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昔と同じ指先

 三上さんの微笑みは、声に出した言葉よりずっと厄介だった。


 何も言われていない。

 責められてもいないし、からかわれてもいない。

 ただ、私の手の中の缶コーヒーを見て、知っている人の目で微笑んだ。


 それだけで、私の心臓は勝手に有罪判決を受けたみたいに跳ねた。


「……あの、三上さん」


「はい」


「これは、その」


 何を説明しようとしているんだ、私は。

 差し入れです。職場の。上司から部下への。多分。きっと。おそらく。


 頭の中で言い訳を並べるほど、自分で自分を追い詰めている気がした。


 三上さんはそんな私を見て、ほんの少しだけ口元をゆるめた。


「冷めないうちに飲んだほうがいいですよ」


「え」


「霧島部長、温度にはうるさいので」


 霧島部長。


 やっぱり。


 やっぱり、という言葉が胸の中に落ちて、同時に、どうして、と跳ね返る。


 どうして、私が甘すぎるコーヒーを苦手だと知っているのか。

 どうして、七年前と同じものを選んだのか。

 どうして、何も言わずに机へ置いていくのか。


 全部、聞けない。


 聞いた瞬間に、何かが壊れてしまいそうだった。


「……いただきます」


 私は缶を両手で包み込んだ。


 ほんのり温かい。外の雨で冷えた指先に、じわりと熱が移ってくる。


 プルタブに指をかけて、私はいつもの癖で、開ける前に缶のふちを親指で一度なぞった。


 昔からの癖だ。

 缶を開ける音が妙に大きく聞こえるのが苦手で、なぜか一拍置いてしまう。大学のサークル室でも、よくそうしていた。


 あの頃、湊さんは何も言わずに、私が缶を開けるまで待ってくれた。


 待ってくれた、なんて。

 たったそれだけのことを、七年経っても覚えている自分が少し情けない。


 カシュ、と小さな音がした。


 苦すぎない香りが立つ。

 口をつけると、甘さ控えめの熱が喉を通って、胸の奥に落ちた。


 おいしい。


 悔しいくらい、おいしい。


「結城さん、顔がとろけてる」


 隣の席から、あかねが小声で突っ込んできた。


「とろけてない」


「じゃあ今の顔は何? 社内で合法的に保護したいレベルだったけど」


「保護しないで。私は二十六歳の社会人」


「社会人は、上司からの缶コーヒーでそんな顔しません」


 ぐうの音も出ない。


 私は缶を机に置き、平静を装ってキーボードに手を戻した。だめだ。仕事をしよう。資料は提出したけれど、明朝の打合せに備えて想定質問を整理しておきたい。


 仕事、仕事。


 恋愛未満の疑惑に振り回されている場合ではない。


 そう自分に言い聞かせた途端、部長席の電話が鳴った。


 霧島部長は短く応答し、何かを確認している。横顔はいつも通り冷静で、さっき私の机に缶コーヒーを置いた人には見えない。


 見えないのに。


 視線が、どうしてもそちらへ吸い寄せられる。


 電話を終えた部長が、ふとこちらを見た。


 目が合った。


 一秒。

 たぶん、それくらい。


 私は反射的に缶コーヒーを持ち上げ、小さく会釈した。

 ありがとうございます、のつもりだった。


 部長は無表情のまま、ほんのわずかに顎を引いた。


 そのあと、彼の視線が私の手元で止まった。


 私の親指が、また缶のふちをなぞっていた。


 無意識だった。


 開けたあとでも、考え事をすると同じ場所を触ってしまう。缶の丸い縁を、親指でなぞる。落ち着かない時の、昔からの癖。


 部長の動きが止まった。


 本当に、止まった。


 まばたきも、書類へ戻そうとしていた視線も、全部が一瞬だけ固まった。


 その横顔から、いつもの冷たさが薄く剥がれた気がした。


 何かを思い出した人の顔。


 忘れていたものではなく、ずっと奥にしまっていたものへ、不意に触れてしまった人の顔。


 私の呼吸まで止まりそうになる。


 部長はすぐに視線を外した。

 何事もなかったみたいにパソコンへ向き直る。


 でも、私は見てしまった。


 あの一瞬を。


 覚えているんですか。


 喉の奥まで出かかった言葉を、私は缶コーヒーと一緒に飲み込んだ。


 聞けない。

