表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
14/24

紺色を知っている人

 紺色。


 その二文字が、雨音よりも大きく胸の中に落ちた。


 どうして。

 どうして、あなたがその色を知っているんですか。


 喉まで出かかった言葉を、私はぎりぎりで飲み込んだ。ここは企画部のフロアで、周りにはまだ人がいる。電話の音も、キーボードを叩く音も、誰かが帰り支度をする気配もある。


 なのに、私と部長の間だけ、空気が薄くなったみたいだった。


「……部長」


 自分でも驚くほど小さな声だった。


「今の、どういう意味ですか」


 部長の視線が、ほんの一瞬だけ揺れた。


 氷の部長。

 そう呼ばれる人の表情は、いつも読みにくい。けれど今は違った。読みにくいんじゃない。読ませまいとしている。


 そのことに気づいた瞬間、胸が痛くなった。


「いや」


 短い沈黙のあと、部長は資料に目を落とした。


「言い間違えた」


 嘘だ。


 私の心が、反射みたいにそう言った。


 言い間違いで、紺色なんて出てこない。折りたたみ傘なら黒とか白とか透明とか、もっとありふれた色がある。七年前、雨の日、彼が私に差し出した傘と同じ色を、偶然ここで言うなんて。


 そんな都合のいい偶然、少女漫画でももう少し伏線を張る。いや、これは私の人生であって少女漫画ではないのだけれど。


 だから余計に、逃げ場がなかった。


「言い間違い、ですか」


「ああ」


 返事は早い。

 早すぎた。


 私は鞄の持ち手を握る手に力を入れた。指先が少し冷たい。室内なのに、雨に濡れたみたいに。


「部長は」


 言ってしまえ。

 聞いてしまえ。


 あなたは、私のことを覚えていますか。


 七年前の、駅前の雨を。

 震えながら告白した私を。

 あなたが貸してくれた、紺色の傘を。


 でも、周りのざわめきが現実を連れてくる。ここは職場だ。私は部下で、彼は上司だ。過去の傷を、定時後のフロアで広げるわけにはいかない。


 大人って、便利で不便だ。

 泣きたい時にも会議室の予約状況を気にしてしまう。


「……何でもありません」


 私がそう言うと、部長は顔を上げた。


 その目に、ほんのわずかな後悔が見えた気がした。


「結城さん」


「失礼します」


 逃げたのは私のほうだった。


 早足でエレベーターホールへ向かう。背中に視線を感じた。追いかけてきてほしいなんて思っていない。思っていないのに、足音がしないことに少しだけ傷つく。


 面倒くさい。

 私の心、本当に面倒くさい。


 エレベーターの扉が閉まる直前、フロアの奥で部長が立ち上がるのが見えた。


 それだけで、心臓が一段飛ばしで跳ねた。


 でも扉は無情に閉まった。


 ビルの一階に下りると、外は思った以上の雨だった。自動ドアの向こうで、街灯がにじんでいる。風も強い。傘をさしても膝から下は濡れるタイプの雨だ。


 私は鞄から黒い折りたたみ傘を取り出した。


 小さくて軽い。実用的。会社帰りの社会人にふさわしい、何の物語も背負っていない傘。


 なのに、開く手が止まった。


 紺色の、ではないんだな。


 あの声が、耳の奥で繰り返される。


 覚えているの?

 覚えていないふりをしているの?

 それとも、私だけがまだ七年前に置いていかれているの?


 答えがほしい。

 でも答えを聞くのが怖い。


 もし「覚えていない」と言われたら、今度こそ本当に笑えない。逆に「覚えている」と言われても、じゃあどうして初対面のふりをしたのか、どうして今も逃げるのか、その全部を聞きたくなってしまう。


