紺色を知っている人
紺色。
その二文字が、雨音よりも大きく胸の中に落ちた。
どうして。
どうして、あなたがその色を知っているんですか。
喉まで出かかった言葉を、私はぎりぎりで飲み込んだ。ここは企画部のフロアで、周りにはまだ人がいる。電話の音も、キーボードを叩く音も、誰かが帰り支度をする気配もある。
なのに、私と部長の間だけ、空気が薄くなったみたいだった。
「……部長」
自分でも驚くほど小さな声だった。
「今の、どういう意味ですか」
部長の視線が、ほんの一瞬だけ揺れた。
氷の部長。
そう呼ばれる人の表情は、いつも読みにくい。けれど今は違った。読みにくいんじゃない。読ませまいとしている。
そのことに気づいた瞬間、胸が痛くなった。
「いや」
短い沈黙のあと、部長は資料に目を落とした。
「言い間違えた」
嘘だ。
私の心が、反射みたいにそう言った。
言い間違いで、紺色なんて出てこない。折りたたみ傘なら黒とか白とか透明とか、もっとありふれた色がある。七年前、雨の日、彼が私に差し出した傘と同じ色を、偶然ここで言うなんて。
そんな都合のいい偶然、少女漫画でももう少し伏線を張る。いや、これは私の人生であって少女漫画ではないのだけれど。
だから余計に、逃げ場がなかった。
「言い間違い、ですか」
「ああ」
返事は早い。
早すぎた。
私は鞄の持ち手を握る手に力を入れた。指先が少し冷たい。室内なのに、雨に濡れたみたいに。
「部長は」
言ってしまえ。
聞いてしまえ。
あなたは、私のことを覚えていますか。
七年前の、駅前の雨を。
震えながら告白した私を。
あなたが貸してくれた、紺色の傘を。
でも、周りのざわめきが現実を連れてくる。ここは職場だ。私は部下で、彼は上司だ。過去の傷を、定時後のフロアで広げるわけにはいかない。
大人って、便利で不便だ。
泣きたい時にも会議室の予約状況を気にしてしまう。
「……何でもありません」
私がそう言うと、部長は顔を上げた。
その目に、ほんのわずかな後悔が見えた気がした。
「結城さん」
「失礼します」
逃げたのは私のほうだった。
早足でエレベーターホールへ向かう。背中に視線を感じた。追いかけてきてほしいなんて思っていない。思っていないのに、足音がしないことに少しだけ傷つく。
面倒くさい。
私の心、本当に面倒くさい。
エレベーターの扉が閉まる直前、フロアの奥で部長が立ち上がるのが見えた。
それだけで、心臓が一段飛ばしで跳ねた。
でも扉は無情に閉まった。
ビルの一階に下りると、外は思った以上の雨だった。自動ドアの向こうで、街灯がにじんでいる。風も強い。傘をさしても膝から下は濡れるタイプの雨だ。
私は鞄から黒い折りたたみ傘を取り出した。
小さくて軽い。実用的。会社帰りの社会人にふさわしい、何の物語も背負っていない傘。
なのに、開く手が止まった。
紺色の、ではないんだな。
あの声が、耳の奥で繰り返される。
覚えているの?
覚えていないふりをしているの?
それとも、私だけがまだ七年前に置いていかれているの?
答えがほしい。
でも答えを聞くのが怖い。
もし「覚えていない」と言われたら、今度こそ本当に笑えない。逆に「覚えている」と言われても、じゃあどうして初対面のふりをしたのか、どうして今も逃げるのか、その全部を聞きたくなってしまう。
私はまだ、そこまで強くない。
傘を開こうとした時、背後から低い声がした。
「結城さん」
振り向くと、部長がロビーに立っていた。片手に黒い長傘を持っている。いつもの無駄のない歩き方で近づいてくるのに、表情だけが少し硬い。
追いかけてきた。
そう思った瞬間、胸の奥が熱くなる。
やめてほしい。こういう小さなことで嬉しくなる自分を、できれば会社のシュレッダーにかけたい。機密扱いで。
「雨が強い」
「見ればわかります」
反射で返してしまってから、しまったと思った。
けれど部長は怒らなかった。ほんの少しだけ目を伏せる。
「そうだな」
その声が、いつもより柔らかかった。
ずるい。
冷たいなら冷たいままでいてくれたらいいのに。時々こんなふうに温度を見せるから、私はまた間違えそうになる。
「駅までなら、送る」
「大丈夫です。傘、ありますから」
「風で煽られる」
「社会人なので、風くらい対処できます」
「社会人でも、濡れる時は濡れる」
真顔で言われて、少しだけ笑いそうになった。
この人はどうして、優しさを業務連絡みたいにしか出せないんだろう。
でも、笑ったら負けな気がして唇を結ぶ。
「……お気遣いありがとうございます。でも、本当に大丈夫です」
私は黒い折りたたみ傘を開いた。ばさり、と頼りない音がする。風に負けそうな骨組みが、まるで今の私みたいで少し嫌だった。
部長は何か言いたげに見ていた。
私はその視線から逃げるように、自動ドアの外へ出た。
雨粒が一気に傘を叩く。足元で水が跳ねる。数歩進んだだけで、風が横から吹きつけて、傘がぐらりと傾いた。
「わっ」
思わず声が出た。
次の瞬間、背後から伸びた手が、傘の柄を私の手ごと支えた。
近い。
肩のすぐ後ろに、部長の気配がある。スーツの袖が私の腕にかすかに触れた。雨の冷たさの中で、そこだけが妙に温かく感じて、心臓が嫌なほど正直に跳ねる。
