八時半の部長室
朝八時二十分。
私はミナト商会のエントランスで、社員証を握りしめたまま深呼吸していた。
昨日の夜、霧島部長から届いた社内チャット。
『明日の朝八時半、部長室に来て。二人で話したいことがある』
あれから何度読み返したかわからない。読み返したところで文字は増えないし、行間から答えが浮かび上がるわけでもない。なのに私は、寝る前も、夜中に目が覚めた時も、今朝の電車でも、ずっとその一文を見ていた。
二人で話したいこと。
その傘、の続きだろうか。
それとも昨日の資料のダメ出しだろうか。
いや、部長室に呼び出される初出勤二日目の中途社員、どう考えても恋愛イベントより人事イベントの香りが強い。落ち着け、結城ひなた。会社は乙女ゲームではない。現実は勤怠と稟議とエクセルでできている。
そう自分に言い聞かせても、胸のあたりがずっとそわそわしていた。
企画部のフロアはまだ人が少ない。蛍光灯の白い光、起動し始めたパソコンの小さな音、窓ガラスに残る雨粒。昨日の雨は上がったのに、空はまだ重たい灰色だった。
「おはよう、ひなたちゃん。顔、硬っ」
声をかけてくれたのは来栖あかねさんだった。昨日、隣の席で色々助けてくれた一つ年上の先輩。ふわっとした茶色の髪に、仕事のできる人特有の軽やかな目をしている。
「おはようございます。硬いですか」
「うん。新製品発表前の営業部長くらい硬い」
「それ、かなりですね」
「かなりだね。で、何かあった?」
私は一瞬迷った。昨日の社内チャットのことを言うべきか。いや、まだ何もわからないのに騒ぐのは違う。社会人二十六歳、早とちりで墓穴を掘る歳ではない。たぶん。できれば。
「ちょっと、部長に呼ばれていて」
「霧島部長に?」
「はい。八時半に」
あかねさんの眉がぴくりと動いた。
「初日で部長室呼び出し。なかなか濃いね」
「やっぱりそう思います?」
「でも、怒るならフロアで一刀両断する人だから。部長室ってことは、たぶん怒るだけじゃない」
それは励ましなのか、不安材料なのか。
私は曖昧に笑って、バッグを置いた。引き出しに入れかけた紺色の傘が、視界の端に入る。昨日の夜、彼があの傘を見た瞬間の顔がまたよみがえった。
温度が消えたみたいな、あの表情。
忘れている人は、あんな顔をしない。
でも、覚えている人なら、どうして初対面だなんて言ったの。
八時二十九分。
部長室の前に立つと、心臓が本当にうるさかった。これ、ドア越しに聞こえていないだろうか。聞こえていたら労災申請したい。心臓の過重労働で。
ノックを三回。
「どうぞ」
短い声が返ってきた。
ドアを開けると、霧島部長はデスクの向こうで資料を読んでいた。濃いグレーのスーツ、きちんと締められたネクタイ、隙のない横顔。昨日と同じ冷たい空気をまとっているのに、なぜか眠そうにも疲れているようにも見えた。
「おはようございます」
「おはよう。座って」
示された椅子に腰を下ろす。デスクの上には、昨日私が送った資料が印刷されて置かれていた。赤字が入っている。思ったより多い。朝から心が正座した。
「昨日の資料、見た」
「はい」
「初日にしては悪くない」
……え。
今、褒められた?
氷の部長から?