 私はまだ、そこまで強くない。


 傘を開こうとした時、背後から低い声がした。


「結城さん」


 振り向くと、部長がロビーに立っていた。片手に黒い長傘を持っている。いつもの無駄のない歩き方で近づいてくるのに、表情だけが少し硬い。


 追いかけてきた。


 そう思った瞬間、胸の奥が熱くなる。

 やめてほしい。こういう小さなことで嬉しくなる自分を、できれば会社のシュレッダーにかけたい。機密扱いで。


「雨が強い」


「見ればわかります」


 反射で返してしまってから、しまったと思った。


 けれど部長は怒らなかった。ほんの少しだけ目を伏せる。


「そうだな」


 その声が、いつもより柔らかかった。


 ずるい。

 冷たいなら冷たいままでいてくれたらいいのに。時々こんなふうに温度を見せるから、私はまた間違えそうになる。


「駅までなら、送る」


「大丈夫です。傘、ありますから」


「風で煽られる」


「社会人なので、風くらい対処できます」


「社会人でも、濡れる時は濡れる」


 真顔で言われて、少しだけ笑いそうになった。

 この人はどうして、優しさを業務連絡みたいにしか出せないんだろう。


 でも、笑ったら負けな気がして唇を結ぶ。


「……お気遣いありがとうございます。でも、本当に大丈夫です」


 私は黒い折りたたみ傘を開いた。ばさり、と頼りない音がする。風に負けそうな骨組みが、まるで今の私みたいで少し嫌だった。


 部長は何か言いたげに見ていた。


 私はその視線から逃げるように、自動ドアの外へ出た。


 雨粒が一気に傘を叩く。足元で水が跳ねる。数歩進んだだけで、風が横から吹きつけて、傘がぐらりと傾いた。


「わっ」


 思わず声が出た。


 次の瞬間、背後から伸びた手が、傘の柄を私の手ごと支えた。


 近い。


 肩のすぐ後ろに、部長の気配がある。スーツの袖が私の腕にかすかに触れた。雨の冷たさの中で、そこだけが妙に温かく感じて、心臓が嫌なほど正直に跳ねる。


「無理をするな」


 低い声が、雨音に混じって落ちてくる。


 私は傘の柄を握りしめたまま、動けなかった。


「……部長」


「手を離す。しっかり持て」


 そう言って、彼の手はすぐに離れた。


 たった数秒。

 本当にそれだけ。


 なのに、手の甲に残った熱が、なかなか消えない。


「ありがとうございます」


「駅まで歩く。俺も同じ方向だ」


「同じ方向なんですか」


「ああ」


「今まで一度も一緒になりませんでしたけど」


 言ってから、また余計なことを言ったと思った。


 部長は少し黙った。

 雨が二人の傘を叩く音だけが続く。


「時間をずらしていた」


「……え?」


「部下と帰りが重なると、気を遣わせる」


 もっともらしい理由だった。

 でも、さっきから私の中の疑り深い私が、机の上で腕を組んでいる。


 本当にそれだけですか。


 聞けないまま、私たちは歩き出した。


 並んでいるのに、それぞれの傘の下にいる。近いようで遠い。七年前と同じ雨なのに、あの時みたいに一つの傘には入っていない。


 それが少し寂しいと思ってしまって、私は自分に呆れた。


「結城さん」


「はい」


「さっきの件だが」


 心臓が跳ねた。


 さっきの件。

 紺色の傘のこと。


 私は足を止めそうになりながら、何とか歩幅を保った。


「不快にさせたなら、すまない」


 謝罪だった。


 でも、欲しかった答えではない。


「不快、というか」


 雨に濡れた歩道を見つめる。街灯が水たまりに揺れている。


「驚きました」


「そうだろうな」


「どうして驚いたか、部長にはわかりますか」


 言ってしまった。


 傘の内側で、自分の声が震えているのがわかった。私は二十六歳の社会人で、会議で資料の不備を指摘されても耐えられるし、取引先の無茶ぶりにも笑顔で対応できる。


 でもこの人の前では、七年前の十九歳が時々顔を出す。


 困る。

 本当に困る。


 部長は答えなかった。


 その沈黙が、答えみたいだった。


「……わかってるんですね」


 私がつぶやくと、部長の足が止まった。


 駅へ向かう人たちが、私たちの横を通り過ぎていく。傘の波。濡れた靴音。誰も私たちを気にしない。


 なのに私は、世界中に見られているような気がした。


 部長は、雨の向こうを見るように視線を外した。


「結城さん」


 名前を呼ばれただけなのに、胸が苦しくなる。


「今、ここで話すことではない」


 また線を引かれた。


 でも今度は、完全な拒絶には聞こえなかった。


 今、ここではない。

 つまり、いつかなら話すつもりがあるのだろうか。


 そんな都合のいい解釈をしてしまう自分が怖い。


「じゃあ、どこなら話せるんですか」


 雨音に負けないように言った。


 部長がこちらを見る。

 その目は冷たくなかった。むしろ、冷たくしようとして失敗している目だった。


「……職場の外で、上司としてではなく話すのは、慎重であるべきだ」


「わかってます」


「結城さんの立場を守りたい」


 その言葉に、胸がまた痛くなった。


 守りたい。


 それは優しさなのかもしれない。大人として、上司として、正しいことなのかもしれない。


 でも七年前も、きっとこの人は何かを守る顔をして、私を遠ざけた。


 守られる側は、何も知らないまま傷つくことがある。


「守るって」


 声がかすれた。


「何も言わないことなんですか」


 部長の表情が、わずかに崩れた。


 ほんの一瞬だった。

 でも私は見た。


 痛いところを突かれた人の顔だった。


「……それは」


 その先は続かなかった。


 駅前の信号が赤に変わる。人の流れが止まり、傘の波が交差点の手前に溜まった。私たちも並んで立ち止まる。


 隣にいるのに、部長は遠い。


 遠いのに、さっき触れた手の熱だけが残っている。


 私は息を吸った。


「部長。私、明日も普通に仕事します」


「……ああ」


「でも、今日のことをなかったことにはできません」


 言えた。


 逃げなかった。


 それだけで膝が少し震える。強がるのって、体力を使う。筋トレよりきついかもしれない。


 部長は長い沈黙のあと、低く言った。


「わかった」


 信号が青に変わった。


 人の流れが動き出す。私は歩き出そうとして、ふと部長の手元を見た。


 黒い長傘の持ち手。

 濡れた革靴。

 そして、その指先が、強く握られていること。


 冷静に見える人の、冷静じゃない証拠。


 胸が、きゅっと鳴った。


 駅に着くと、改札前で部長は足を止めた。


「気をつけて帰れ」


「はい。部長も」


 それだけの会話。

 上司と部下としてなら、何の問題もない。


 でも私たちの間には、もう紺色という言葉が落ちている。


 拾わないふりをしても、そこにある。


 改札を抜ける前、私は振り返った。


 部長はまだそこにいた。人混みの中で、まっすぐこちらを見ている。


 そして、ほんの少しだけ唇を開いた。


 声は、雨音と駅のアナウンスに紛れて届かなかった。


 でも口の形だけは、なぜかわかった。


 ――ごめん。


 私は立ち尽くした。


 七年前にも聞けなかった言葉が、今になって雨の向こうから落ちてきた気がした。


 その夜、家に帰った私は、濡れた靴を脱ぐより先にクローゼットを開けた。


 奥にしまい込んだ細長い傘袋。


 紺色の傘は、七年分の沈黙を抱えたまま、そこにあった。


 私は震える指で、それに触れた。


(第15話へ続く)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