三上さんの昼休み
翌朝、会社の入口で傘を畳んだ瞬間、昨日の部長の声が耳の奥で蘇った。
――忘れろ。
忘れられるなら、七年も同じ傘を手放せずにいない。
私は濡れた前髪を指で払って、深呼吸した。よし。今日は仕事。九時の打合せ。大人。社会人。二十六歳。心臓だけ大学一年生に戻るのは禁止。
八時四十分、小会議室に入ると、部長はもう席についていた。
「おはようございます」
「おはよう。資料、出して」
「はい」
いつも通りの声だった。
冷静で、短くて、余計な温度がない。
昨日の「まだ、その癖があるのか」なんて、存在しなかったみたいに。
私はノートパソコンを開きながら、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。部長が忘れろと言うなら、私も忘れたふりをしたほうがいいのだろうか。
初対面のふり。
何もなかったふり。
傷ついていないふり。
……ふりばっかりだ。社会人って、こんなに演技力を求められる職業でしたっけ。
「結城」
「はいっ」
声が裏返った。終わった。朝から挙動不審を提出した。
部長は一瞬だけこちらを見て、資料に視線を落とした。
「三ページ目。想定質問の順番を変える。先方は価格より納期を先に聞くはずだ」
「あ、はい。すぐ直します」
「理由は」
「先方の前回議事録で、納品遅延を一番気にしていたからです。価格は最後に比較されるので、最初に不安を潰したほうが通りやすい、と思います」
答えると、部長の指が資料の端で止まった。
「……そうだ」
たった三文字。
でも、その声は少しだけ柔らかかった。
だめだ。褒められたわけでもないのに、胸が勝手に温度を持つ。私の心臓、勤務態度が悪すぎる。
打合せは無事に終わった。部長はいつも通り鋭く、無駄がなく、先方の曖昧な要望を淡々と整理していった。怖い。けれど、すごい。
相手が言葉にできない不安を拾い上げて、こちらの案に変えていく。氷みたいに冷たいのに、その奥にあるものは、ちゃんと人を見ている。
七年前の私は、この人のそういうところに憧れたんだと思う。
そして今の私は、また同じ場所で足を止めかけている。
「結城」
会議室を出る直前、部長が呼んだ。
「はい」
「今日の議事録は十五時まででいい。昼は抜くな」
「……はい」
それだけ言って、部長は先に廊下を歩いていった。
昼は抜くな。
昨日の「忘れろ」と同じ人の言葉だ。
突き放すみたいに冷たいのに、なぜか肝心なところで手を添えてくる。
ずるい。
本当に、ずるい。
正午少し前、三上さんからメッセージが来た。
『十二時十五分、ビル裏の「灯」で。先に出ています』
喫茶店「灯」は、会社から細い路地を一本入ったところにある古い店だ。木枠の扉と、少し低い天井。ランチの時間でも騒がしすぎず、湯気とコーヒーの匂いが静かに漂っている。
三上さんは奥の席で、すでにアイスコーヒーを前にしていた。
「急に呼び出してごめんなさい」
「いえ。あの、話って……」
霧島部長のことで。
スマホに表示されたその文字を、昨日から何度も思い出していた。
三上さんはストローに触れず、少し考えるように視線を落とした。
「先に言っておくけど、私は結城さんを探るつもりじゃないし、霧島部長の代わりに何かを説明できる立場でもないの」
「はい」
「ただ、昨日の部長、少し変だったでしょう」
息が止まりかけた。
「……見てたんですか」
「全部じゃないわ。でも、顔を見ればわかるくらいには一緒に働いてきたから」
胸の奥がちくりとした。
一緒に働いてきた。
その言葉に、勝手に小さな影が差す。
三上さんは有能で、落ち着いていて、部長の言葉の足りなさを自然に補える人だ。隣に立つのが似合う。私は、その事実だけで少しだけ苦しくなる。
そんな自分が嫌で、私は膝の上で手を握った。
三上さんは私の表情を読んだのか、ふっと苦笑した。
「念のため言うけど、私と部長はそういう関係じゃないわよ」
「えっ、いえ、私は別に、そんな」
「顔に出てた」
「すみません」
穴があったら入りたい。できれば社外秘フォルダくらい深い穴に。
三上さんは責めるでもなく、穏やかに続けた。
「あの人、誤解されやすいの。冷たいし、説明しないし、必要以上に自分のことを話さない。だから周りは勝手に想像する」
「……はい」
「でも、忘れる人ではないわ」
その一言に、指先が動かなくなった。
「忘れる人では、ない?」
「仕事の話よ」
三上さんは少しだけ声を柔らかくした。
「一度関わった案件、一度見たミス、一度困っていた人。そういうものを、驚くくらい覚えてる。本人は忘れた顔をするけどね」
忘れた顔。
胸の中で、その言葉が静かに沈んだ。