小さすぎて聞き逃しそうな褒め方だったけれど、確かに「悪くない」と言った。社会人五年目、前職では褒め言葉が都市伝説みたいな扱いだった私には、それだけで少し胸が熱くなる。
「ありがとうございます」
「ただし、このままでは通らない」
「はい」
ですよね。現実は甘くない。さっきの一滴の蜂蜜を一瞬でブラックコーヒーにされた。
霧島部長は赤字の入った資料を私の前に置いた。
「仮説はいい。市場の拾い方も悪くない。けど、社内を動かすための言葉になっていない。結城さんは、相手に否定される前提で書いてる」
指先が紙面の一文をなぞる。
『可能性があります』
『検討の余地があります』
『一定の効果が見込まれます』
並べられると、逃げ腰の見本市みたいだった。
「……癖です」
「だろうね」
即答された。容赦がない。
「前の会社で、強く言い切ると潰されることが多かったので。自分の案を守るために、先に逃げ道を作ってました」
口にしてから、しまったと思った。
転職二日目の上司に前職の愚痴みたいなことを言うなんて、よくない。しかも相手は霧島湊だ。七年前、私の気持ちを一言で終わらせた人。弱いところなんて見せたくないのに。
けれど彼は、すぐには何も言わなかった。
沈黙。
長くはない。でも、逃げ出したくなるには十分な間。
「守るために身につけた癖なら、すぐには消えない」
低い声だった。
「ただ、ここでは結城さんの案として出していい。否定される前に、自分で小さくする必要はない」
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
仕事の話だ。わかっている。上司として部下に助言しているだけ。なのに、その言葉は七年前の私にも届いてしまった。
自分の気持ちを、小さくしなくていい。
そう言われたみたいで、息が浅くなる。
「……はい」
声が少し震えた。
霧島部長は目を伏せた。昔と同じ、言葉を選ぶ時の癖。
私は、膝の上で手を握りしめた。
今なら聞けるかもしれない。
昨日の傘のこと。七年前のこと。本当に覚えていないのかということ。
でもここは会社で、彼は上司で、私は部下だ。八時半の部長室は、思い出を問い詰める場所じゃない。
そう思ったのに、口が勝手に動いた。
「あの、昨日の」
霧島部長の視線が上がる。
鋭くて、静かで、逃げ場のない目。
「傘のことですけど」
言ってしまった。
心臓が一拍、遅れた。
「部長は、あの傘に見覚えがあるんですか」
部屋の空気が止まった。
窓の外で、ビル風が低く鳴る。デスクの上の時計の秒針だけがやけに大きく聞こえた。
霧島部長は私を見ていた。何かを言おうとして、唇を少し開く。けれど言葉は出てこない。
その沈黙だけで、答えみたいだった。
「……似た傘を、昔見たことがある」
ようやく落ちた声は、いつもより少し掠れていた。
「昔、ですか」
「学生の頃の知人が持っていた」
知人。
その二文字が、胸に刺さった。
七年前、私は彼にとって知人だったのだろうか。半年も追いかけて、話しかけるだけで一日が光って見えて、雨の日に震えながら告白した相手にとって、私はただの知人だったのだろうか。
いや、待って。落ち着け。これは自爆の香りがする。勝手に傷ついて勝手に沈むのは、十九歳の私が散々やったやつだ。
私は背筋を伸ばした。
「その知人のこと、覚えているんですね」
霧島部長の瞳が、ほんの少し揺れた。
氷みたいな人の、その下に水があるとわかってしまう瞬間だった。
「……仕事中だ」
返ってきたのは、線を引く声だった。
「過去の話をするために呼んだわけじゃない」
わかっている。
わかっているけれど、胸が痛い。
まただ、と思った。
七年前も、彼はそうやって線を引いた。やさしい理由があるのかもしれない。私を困らせないためかもしれない。でも、線のこちら側に残される私は、いつも理由を知らないままだ。
「すみません」
私は頭を下げた。
「公私混同しました」
言葉にすると、思ったより苦かった。
霧島部長が息を飲んだ気配がした。
「結城さん」
「資料、今日中に直します。社内を動かす言葉にします」
顔を上げる。
泣かない。ここで泣いたら、七年前の続きになってしまう。私はもう十九歳じゃない。逃げ道ばかり作っていたとしても、ちゃんと働いて、ちゃんと自分の足でここまで来た二十六歳だ。
