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12/23

三上さんの昼休み

 翌朝、会社の入口で傘を畳んだ瞬間、昨日の部長の声が耳の奥で蘇った。


 ――忘れろ。


 忘れられるなら、七年も同じ傘を手放せずにいない。


 私は濡れた前髪を指で払って、深呼吸した。よし。今日は仕事。九時の打合せ。大人。社会人。二十六歳。心臓だけ大学一年生に戻るのは禁止。


 八時四十分、小会議室に入ると、部長はもう席についていた。


「おはようございます」


「おはよう。資料、出して」


「はい」


 いつも通りの声だった。

 冷静で、短くて、余計な温度がない。


 昨日の「まだ、その癖があるのか」なんて、存在しなかったみたいに。


 私はノートパソコンを開きながら、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。部長が忘れろと言うなら、私も忘れたふりをしたほうがいいのだろうか。


 初対面のふり。

 何もなかったふり。

 傷ついていないふり。


 ……ふりばっかりだ。社会人って、こんなに演技力を求められる職業でしたっけ。


「結城」


「はいっ」


 声が裏返った。終わった。朝から挙動不審を提出した。


 部長は一瞬だけこちらを見て、資料に視線を落とした。


「三ページ目。想定質問の順番を変える。先方は価格より納期を先に聞くはずだ」


「あ、はい。すぐ直します」


「理由は」


「先方の前回議事録で、納品遅延を一番気にしていたからです。価格は最後に比較されるので、最初に不安を潰したほうが通りやすい、と思います」


 答えると、部長の指が資料の端で止まった。


「……そうだ」


 たった三文字。

 でも、その声は少しだけ柔らかかった。


 だめだ。褒められたわけでもないのに、胸が勝手に温度を持つ。私の心臓、勤務態度が悪すぎる。


 打合せは無事に終わった。部長はいつも通り鋭く、無駄がなく、先方の曖昧な要望を淡々と整理していった。怖い。けれど、すごい。


 相手が言葉にできない不安を拾い上げて、こちらの案に変えていく。氷みたいに冷たいのに、その奥にあるものは、ちゃんと人を見ている。


 七年前の私は、この人のそういうところに憧れたんだと思う。


 そして今の私は、また同じ場所で足を止めかけている。


「結城」


 会議室を出る直前、部長が呼んだ。


「はい」


「今日の議事録は十五時まででいい。昼は抜くな」


「……はい」


 それだけ言って、部長は先に廊下を歩いていった。


 昼は抜くな。


 昨日の「忘れろ」と同じ人の言葉だ。

 突き放すみたいに冷たいのに、なぜか肝心なところで手を添えてくる。


 ずるい。

 本当に、ずるい。


 正午少し前、三上さんからメッセージが来た。


『十二時十五分、ビル裏の「灯」で。先に出ています』


 喫茶店「灯」は、会社から細い路地を一本入ったところにある古い店だ。木枠の扉と、少し低い天井。ランチの時間でも騒がしすぎず、湯気とコーヒーの匂いが静かに漂っている。


