雨を知らせる人
『雨が強くなる。傘を忘れるな』
たった一行なのに、画面から目が離せなかった。
業務連絡です。これは業務連絡です。社会人として天候リスクを共有されただけです。
そう自分に言い聞かせて、私はコメント欄に返信を打った。
『承知しました。十六時までに修正します』
傘については、触れなかった。
触れたら最後、胸の奥にしまったものまで全部こぼれそうだったから。
午後の企画部は、電話の音とキーボードの音で埋まっていた。窓の外は昼休みより少し暗い。雨はまだ細い線のままなのに、空全体が低く沈んでいる。
私は議事録のファイルを開き直し、部長のコメントを一つずつ反映していった。
表現が曖昧。
主語を明確に。
次回アクションが抜けている。
相変わらず容赦がない。
でも、直す場所は全部正しい。悔しいくらいに。
前職では、こういう指摘を受けるたびに、否定された気がしていた。私が足りない、私が駄目だと、勝手に胸の中で丸めて飲み込んでいた。
でも部長の赤字は、私を削るためのものじゃない。
資料を、仕事を、ちゃんと前に進めるためのものだ。
……だから余計に困る。
冷たいだけなら、嫌いになれるのに。
厳しいだけなら、七年前の人と別人だって思えるのに。
十六時三分前、私は修正済みのファイルを保存した。送信ボタンを押す指が、少し湿っている。雨のせいじゃない。緊張のせいだ。
『修正しました。ご確認お願いします』
送ってから、椅子にもたれた。
すぐに既読のような通知がつく。部長の席を見ると、彼は無表情で画面を見ていた。
ほんの数十秒。
なのに、面接の結果待ちみたいに長い。
やがて、部長が立ち上がった。
「結城さん」
「はいっ」
勢いよく返事をしてしまい、隣のあかねが肩を震わせた。笑うな。今、私の心臓は会社規定を超える残業をしている。
「会議室、五分」
「はい」
五分。
部長にとっては確認時間。
私にとっては、精神修行。
小さな会議室に入ると、窓ガラスに雨粒が増えていた。蛍光灯の白い光が、テーブルに淡く反射している。部長は向かいではなく、私の斜め隣に座った。
近い。
距離が、業務確認にしては近い。
いや、画面を見るならこの位置が合理的。合理的なのはわかる。わかるけど、私の心臓は合理性を搭載していない。
「ここ」
部長がノートパソコンの画面を指した。
「クライアント側の担当者名、正式表記に直っている。ここはいい」
「ありがとうございます」
「次回確認事項も整理できている」
褒められた。
たぶん、ただの事実確認だ。声の温度もいつもどおり低い。けれど、胸の中で小さな火が灯る。
私はその火を隠すように、ペンを握り直した。
緊張すると、ペンのクリップを親指で押してしまう。カチ、とは鳴らないタイプなのに、何度も何度も触ってしまう癖。
その瞬間、部長の視線が指先で止まった。
ほんの一拍。
言葉が途切れる。
「あの、部長?」
「……いや」
部長は目を伏せた。
「その癖、まだあるんだな」
息が止まった。
まだ。
今、確かにそう言った。
七年前、写真サークルの部室で、私は同じことをしていた。現像の順番待ちをしながら、借りたボールペンのクリップを親指で押して、隣にいた湊さんに「壊れる」と注意された。
覚えていない人は、言わない。
初対面だと思っている上司は、絶対に言わない。
会議室の雨音が急に大きくなった気がした。
「……私の、癖ですか」
声が掠れた。
部長はすぐには答えなかった。画面に視線を戻したまま、口を閉じている。その横顔はいつもどおり整っていて、隙がなくて、けれど耳のあたりだけが少し硬く見えた。
「前にも」
言いかけて、彼は止まった。
前にも。
その続きが聞きたい。
怖いのに、聞きたい。
「前にも、何ですか」
私が踏み込むと、部長はゆっくりこちらを見た。
黒い瞳の奥に、迷いがあった。
仕事中の彼が見せない、ほんの小さな迷い。