「見ていてください。過去じゃなくて、今の私を」
言ってから、耳まで熱くなった。
何を言っているの、私。仕事の決意表明にしては情緒が重い。朝八時半から部長室で青春を再放送しないでほしい。
けれど霧島部長は、笑わなかった。
むしろ、痛そうな顔をした。
「……見るよ」
短い一言。
「上司として、今の結城さんの仕事を見る」
上司として。
そこを強調されたのに、不思議とさっきほど痛くなかった。彼が逃げたようにも聞こえたけれど、同時に約束みたいにも聞こえたから。
私は資料を受け取って立ち上がった。
「失礼します」
ドアに手をかけた時、後ろから声がした。
「結城さん」
振り返る。
霧島部長はデスクの引き出しを開け、小さな缶コーヒーを一本取り出した。白い缶。甘さ控えめのカフェラテ。
「持っていって」
「え」
「朝から何も飲んでない顔をしてる」
そんな顔ってどんな顔ですか、と言いたかった。でも言えなかった。
その缶コーヒーを、私は知っていた。
七年前、写真サークルの合宿帰り、駅の自販機で私がいつも買っていたもの。甘すぎるのは苦手で、でもブラックは飲めなくて、これがちょうどいいと話したことがある。
たった一度だけ。
彼の前で。
指先が缶に触れた瞬間、冷たい金属の向こうに、ありえないくらい熱いものが走った。
「……ありがとうございます」
霧島部長はもう資料に目を落としていた。
でも、その耳の端がほんの少し赤いように見えたのは、私の願望だろうか。
部長室を出ると、廊下の空気が急に現実に戻った。私は缶コーヒーを両手で包み、しばらくその場に立ち尽くした。
覚えている。
たぶん、覚えている。
傘も、コーヒーも、もしかしたら私のことも。
なのに、彼は覚えていないふりをする。
その理由がわからないから、胸がざわつく。期待したくないのに、期待してしまう。こんなのずるい。忘れたふりをするなら、証拠を落とさないでほしい。名探偵じゃないんだから、私に拾わせないでほしい。
席に戻ると、あかねさんがすぐに身を乗り出してきた。
「生還した?」
「しました」
「その手のコーヒーは?」
「支給品です」
「部長室って自販機だったっけ」
鋭い。恋愛偏差値の高い人は、こういうところで容赦がない。
私は曖昧に笑って、資料を開いた。
赤字だらけの紙面。不思議と、昨日ほど怖くなかった。
否定される前に、自分で小さくしなくていい。
その言葉が、胸の奥で静かに灯っていた。
午前中いっぱい、私は資料を直した。濁した言葉を削り、根拠を足し、結論を前に出す。怖かった。断定するたびに、どこかから「何様?」と笑われる気がした。でも、そのたびに部長室での彼の声を思い出した。
ここでは、案として出していい。
昼過ぎ、修正版を霧島部長に送る。
五分後、チャットが返ってきた。
『十五時の会議で使う。結城さんも出て』
え。
十五時。
全体企画会議。
昨日まで社外の人間だった私が、二日目で?
胃がきゅっと縮む。けれど同時に、心臓の奥で小さく火がついた。
見ていてください。
自分で言ったのだ。
だったら、見せるしかない。
私は深呼吸して、返信欄に指を置いた。
『承知しました』
送信した直後、フロアの入口が少しざわついた。
顔を上げると、すらりとした女性が入ってくるところだった。黒いジャケットに、無駄のない歩き方。周囲の社員が自然と背筋を伸ばす。
「あ、三上さん戻ってきたんだ」
あかねさんが小さく呟いた。
「三上さん?」
「三上玲子さん。部長の右腕。あの人、霧島部長のことならたぶん社内で一番知ってる」
その女性が、まっすぐ霧島部長の席へ向かった。
彼は彼女を見ると、ほんの少しだけ表情を緩めた。
ほんの少し。
けれど昨日から今日まで、私には一度も向けられていない種類の、気を許した顔だった。
胸の奥が、ちくりとした。
三上さんが何かを差し出す。霧島部長はそれを受け取り、低い声で言った。
「助かった、玲子」
名字ではなく、名前。
私は手元の甘さ控えめの缶コーヒーを、ぎゅっと握りしめた。
七年前の初恋が終わっていなかった音がしたばかりなのに。
今度は、知らない七年が目の前に立っていた。
(第3話へ続く)




