瞬間、胸の奥で何かがほどけた。


 採用された、とは言えない。まだ試すだけ。結果が出なければ終わる。


 でも、案として机の上に残った。


 私の言葉が、消されずに残った。


 会議が終わると、体から一気に力が抜けた。廊下に出たところで、あかねさんが親指を立てて待っていた。


「やるじゃん、中途の人」

「その呼び方やめてください。膝にきます」

「でも言い返したの、よかったよ」

「言い返したというか、資料を読んだだけです」

「それができない日もあるでしょ」


 何気ない一言が、妙に胸に沁みた。


 そうだ。できない日もあった。


 だから今日、できたことをなかったことにしなくていい。


 その日の夕方、私は検証設計の下書きに取りかかった。集中していたつもりだったのに、ふと顔を上げると、フロアには人がまばらになっていた。


 窓の外は、いつの間にか雨だった。


 細い雨粒がガラスを伝っている。梅雨の湿った匂いが、空調の隙間から忍び込んでくる。


 雨。


 七年前の記憶は、いつも雨の音から始まる。


 告白した日の、濡れた駅前。彼の紺色の傘。返せないままの、私の初恋。


 バッグの奥に、今も折りたたまれているあの傘の感触を思い出して、胸が苦しくなった。


「結城さん」


 突然名前を呼ばれ、肩が跳ねた。


 霧島部長が、私のデスクの横に立っていた。


「会議、よく答えた」


 それだけだった。


 たったそれだけ。


 なのに、心臓が馬鹿みたいに跳ねた。褒め言葉としては省エネにもほどがある。もう少し装飾を足してくれてもいいのでは。いや、足されたら足されたで私はたぶん椅子から落ちる。


「ありがとうございます」


 できるだけ落ち着いて返した。


 霧島部長の視線が、私の手元に落ちる。空になった白い缶コーヒーが、デスクの隅に置いてあった。


 彼は一瞬だけ黙った。


「……甘さ、変わってなかった?」


 呼吸が止まるかと思った。


 変わってなかった。


 その言い方は、おかしい。


 初めて渡したものなら、味を知っている前提にはならない。


 七年前の駅の自販機。私が、これがちょうどいいんです、と笑った午後。彼が少しだけ口元を緩めたこと。


 覚えている。


 やっぱり、この人は覚えている。


 胸の奥に、熱いものが込み上げた。


「あの、部長」


 聞きたい。


 どうして忘れたふりをするんですか。


 どうして、初対面みたいな顔をするんですか。


 どうして七年前、あんなに静かに私を置いていったんですか。


 言葉が喉まで来た、その時だった。


「湊」


 廊下側から、三上さんの声がした。


 霧島部長の表情が、すっと仕事の顔に戻る。


 三上さんはスマートフォンを手に、珍しく硬い表情をしていた。


「病院から電話。葵さんの件で確認したいって」


 葵。


 知らない名前が、雨音の中に落ちた。


 霧島部長の顔から、わずかに血の気が引いたように見えた。


「……わかった」


 彼は私に一度だけ視線を戻した。


 何か言いかけて、やめた。


 そして三上さんと並んで、足早にフロアを出ていく。


 私は空の缶コーヒーを握りしめたまま、動けなかった。


 雨の向こうに、私の知らない七年がまたひとつ、扉を開けた気がした。


(第4話へ続く)

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