「無理をするな」
低い声が、雨音に混じって落ちてくる。
私は傘の柄を握りしめたまま、動けなかった。
「……部長」
「手を離す。しっかり持て」
そう言って、彼の手はすぐに離れた。
たった数秒。
本当にそれだけ。
なのに、手の甲に残った熱が、なかなか消えない。
「ありがとうございます」
「駅まで歩く。俺も同じ方向だ」
「同じ方向なんですか」
「ああ」
「今まで一度も一緒になりませんでしたけど」
言ってから、また余計なことを言ったと思った。
部長は少し黙った。
雨が二人の傘を叩く音だけが続く。
「時間をずらしていた」
「……え?」
「部下と帰りが重なると、気を遣わせる」
もっともらしい理由だった。
でも、さっきから私の中の疑り深い私が、机の上で腕を組んでいる。
本当にそれだけですか。
聞けないまま、私たちは歩き出した。
並んでいるのに、それぞれの傘の下にいる。近いようで遠い。七年前と同じ雨なのに、あの時みたいに一つの傘には入っていない。
それが少し寂しいと思ってしまって、私は自分に呆れた。
「結城さん」
「はい」
「さっきの件だが」
心臓が跳ねた。
さっきの件。
紺色の傘のこと。
私は足を止めそうになりながら、何とか歩幅を保った。
「不快にさせたなら、すまない」
謝罪だった。
でも、欲しかった答えではない。
「不快、というか」
雨に濡れた歩道を見つめる。街灯が水たまりに揺れている。
「驚きました」
「そうだろうな」
「どうして驚いたか、部長にはわかりますか」
言ってしまった。
傘の内側で、自分の声が震えているのがわかった。私は二十六歳の社会人で、会議で資料の不備を指摘されても耐えられるし、取引先の無茶ぶりにも笑顔で対応できる。
でもこの人の前では、七年前の十九歳が時々顔を出す。
困る。
本当に困る。
部長は答えなかった。
その沈黙が、答えみたいだった。
「……わかってるんですね」
私がつぶやくと、部長の足が止まった。
駅へ向かう人たちが、私たちの横を通り過ぎていく。傘の波。濡れた靴音。誰も私たちを気にしない。
なのに私は、世界中に見られているような気がした。
部長は、雨の向こうを見るように視線を外した。
「結城さん」
名前を呼ばれただけなのに、胸が苦しくなる。
「今、ここで話すことではない」
また線を引かれた。
でも今度は、完全な拒絶には聞こえなかった。
今、ここではない。
つまり、いつかなら話すつもりがあるのだろうか。
そんな都合のいい解釈をしてしまう自分が怖い。
「じゃあ、どこなら話せるんですか」
雨音に負けないように言った。
部長がこちらを見る。
その目は冷たくなかった。むしろ、冷たくしようとして失敗している目だった。
「……職場の外で、上司としてではなく話すのは、慎重であるべきだ」
「わかってます」
「結城さんの立場を守りたい」
その言葉に、胸がまた痛くなった。
守りたい。
それは優しさなのかもしれない。大人として、上司として、正しいことなのかもしれない。
でも七年前も、きっとこの人は何かを守る顔をして、私を遠ざけた。
守られる側は、何も知らないまま傷つくことがある。
「守るって」
声がかすれた。
「何も言わないことなんですか」
部長の表情が、わずかに崩れた。
ほんの一瞬だった。
でも私は見た。
痛いところを突かれた人の顔だった。
「……それは」
その先は続かなかった。
駅前の信号が赤に変わる。人の流れが止まり、傘の波が交差点の手前に溜まった。私たちも並んで立ち止まる。
隣にいるのに、部長は遠い。
遠いのに、さっき触れた手の熱だけが残っている。
私は息を吸った。
「部長。私、明日も普通に仕事します」
「……ああ」
「でも、今日のことをなかったことにはできません」
言えた。
逃げなかった。
それだけで膝が少し震える。強がるのって、体力を使う。筋トレよりきついかもしれない。
部長は長い沈黙のあと、低く言った。
「わかった」
信号が青に変わった。
人の流れが動き出す。私は歩き出そうとして、ふと部長の手元を見た。
黒い長傘の持ち手。
濡れた革靴。
そして、その指先が、強く握られていること。
冷静に見える人の、冷静じゃない証拠。
胸が、きゅっと鳴った。
駅に着くと、改札前で部長は足を止めた。
「気をつけて帰れ」
「はい。部長も」
それだけの会話。
上司と部下としてなら、何の問題もない。
でも私たちの間には、もう紺色という言葉が落ちている。
拾わないふりをしても、そこにある。
改札を抜ける前、私は振り返った。
部長はまだそこにいた。人混みの中で、まっすぐこちらを見ている。
そして、ほんの少しだけ唇を開いた。
声は、雨音と駅のアナウンスに紛れて届かなかった。
でも口の形だけは、なぜかわかった。
――ごめん。
私は立ち尽くした。
七年前にも聞けなかった言葉が、今になって雨の向こうから落ちてきた気がした。
その夜、家に帰った私は、濡れた靴を脱ぐより先にクローゼットを開けた。
奥にしまい込んだ細長い傘袋。
紺色の傘は、七年分の沈黙を抱えたまま、そこにあった。
私は震える指で、それに触れた。
(第15話へ続く)