「……緊張している時に出る癖だと思っただけだ」
逃げた。
そう思ったのに、責める言葉は出なかった。
逃げ方が、下手だったから。
部長は覚えている。少なくとも、私の癖を知っている。七年前の私が持っていた、どうでもいいような小さな欠片を、今も持っている。
嬉しい、と思ってしまった。
傷つけられたことも、忘れられたふりをされたことも、全部まだ胸に刺さっているのに。
それでも、覚えていてくれたことが嬉しいなんて。
私の心、面倒くさすぎる。取扱説明書があったら、たぶん分厚い。
「修正は概ね問題ない」
部長は画面を閉じた。
「ただ、次から会議中の発言者は、その場で確認しろ。後で補うと曖昧になる」
「はい。気をつけます」
「結城さんの聞き方なら、相手も答える」
「え?」
思わず顔を上げた。
部長は立ち上がりかけて、少しだけ視線を外した。
「強引ではない。けれど、必要なところでは引かない。それは企画では武器になる」
胸が、きゅっと縮んだ。
仕事の評価だ。
恋愛とは関係ない。
わかっている。
でも七年前の私は、何かを好きになる自分が恥ずかしくて、怖くて、相手の重荷になるくらいなら黙っていたほうがいいと思うようになった。
今の私の「引かない」を、武器だと言ってくれる人がいる。
それが彼なのが、ずるい。
「……ありがとうございます」
声が少しだけ震えた。
部長は何か言いかけたように唇を動かした。けれど、結局何も言わなかった。
会議室を出る頃には、雨は本降りになっていた。
フロアに戻ると、窓際の社員たちが「うわ、降ってきた」とざわついている。定時まであと少し。外は夕方とは思えないほど暗く、ビルの窓に白い雨筋が走っていた。
私は鞄の中を確認した。
折りたたみ傘はある。
黒い、軽い、どこにでも売っている傘。
家のクローゼットに眠る紺色の傘とは、重さも長さも、持った時の気持ちも違う。
あの傘を、いつまで持っているつもりなんだろう。
返す相手は、目の前にいるのに。
そう考えた瞬間、胸がまたざわついた。
返したら、七年前の気持ちまで終わる気がする。
でも返さないままだと、始めることもできない気がする。
仕事を片づけ、定時を少し過ぎた頃、あかねが椅子ごと私のほうへ寄ってきた。
「ひなた、帰る?」
「うん。今日は帰る。頭が限界」
「部長と会議室、何かあった?」
「業務確認です」
「その顔で?」
「顔は生まれつきです」
「便利な言い訳しない」
あかねはにやりとしたけれど、それ以上は突っ込まなかった。こういうところが優しい。茶化すふりをして、踏み荒らさない。
「じゃ、気をつけて。雨すごいよ」
「うん。あかねも」
私はパソコンを落とし、鞄を肩にかけた。
部長の席を見ると、彼はまだ資料を読んでいた。横顔だけが、モニターの光に照らされている。
挨拶だけして帰ろう。
そう思って近づいた。
「部長、お先に失礼します」
「ああ」
短い返事。
いつもの距離。
私は一礼して歩き出した。
その時だった。
「結城さん」
背中を呼び止められた。
振り向くと、部長が椅子から少し体をこちらに向けていた。フロアのざわめきの中で、その声だけがまっすぐ届く。
「傘は」
心臓が跳ねた。
昨日も、今日も、画面の中でも。
その言葉はいつも、七年前に繋がってしまう。
私は鞄の持ち手を握りしめた。
「あります」
折りたたみ傘のことを言った。
嘘ではない。
けれど部長は、なぜかすぐには頷かなかった。
視線が私の鞄に落ちる。
そして、ほんの少しだけ低い声で言った。
「……紺色の、ではないんだな」
世界が、一瞬止まった。
フロアの電話の音も、誰かの笑い声も、窓を叩く雨音も、全部遠くなる。
紺色。
どうして。
どうして今、その色を言うの。
部長は自分の言葉に気づいたみたいに、目を細めた。
でももう遅い。
私の中で、七年前の雨が音を立てて降り始めていた。
(第14話へ続く)




