氷の部長は、忘れたふりをする
転職初日の朝、東京は梅雨らしい雨だった。
駅の階段を上がった瞬間、湿った空気が頬にまとわりついてくる。新品のパンプスはまだ足に馴染まず、肩にかけたバッグは妙に重い。中には入社書類と、折りたたみ傘と、そして——七年前から捨てられない、紺色の長傘が入っている。
いや、正確にはバッグから少しだけはみ出している。社会人六年目にもなって、初日に荷物の配分を間違えるなんてどうかしている。
でも、今日だけは持ってきたかった。
新しい会社。新しい仕事。もう一度、ちゃんと自分を立て直す日。
だから、あの傘をお守りみたいに持ってきた。七年前、好きだった人が貸してくれた傘。結局、返せないまま、私の部屋の隅で季節を重ねてしまった傘。
「……重い女みたいじゃん」
小さく呟いて、私は慌てて口を閉じた。朝のオフィス街で独り言は危険だ。しかも内容が重い。物理的にも精神的にも。
ミナト商会のビルは、雨に濡れて銀色に光っていた。受付で名前を告げ、入館証を受け取る手が少し震える。前の制作会社では、終電と胃薬と「これ、今日中にお願い」が三点セットだった。五年働いて、企画書の作り方も、謝罪メールの角の取り方も覚えた。でも、評価だけはいつも誰かの後ろに置かれていた。
だから転職した。
逃げたんじゃない。たぶん。いや、半分くらいは逃げた。でも半分は、ちゃんと進みたかった。
「結城ひなたさん?」
エレベーターホールで声をかけられた。振り向くと、明るいブラウンの髪をひとつにまとめた女性が、社員証を揺らして立っていた。
「はいっ、結城です!」
「そんな体育会系に返事しなくて大丈夫。私、来栖あかね。企画部で隣の席になる予定」
「あ、よろしくお願いします」
「こちらこそ。緊張してる?」
「してません」
「即答がもうしてる」
あかねさんは笑って、私の肩のあたりをちらりと見た。
「傘、二本持ち?」
「あっ、これは、その、念のためです。梅雨なので」
「準備いいね」
準備がいいわけじゃない。未練がましいだけです、とは言えなかった。
企画部のフロアは、思っていたより静かだった。電話の声も、キーボードの音も、低い温度で整っている。机の島がいくつも並び、奥の窓際に一つだけ少し離れたデスクがある。
「あそこが部長席」
あかねさんが声を潜めた。
「うちの部長、仕事はめちゃくちゃできるけど、通称“氷の部長”だから」
「氷」
「無駄話ゼロ、忖度ゼロ、企画書の穴は一ミリ単位で刺してくる。でも理不尽ではない。そこだけは救い」
氷の部長。
私はその言葉を頭の中で反芻した。前の会社にも鬼みたいな上司はいた。怒鳴る、詰める、深夜に連絡してくる、三拍子そろった悪い意味での職人芸。今さら氷くらいで怯えてどうする。こちらは冷凍庫経験者だ。
「部長、会議から戻ったら紹介するね」
「はい」
その瞬間、フロアの入口が開いた。
雨の匂いと一緒に、黒いスーツの男性が入ってくる。背が高く、無駄のない歩き方。濡れた前髪を指先で払う仕草に、周囲の空気がわずかに引き締まった。
胸の奥が、音を立てて止まった。
嘘。
そんな、まさか。
七年前より、少しだけ頬の線が鋭くなっている。けれど、伏せた目の形も、まっすぐ人を見る時の静かな圧も、何も変わっていなかった。
霧島湊さん。
大学の写真サークルに時々顔を出していた、十二歳上の社会人OB。十九歳の私が、半年かけて好きになって、雨の日に告白して、静かに振られた人。
忘れたくても忘れられなかった、私の初恋の人。
「霧島部長、お疲れさまです」
誰かの声で、私はようやく呼吸を思い出した。
霧島さん——いや、霧島部長は、短く頷いてこちらへ歩いてくる。近づくたびに、心臓が勝手に暴れ出す。待って。今の私、初日用のちゃんとした顔できてる? 変な顔してない? 七年前の告白現場みたいな顔になってない?