 まだ、聞けない。


 だって、もし「何のこと?」と返されたら、私は今度こそ笑えない。


 そのあと、フロアはいつもの夕方の慌ただしさに戻った。電話の音、コピー機の紙が吐き出される音、誰かが椅子を引く音。雨はまだ窓を叩いている。


 十八時を過ぎると、少しずつ人が帰り始めた。


「ひなた、今日ほんとに上がれる?」


 あかねがバッグを肩にかけながら聞いてきた。


「うん。想定質問だけまとめたら帰る」


「それ、帰れない人の台詞」


「今度こそ帰る。部長にも早く上がれって言われたし」


 言ってから、しまったと思った。


 あかねの目がきらりと光る。


「へえ」


「違う」


「まだ何も言ってない」


「目が言ってる」


「目は正直だからね」


 やめてほしい。友人の目力で社内恋愛未満疑惑を育てないでほしい。


 あかねは笑って、私の肩を軽く叩いた。


「無理しないで帰りなよ。雨、強くなってるし」


「うん。ありがとう」


 あかねが帰り、羽田くんも三上さんに呼ばれて会議室へ資料を運びに行った。フロアの人口が減ると、雨音が急に近くなる。


 私は想定質問のメモを保存し、ようやくパソコンを閉じた。


 その時だった。


「結城」


 部長の声がした。


 心臓が、また余計な仕事を始める。


「はい」


「明朝の打合せ、九時からに変更になった。八時四十分に小会議室へ来い」


「わかりました」


「想定質問は」


「まとめました。共有フォルダに入れてあります」


 部長は一度こちらを見た。


「早いな」


「早く帰れ、とのことでしたので」


 思わず言ってから、私は内心で頭を抱えた。

 何を軽口っぽく返しているんだ。相手は鬼上司だぞ。氷の部長だぞ。油断すると評価面談で凍土に埋められるぞ。


 けれど部長は怒らなかった。


 ほんの一瞬、目元がゆるんだ気がした。


「なら、帰れ」


「はい」


 私は鞄を持って立ち上がった。


 そこで、机の端に置いた空き缶に気づく。

 捨てていこうとして、ふと、また親指で缶のふちをなぞってしまった。


 その瞬間、背後から声が落ちた。


「……まだ、その癖があるのか」


 時間が止まった。


 フロアの音も、雨音も、全部が遠くなる。


 私はゆっくり振り向いた。


 部長は、自分が何を言ったのか今気づいたみたいに、わずかに唇を引き結んでいた。


 まだ。


 その癖。


 それは、初対面の上司が言う言葉じゃない。


 七年前の私を知らない人が、言える言葉じゃない。


「部長」


 声が震えそうで、私は缶を握る手に力を込めた。


「今の、どういう意味ですか」


 部長は答えなかった。


 窓の外で、雨が一段強くなる。


 彼は視線を落とし、低い声で言った。


「……忘れろ」


 忘れろ。


 その一言が、胸の奥の古い傷に触れた。


 忘れられるなら、とっくに忘れている。

 七年前の雨も、紺色の傘も、甘さ控えめの缶コーヒーも。

 あなたの声も。


 私は何も言えなかった。


 部長は書類を手に取ると、いつもの顔に戻った。戻ろうとしているのが、わかった。


「気をつけて帰れ。明日、遅れるな」


「……はい」


 私は空き缶をゴミ箱に入れ、鞄を抱えてフロアを出た。


 エレベーターの扉が閉まる直前、ガラス越しに部長の席が見えた。


 彼はパソコンを見ていなかった。


 机の上で、両手を組み、じっと動かずにいた。


 まるで、たった一言を悔やんでいるみたいに。


 会社を出ると、雨は本降りになっていた。


 私は鞄の奥に手を入れる。


 折りたたみ傘の持ち手に触れた。

 そのさらに奥に、今は持ち歩く理由なんてないはずの、古い紺色の傘の感触を思い出す。


 忘れろ、なんて。


 そんなことを言う人の声が、どうしてあんなに苦しそうだったんだろう。


 駅へ向かって歩き出そうとした時、スマホが震えた。


 画面には、三上さんからの短いメッセージが表示されていた。


『明日、少しだけお昼を一緒にどう? 霧島部長のことで、結城さんに話しておいたほうがいいことがあります』


 雨音が、傘の上で弾けた。


(第12話へ続く)

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