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雨の前の缶コーヒー

 十五時までに修正版を出す。


 たったそれだけのことなのに、午前中の私は、まるで綱渡りをしている人みたいだった。


 資料を開き、赤字を直し、比較軸を三つに絞る。言葉で書けば簡単だ。けれど実際には、削った一文のせいで前後のつながりが崩れ、入れ替えたグラフのせいで根拠の見せ方が変わり、私は何度も画面の前で固まった。


「結城さん、大丈夫ですか?」


 隣の席から羽田くんが小声で覗き込んでくる。


「大丈夫。たぶん。いや、大丈夫にする」


「それ、大丈夫じゃない人の言い方です」


 ぐうの音も出ない。


 私はマウスを握ったまま、薄く笑った。


「十五時までに鬼へ献上しなきゃいけない供物だから」


「供物って」


「出来が悪いと、たぶん氷漬けにされる」


「部長、そんなファンタジーな怒り方しませんよ」


 そう言いながら、羽田くんは私の資料をちらりと見て、「ここ、数字の出典を脚注に寄せたほうが見やすいかもです」と教えてくれた。


 年下なのに、こういうところがまっすぐで頼もしい。私は素直に礼を言って、該当箇所を修正する。


 でも、視界の端にはずっと、斜め前の部長席があった。


 霧島部長は、いつも通り背筋を伸ばしてPCに向かっている。指先が迷いなくキーボードを叩き、時々止まり、資料に目を落とす。その横顔は近寄りがたくて、会議室で「悪くない」と言った人と同じ人物だとは思えないくらい冷たい。


 なのに。


 傘。


 今日は降る。


 あの短い声が、まだ耳の奥に残っていた。


 仕事に集中しろ、私。


 上司の天気予報一つで胸を乱している場合ではない。社会人六年目。いい大人。しかも相手は直属の上司。ついでに七年前、私をきれいに振った初恋の人である。


 ……ついで、が重すぎる。


 私は深呼吸して、画面に視線を戻した。


 十二時を少し過ぎた頃、三上さんが私の席に来た。


「結城さん、進捗は?」


「比較軸の整理は終わりました。今、最後の導線を直しています」


「見せて」


 私は慌てて椅子を引く。三上さんは私の横に立ち、画面を覗き込んだ。香水ではなく、清潔な柔軟剤みたいな匂いがふわりとした。


「ここ、いいわね。朝よりずっと伝わる」


「本当ですか?」


「ええ。ただ、この一枚だけ少し欲張ってる。言いたいことが二つ入ってるから、部長なら削れって言うと思う」


「ですよね……」


 部長なら、が妙に具体的で、私は苦笑した。


 三上さんは画面から目を離さず、淡々と続ける。


「霧島さん、言い方は冷たいけど、見ているところは正確よ。余計なものを落とせば、あなたの企画はちゃんと残る」


「……はい」


「怖がって、全部無難にしないで」


 その言葉に、指が止まった。


 怖がって、全部無難にしないで。


 まるで、資料の話だけではないみたいに聞こえた。


 顔を上げると、三上さんは少しだけ笑っていた。からかうでもなく、見透かすでもなく、ただ私が気づくのを待っているような目だった。


「三上さんは、部長と長いんですか?」


 聞いてから、しまったと思った。


 仕事の文脈なら自然な質問だ。でも私の声には、たぶん余計なものが混じっていた。


 三上さんは一瞬だけ目を細めた。


「長いと言えば長いわね。あの人がまだ係長だった頃から知ってる」


「そうなんですね」


「でも、結城さんが想像しているような話はないわよ」


「なっ、何も想像してません!」


 声が裏返った。


 近くの羽田くんがびくっとこちらを見る。私は咳払いで誤魔化した。誤魔化せていない自信だけはある。


 三上さんは楽しそうに眉を上げた。


「そう。ならいいけど」


 大人だ。大人の余裕だ。私より九歳上の女性の、しなやかな強さ。ああいう人が部長の隣に立っていたら、そりゃ似合う。仕事の呼吸も合っている。言葉少なな部長の意図を、三上さんは先に読んで動ける。


 胸の奥が、少しだけちくりとした。


 何に対して?