「あ、部長。今日から中途で入る結城ひなたさんです」
あかねさんの紹介に、私は慌てて頭を下げた。
「本日よりお世話になります、結城ひなたです。前職では制作会社で企画と進行管理を担当していました。よろしくお願いいたします」
言えた。噛まなかった。社会人として勝った。恋心としては瀕死だけど。
ゆっくり顔を上げる。
霧島部長の視線とぶつかった。
その瞬間、彼の瞳がほんのわずかに揺れた、気がした。
でも次の瞬間には、もう氷みたいに凪いでいた。
「霧島湊です。企画部長をしています」
低い声。
七年前、雨音の下で聞いた声と同じだった。
「結城さん」
「はい」
彼は、私を見て、言った。
「初対面だよね?」
胸の真ん中を、細い針で刺されたみたいだった。
初対面。
その四文字が、七年分の記憶の上に冷たく落ちる。
あの日の雨。震える手。貸してくれた紺色の傘。返す口実がほしくて、何度もメッセージを打っては消した夜。最後に聞いた「ごめん。君の気持ちには応えられない」という声。
私だけが覚えていたの?
私だけが、あの傘を捨てられなかったの?
喉の奥がきゅっと狭くなる。けれど、ここは職場で、私は二十六歳の社会人で、今日からこの人の部下だ。
泣くな。固まるな。七年前の十九歳を、ここに連れてくるな。
「……はい。初めまして」
笑えたかどうか、自信はない。
霧島部長は一度だけ瞬きをして、「よろしく」と短く言った。
それだけだった。
午前中は、部署の説明と社内システムの設定で過ぎた。あかねさんは面倒見がよくて、わからないことを聞くとテンポよく教えてくれる。おかげで仕事の緊張は少しずつほどけていった。
ただ、斜め奥の部長席だけは視界から消えない。
パソコン画面を見ていても、資料をめくっていても、ふとした瞬間に彼の横顔を探してしまう。良くない。非常に良くない。初日から上司の観察日記をつける女になるな、結城ひなた。
昼前、霧島部長が私の席に一枚の資料を置いた。
「午後三時までに、この既存企画の改善案を三案出して」
「今日、ですか?」
「中途採用なら、慣れるより先に手を動かした方が早い」
冷たい。噂どおり冷たい。
でも、資料には必要なデータの場所が付箋で示されていた。社内システムのどの階層に入ればいいか、赤字で小さく書き込まれている。
……優しいのか厳しいのか、どっちかにしてほしい。心臓の処理能力に限界がある。
「承知しました」
私は背筋を伸ばした。
やるしかない。過去の恋に殴られている場合ではない。私はここへ仕事をしに来たのだ。
午後三時、提出した改善案は、五分後に戻ってきた。
「二案目は使える。一案目はターゲットが広すぎる。三案目は数字の根拠が弱い」
「はい」
「ただ、視点は悪くない」
その一言に、変なところが熱くなった。
前の会社では「悪くない」はだいたい「でも採用しない」の枕詞だった。なのに霧島部長の声には、妙な重みがあった。ちゃんと見たうえで、必要なところだけを言っている。
「二案目をベースに、明日の朝までに一枚にまとめて。会議にかける」
「明日の朝」
「無理なら言って」
試されている、と思った。
たぶん仕事として。部下として。初恋の相手としてではなく。
だから私は頷いた。
「できます」
霧島部長は少しだけ目を細めた。
「そう」
それだけ言って、自席へ戻っていく。
その背中を見ながら、私は唇を結んだ。忘れられていたことは痛い。正直、かなり痛い。七年経っても、心の古傷はちゃんと反応するらしい。人体って律儀すぎる。
でも、仕事でまで負けたくない。
定時を過ぎ、フロアの人が一人、また一人と帰っていった。あかねさんも「無理しすぎないでね」と言って先に退勤した。私は資料とにらめっこしながら、数字の根拠を組み直す。