「結城さんが入社してすぐ、資料の版管理で困っていたでしょう。誰にも聞けなくて、共有フォルダの前で固まっていた日」
「……ありました」
「翌朝、フォルダ名と更新ルールが整理されてたの、気づいた?」
「気づきました。あれ、システムの人がやってくれたのかと」
三上さんは何も言わず、アイスコーヒーを一口飲んだ。
まさか。
心臓が、また余計な方向に走り出す。
「あの人は、そういうことを黙ってやる人。だから余計に伝わらないし、相手を傷つけることもある」
三上さんの声に、ほんの少しだけ苦さが混じった。
「七年前にも、たぶん、そうだったんだと思う」
七年前。
店内の音が遠くなった。
カップが置かれる音も、隣の席の笑い声も、全部薄い膜の向こうに行ってしまう。
「三上さん、何か知ってるんですか」
自分でも驚くくらい、まっすぐな声が出た。
三上さんは答えるまでに少し間を置いた。
「詳しくは知らない。聞かされてもいない。でも、あの頃の部長は今よりずっと余裕がなかった。仕事でも、私生活でも。誰かに優しくする余裕なんて、たぶんなかった」
「だからって」
言いかけて、私は唇を噛んだ。
だからって、あんなふうに断っていい理由にはならない。
私の気持ちを、なかったことみたいにしていい理由にはならない。
でも、その続きを三上さんにぶつけるのは違う。
三上さんは静かに頷いた。
「うん。理由があっても、傷ついたことは消えないわ」
その言葉で、急に泣きそうになった。
誰かにそう言ってほしかったのかもしれない。
私がいつまでも忘れられないのは、弱いからじゃない。大げさだからじゃない。ちゃんと傷ついたからなんだって。
「結城さん」
「はい」
「部長が何を覚えていて、何を言えずにいるのかは、本人から聞くしかない」
「……はい」
「でも、ひとつだけ。あの人が『忘れろ』って言う時は、相手に忘れてほしい時だけじゃないと思う」
私は顔を上げた。
三上さんは窓の外を見た。薄曇りの空から、細い雨がまた落ち始めていた。
「自分が忘れられなくて苦しい時も、そう言うのかもしれない」
胸の奥で、何かが小さく震えた。
忘れろ。
昨日の部長の声は、命令というより、祈りみたいだった。
私に向けていたのか。
自分に向けていたのか。
わからない。
でも、わからないまま逃げるのは、もう嫌だった。
会社に戻る頃には、雨は霧みたいに細くなっていた。傘を差すほどではないけれど、髪や肩に少しずつ水滴がつく。
エレベーターを降りると、企画部フロアは午後の慌ただしさに包まれていた。私は自席に戻り、議事録を開く。
十五時までに仕上げる。
今は仕事。仕事をする。揺れる心は、ひとまずデスクの引き出しにしまう。
そう思ったのに。
給湯室の前を通った時、部長が中にいた。
紙コップにコーヒーを注ぎ、こちらに気づいて手を止める。
狭い空間。湯気。雨の匂い。逃げ道が一つしかない廊下。
「……昼は食べたか」
「食べました」
「そうか」
会話、終了。
短い。短すぎる。これで議事録だったら内容不足で差し戻しだ。
けれど私は、そこで引かなかった。
「部長」
呼ぶと、部長の目がこちらに向いた。
昨日と同じ黒い瞳。
何かを隠すのが上手で、たぶん、とても下手な人の目。
「忘れられないことを、無理に忘れたふりするのって」
喉が震える。
でも、言った。
「結構、難しいですね」
部長の指が、紙コップの縁で止まった。
沈黙が落ちる。
言いすぎたかもしれない。踏み込みすぎたかもしれない。心臓が全力で撤退命令を出している。
それでも、部長は怒らなかった。
ただ、ほんのわずかに目を伏せた。
「……そうだな」
低い声だった。
いつもの氷の声じゃなかった。
「難しい」
それだけ言って、部長はコーヒーを持って給湯室を出ていった。
すれ違う一瞬、肩が触れそうな距離だった。触れてはいない。なのに、雨で冷えたはずの頬が熱くなる。
私は給湯室に一人残されて、空の紙コップを見つめた。
覚えている、とは言わない。
でも、忘れていないことは、少しずつこぼれている。
七年前の雨みたいに。
閉じた傘の先から、ぽたぽた落ちる水滴みたいに。
席に戻ると、パソコンの通知が光っていた。
部長から、議事録の共有ファイルにコメントが入っている。
『十六時以降、修正確認する。残るなら声をかけろ』
その下に、もう一行。
『雨が強くなる。傘を忘れるな』
私は画面を見つめたまま、息を止めた。
傘。
ただの業務連絡みたいな顔をしたその一文が、胸の奥の古い扉を静かに叩く。
そして私は、鞄の奥にしまった折りたたみ傘のさらに奥に、今も家のクローゼットで眠る紺色の傘を思い出していた。
(第13話へ続く)