 わからないふりをするのは、もう得意技みたいになっている。


「結城さん」


「はい」


「今は資料。十五時、遅れないでね」


「はいっ」


 三上さんが去ったあと、私は頬を両手で軽く押さえた。


 仕事。仕事だ。


 でも心というものは、どうしてこうも勝手なのだろう。会議室で褒められた四文字を思い出し、傘の一言を思い出し、三上さんとの距離に勝手に胸を痛める。


 七年前に置いてきたはずの感情が、社内の空調みたいにじわじわ戻ってくる。


 止め方を、私はまだ知らない。


 十五時五分前。


 私は修正版の資料を印刷し、会議室Bへ向かった。指先が少し冷えている。雨が近いせいか、窓の外の空は昼間なのに重たい灰色だった。


 会議室には、すでに霧島部長がいた。


「遅れていません」


 入るなりそう言ってしまい、私は自分で自分に絶望した。


 部長が顔を上げる。


「時計は読める」


「……はい」


 穴があったら入りたい。できれば資料ごと。


 私は向かいの席に座り、印刷した資料を差し出した。部長は受け取ると、無言でページをめくり始める。


 紙の音だけがする。


 ひとつめくる。


 また、ひとつ。


 沈黙が長い。長すぎる。私の心臓は、会議室の壁に貼ってある避難経路図まで聞こえるんじゃないかという勢いで鳴っていた。


 部長の指が、三枚目で止まった。


「ここ」


「はい」


「朝よりいい」


 息を吸うのを忘れた。


「ただし、最後の提案に行く前の一文が弱い。根拠から結論へ飛んでいる。読み手の納得を一段挟め」


「はい」


「グラフはこれでいい。数字の見せ方も直ってる」


「はい」


「全体としては、通せる」


 通せる。


 その言葉が胸の中で、ゆっくり広がった。


 よかった。


 叫びそうになった。もちろん叫ばない。会議室で二十六歳会社員が「よかったああ」と崩れ落ちるのは、さすがに今後の評価に関わる。


 でも、膝の力は少し抜けた。


「ありがとうございます」


「礼を言う前に、最後まで詰めろ。提出は十七時」


「はい」


 やっぱり冷たい。


 けれど、その冷たさが今日は少しだけ頼もしい。浮かれそうになる私の足元を、きちんと仕事の地面に戻してくれる。


 私は資料を受け取ろうとして、部長の手元に視線を落とした。


 その瞬間、部長の指先が、私の指にほんの少し触れた。


 紙一枚を挟んだだけの、偶然みたいな接触。


 それだけなのに、肌の表面に小さな火がついたみたいだった。


「すみません」


 私が慌てて手を引くと、部長も一拍遅れて資料を離した。


「……いや」


 その間が、妙に生々しかった。


 部長はすぐに視線を窓へ向ける。外では、ガラスに小さな水滴がつき始めていた。


「降り出したな」


「本当ですね」


「足元、気をつけろ」


 まただ。


 何気ない一言。誰にでも言うような言葉。そう思えばいいのに、胸が勝手に反応する。


 七年前も、雨だった。


 告白を断られたあと、立ち尽くす私に、彼は紺色の傘を渡した。


 濡れるから。


 たしか、それだけだった。


 優しいのか、残酷なのか、わからない人だった。


 今も、わからない。


 会議室を出ると、廊下の窓が雨に曇っていた。フロアに戻った私は、十七時までの仕上げに取りかかる。


 最後の一文を直し、全体を読み、誤字を潰す。集中している間は、余計な感情が少し静かになる。仕事は時々、逃げ場にも救いにもなる。


 十六時五十八分。


 私は修正版を部長へ送信した。


 送信ボタンを押した直後、全身から力が抜ける。


「終わった……」


「お疲れさまです」


 羽田くんが小さく拍手してくれた。


「ありがとう。今日の私は、もう抜け殻」


「抜け殻にしては目が生きてますよ」


「それはたぶん、部長に再提出を命じられる恐怖で」


 冗談を返しながら、私は部長席を見た。


 霧島部長はメールを確認している。表情は読めない。やがて、彼はキーボードを数回叩いた。


 すぐに私のPCに返信が届く。


『受領。明朝の打合せに回す』


 それだけ。


 でも、その一行の下に、もう一文あった。


『今日は早く上がれ』


 胸の奥が、また困った音を立てた。


 早く上がれ。


 命令形なのに、どうしてこんなに優しく聞こえるんだろう。


 私は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。


 すると、不意に自分の机の端に、ことり、と何かが置かれた。


 顔を上げる。


 そこにあったのは、缶コーヒーだった。


 黒と深い青のラベル。甘さ控えめの微糖。七年前、写真サークルの帰りに、湊さんがよく飲んでいたもの。そして一度だけ、寒い雨の日に私へくれたもの。


『甘すぎるの、苦手だったよね』


 そんな声が、記憶の底から浮かんだ。


 私は缶を見つめた。


 誰が置いたのかは、見なくてもわかる気がした。けれど確かめるのが怖くて、視線を上げられない。


 缶は、ほんのり温かかった。


 冷えた指先に、その温度がゆっくり移ってくる。


「結城さん」


 三上さんの声がした。


 私ははっとして顔を上げる。


 少し離れた場所で、三上さんが私を見ていた。


 正確には、私ではない。


 私の手の中の缶コーヒーを見ていた。


 その目が、静かに細められる。


 知っている人の目だった。


 雨音が、窓の向こうで強くなる。


 三上さんは何か言いかけて、結局、言わなかった。


 かわりに私の缶コーヒーへ目をやって、ほんの少しだけ口元をゆるめた。その横顔は、答えを先に知っている人のものだった。


(第11話へ続く)

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