気づけば、窓の外は夜の雨だった。
オフィスには、私と霧島部長だけが残っていた。
静かすぎる。
キーボードの音と、遠くの雨音と、時々彼がマグカップを置く小さな音。その全部が、妙に近く聞こえる。
十九歳の私なら、この沈黙だけで息ができなくなっていたと思う。二十六歳の私は違う。ちゃんと仕事をしている。ちゃんと大人になっている。
そう思った矢先、画面の数字がぼやけた。
疲れたのだ。そう、疲れただけ。決して「初対面だよね?」が胸に刺さり直したわけではない。ないったらない。
「結城さん」
突然声をかけられ、私は椅子の上で跳ねそうになった。
「はいっ」
「肩に力が入りすぎ」
「え」
霧島部長が、いつの間にか隣に立っていた。近い。パソコン画面を覗き込むために少しかがんだ彼の袖口から、清潔な洗剤とコーヒーの匂いがした。
近い。七年前より近い。いや、職場の指導距離としては普通なのかもしれないけど、私の心臓にとっては普通ではない。
「ここ。根拠にするなら昨年比より、導入店舗別の伸び率を見た方がいい」
「あ、はい」
「あと、この言い回し」
彼の指が画面を指す。私の手元のマウスに触れそうで触れない距離。ほんの数センチなのに、体温が伝わってきそうで、息を止めてしまう。
「結論を先に置く癖はいい。でも、言葉が少し逃げてる」
逃げてる。
胸の奥が跳ねた。
「……逃げてますか」
「断定できるところで濁してる。自信がないように見える」
鋭い。仕事の話なのに、私の中身まで見透かされた気がした。
私は画面を見つめたまま、小さく息を吸った。
「直します」
霧島部長は何か言いかけて、やめた。
その沈黙が、妙に引っかかった。
昔もそうだった。彼は言葉を選ぶ時、一瞬だけ目を伏せる。相手を傷つけない言葉を探しているようで、結局いちばん必要なことを言わない人だった。
「十分やったら帰って。初日から潰れる必要はない」
「でも、明日の朝までに」
「仕上げは俺が確認する。送っておけばいい」
冷たい声なのに、内容は優しい。
ずるい。
忘れたふりをするなら、そんなふうに優しくしないでほしい。
なんとか資料をまとめ、送信したのは二十一時前だった。霧島部長は「受け取った」とだけ言って、先にエレベーターへ向かった。
私も慌てて荷物をまとめる。ロッカーから紺色の傘を取り出した時、指先が少し震えた。七年前の傘。今日、彼はこれに気づいただろうか。いや、気づいていない。だって初対面なのだから。
ビルのエントランスを出ると、雨は朝より強くなっていた。
霧島部長が、軒先で足を止めていた。手には黒い折りたたみ傘。私は少し離れて、自分の紺色の傘を開こうとした。
「結城さん」
呼ばれて顔を上げる。
雨の向こうで、彼が私の手元を見ていた。
紺色の傘を。
ほんの一瞬、彼の表情から温度が消えた。
見間違いじゃない。
霧島部長は、確かに息を止めた。
「その傘」
心臓が、強く打つ。
雨音が遠くなる。
「……どうかしましたか」
私の声は、自分でも驚くほど小さかった。
彼は長い沈黙のあと、視線を外した。
「いや。濡れるから、早く帰って」
それだけ言って、黒い傘を開く。
でも私は、その場から動けなかった。
覚えていないはずの人が、どうしてそんな顔をするの。
初対面だと言った人が、どうしてその傘を見て、苦しそうに黙るの。
雨の中を歩き出した彼の背中を見つめながら、私は紺色の傘の柄を握りしめた。
七年前に終わったはずの初恋が、終わっていなかった音がした。
そしてその夜、私のスマホに社内チャットの通知が届いた。
差出人は、霧島湊。
『明日の朝八時半、部長室に来て。二人で話したいことがある』
(第2話へ続く)