 三上さんは奥の席で、すでにアイスコーヒーを前にしていた。


「急に呼び出してごめんなさい」


「いえ。あの、話って……」


 霧島部長のことで。


 スマホに表示されたその文字を、昨日から何度も思い出していた。


 三上さんはストローに触れず、少し考えるように視線を落とした。


「先に言っておくけど、私は結城さんを探るつもりじゃないし、霧島部長の代わりに何かを説明できる立場でもないの」


「はい」


「ただ、昨日の部長、少し変だったでしょう」


 息が止まりかけた。


「……見てたんですか」


「全部じゃないわ。でも、顔を見ればわかるくらいには一緒に働いてきたから」


 胸の奥がちくりとした。


 一緒に働いてきた。

 その言葉に、勝手に小さな影が差す。


 三上さんは有能で、落ち着いていて、部長の言葉の足りなさを自然に補える人だ。隣に立つのが似合う。私は、その事実だけで少しだけ苦しくなる。


 そんな自分が嫌で、私は膝の上で手を握った。


 三上さんは私の表情を読んだのか、ふっと苦笑した。


「念のため言うけど、私と部長はそういう関係じゃないわよ」


「えっ、いえ、私は別に、そんな」


「顔に出てた」


「すみません」


 穴があったら入りたい。できれば社外秘フォルダくらい深い穴に。


 三上さんは責めるでもなく、穏やかに続けた。


「あの人、誤解されやすいの。冷たいし、説明しないし、必要以上に自分のことを話さない。だから周りは勝手に想像する」


「……はい」


「でも、忘れる人ではないわ」


 その一言に、指先が動かなくなった。


「忘れる人では、ない?」


「仕事の話よ」


 三上さんは少しだけ声を柔らかくした。


「一度関わった案件、一度見たミス、一度困っていた人。そういうものを、驚くくらい覚えてる。本人は忘れた顔をするけどね」


 忘れた顔。


 胸の中で、その言葉が静かに沈んだ。


「結城さんが入社してすぐ、資料の版管理で困っていたでしょう。誰にも聞けなくて、共有フォルダの前で固まっていた日」


「……ありました」


「翌朝、フォルダ名と更新ルールが整理されてたの、気づいた?」


「気づきました。あれ、システムの人がやってくれたのかと」


 三上さんは何も言わず、アイスコーヒーを一口飲んだ。


 まさか。


 心臓が、また余計な方向に走り出す。


「あの人は、そういうことを黙ってやる人。だから余計に伝わらないし、相手を傷つけることもある」


 三上さんの声に、ほんの少しだけ苦さが混じった。


「七年前にも、たぶん、そうだったんだと思う」


 七年前。


 店内の音が遠くなった。

 カップが置かれる音も、隣の席の笑い声も、全部薄い膜の向こうに行ってしまう。


「三上さん、何か知ってるんですか」


 自分でも驚くくらい、まっすぐな声が出た。


 三上さんは答えるまでに少し間を置いた。


「詳しくは知らない。聞かされてもいない。でも、あの頃の部長は今よりずっと余裕がなかった。仕事でも、私生活でも。誰かに優しくする余裕なんて、たぶんなかった」


「だからって」


 言いかけて、私は唇を噛んだ。


 だからって、あんなふうに断っていい理由にはならない。

 私の気持ちを、なかったことみたいにしていい理由にはならない。


 でも、その続きを三上さんにぶつけるのは違う。


 三上さんは静かに頷いた。


「うん。理由があっても、傷ついたことは消えないわ」


 その言葉で、急に泣きそうになった。


 誰かにそう言ってほしかったのかもしれない。

 私がいつまでも忘れられないのは、弱いからじゃない。大げさだからじゃない。ちゃんと傷ついたからなんだって。


「結城さん」


「はい」


「部長が何を覚えていて、何を言えずにいるのかは、本人から聞くしかない」


「……はい」


「でも、ひとつだけ。あの人が『忘れろ』って言う時は、相手に忘れてほしい時だけじゃないと思う」


 私は顔を上げた。


 三上さんは窓の外を見た。薄曇りの空から、細い雨がまた落ち始めていた。


「自分が忘れられなくて苦しい時も、そう言うのかもしれない」


 胸の奥で、何かが小さく震えた。


 忘れろ。


 昨日の部長の声は、命令というより、祈りみたいだった。


 私に向けていたのか。

 自分に向けていたのか。


 わからない。

 でも、わからないまま逃げるのは、もう嫌だった。


 会社に戻る頃には、雨は霧みたいに細くなっていた。傘を差すほどではないけれど、髪や肩に少しずつ水滴がつく。


 エレベーターを降りると、企画部フロアは午後の慌ただしさに包まれていた。私は自席に戻り、議事録を開く。


 十五時までに仕上げる。

 今は仕事。仕事をする。揺れる心は、ひとまずデスクの引き出しにしまう。


 そう思ったのに。


 給湯室の前を通った時、部長が中にいた。


 紙コップにコーヒーを注ぎ、こちらに気づいて手を止める。


 狭い空間。湯気。雨の匂い。逃げ道が一つしかない廊下。


「……昼は食べたか」


「食べました」


「そうか」


 会話、終了。

 短い。短すぎる。これで議事録だったら内容不足で差し戻しだ。


 けれど私は、そこで引かなかった。


「部長」


 呼ぶと、部長の目がこちらに向いた。


 昨日と同じ黒い瞳。

 何かを隠すのが上手で、たぶん、とても下手な人の目。


「忘れられないことを、無理に忘れたふりするのって」


 喉が震える。

 でも、言った。


「結構、難しいですね」


 部長の指が、紙コップの縁で止まった。


 沈黙が落ちる。


 言いすぎたかもしれない。踏み込みすぎたかもしれない。心臓が全力で撤退命令を出している。


 それでも、部長は怒らなかった。


 ただ、ほんのわずかに目を伏せた。


「……そうだな」


 低い声だった。

 いつもの氷の声じゃなかった。


「難しい」


 それだけ言って、部長はコーヒーを持って給湯室を出ていった。


 すれ違う一瞬、肩が触れそうな距離だった。触れてはいない。なのに、雨で冷えたはずの頬が熱くなる。


 私は給湯室に一人残されて、空の紙コップを見つめた。


 覚えている、とは言わない。

 でも、忘れていないことは、少しずつこぼれている。


 七年前の雨みたいに。

 閉じた傘の先から、ぽたぽた落ちる水滴みたいに。


 席に戻ると、パソコンの通知が光っていた。


 部長から、議事録の共有ファイルにコメントが入っている。


『十六時以降、修正確認する。残るなら声をかけろ』


 その下に、もう一行。


『雨が強くなる。傘を忘れるな』


 私は画面を見つめたまま、息を止めた。


 傘。


 ただの業務連絡みたいな顔をしたその一文が、胸の奥の古い扉を静かに叩く。


 そして私は、鞄の奥にしまった折りたたみ傘のさらに奥に、今も家のクローゼットで眠る紺色の傘を思い出していた。


(第13話へ続く)

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