昔の俺は最低だった
翌朝、私はいつもより十五分早く家を出た。
理由は簡単だ。普通に仕事をするためである。
普通に仕事をするには、普通じゃない顔をして会社に着いてはいけない。だから鏡の前で三回笑い、駅のホームで缶コーヒーを飲み、電車の窓に映る自分に向かって「よし」と口の中でつぶやいた。
完全に怪しい人だった。
でも大事だ。社会人は時に、自分を自分でだます技術が必要になる。
企画部のフロアに入ると、まだ人はまばらだった。コピー機の起動音、空調の低い音、誰かのデスクに置かれたマグカップ。昨日と何も変わらない朝。
変わってしまったのは、私のほうだけだ。
自席にバッグを置いた瞬間、斜め奥の部長席が視界に入った。
霧島部長はもう来ていた。
濃いグレーのスーツ。整った横顔。机に並んだ資料は今日もまっすぐで、ペンの角度まで無駄がない。人間のほうにも定規が入っているのでは、と時々疑いたくなる。
その部長が、ふと顔を上げた。
目が合う。
「おはようございます」
私は先に言った。早口にならないように、丁寧に。
「おはよう」
返ってきた声は、いつも通り低くて静かだった。
ただ、一拍だけ遅れた。
たったそれだけで、胸が勝手に反応する。昨日、改札の向こうで見た口の形。声にならなかった「ごめん」。クローゼットの奥に眠る紺色の傘。
だめだ。朝から回想フルコースは胃に重い。
私はパソコンを立ち上げ、未読メールを開いた。仕事。仕事である。恋愛未満の過去に振り回されている場合ではない。
そう思ったのに、午前の定例で部長が私の資料に視線を落とした瞬間、背筋が伸びた。
「結城さん、三ページ目」
「はい」
「この導入文は悪くない。ただ、根拠が一段弱い。昨日の市場データを足して、読み手が納得する順番に組み替えて」
「承知しました」
冷たい。いつもの鬼上司だ。
なのに、その指摘は的確すぎて腹が立たない。前職では、こういう曖昧な違和感を誰も拾ってくれなかった。私が何時間も悩んで積み上げたものを、雑に褒めるか雑に直されるかのどちらかだった。
部長は違う。
削るところは削る。でも、残すべきところは残してくれる。
そこが、ずるい。
仕事で尊敬してしまうと、過去の傷だけを理由に嫌いでい続けることができない。私の心はもう少し単純であってほしかった。
昼休み、給湯室であかねに捕まった。
「ひなた、顔が働いてない」
「働いてるよ。今日、議事録も取ったし」
「顔面の話」
来栖あかねは紙コップにお茶を注ぎながら、容赦なく私を見る。親友というものは、どうして人の防御壁を社員証みたいに簡単に通過してくるのだろう。
「昨日、部長と何かあった?」
「何かってほどの何かは」
「その言い方、百パー何かあった人の言い方」
私は沈黙した。
給湯室の湯気が、逃げ場みたいに白く立ち上る。
「……傘の話を、少しだけ」
それだけ言うと、あかねの目が丸くなった。
「え、核心じゃん」
「核心まではいってない。表面を爪でひっかいたくらい」
「十分痛そう」
そう。痛かった。
でも、不思議と昨日の痛みは七年前のそれとは少し違った。あの時はただ置き去りにされた気がした。今回は、向こうも同じ場所で立ち止まっているのが見えた。
見えたから、余計に苦しい。
「あかね」
「ん?」
「私、ちゃんと普通に仕事できてる?」
あかねは少しだけ表情をやわらげた。
「できてる。でも、無理してる」
「ですよね」
「無理はいいのよ。大人だし。でも、一人で勝手に結論出すのはやめな」
その言葉が胸に残ったまま、午後は怒涛の修正作業になった。
部長の指摘通りに資料を組み替えると、企画の流れが驚くほど見えやすくなった。悔しい。やっぱり悔しい。だけど、すごい。
夕方には大半の社員が退勤し、フロアの照明が間引かれた。窓の外は曇り始めている。天気予報では夜遅くから雨だったはずだ。
雨。
その二文字だけで、意識が勝手に傘へ飛ぶ。
今朝、紺色の傘を持ってくるか迷った。
結局、持ってこなかった。
理由は山ほどある。会社に七年前の傘を持ってくるなんて重すぎる。部長に見られたらどうする。そもそも降るかどうかわからない。大人なら折りたたみ傘で十分。
でも本当は、怖かったのだ。
あの傘を手にした瞬間、私の中の何かが「もう逃げるな」と言い出しそうで。
「結城さん」
突然名前を呼ばれ、肩が跳ねた。
振り向くと、部長が私のデスクの横に立っていた。残業中のフロアに、人はもうほとんどいない。少し離れた島で羽田くんが電話対応をしているくらいだ。
「修正、確認した」
「はい。問題ありましたか」
「大きな問題はない。流れはよくなった」
「……ありがとうございます」
素直にうれしい。悔しいけど、うれしい。
部長は私のモニターを見て、少し身をかがめた。距離が近い。香水ではなく、かすかなコーヒーの匂いがする。
私は息を止めそうになり、慌てて普通に呼吸をした。普通って難しい。朝からずっと普通を目指しているのに、全然普通がつかまらない。
「一箇所だけ」
部長がマウスに手を伸ばしかけて、止めた。
私の手がマウスの上にあったからだ。
触れてはいない。
でも、数センチの距離で部長の指が止まる。その一瞬の間に、昨日の傘の下で触れた手の熱がよみがえった。
「……すまない。口で言う」
「あ、はい」
部長のほうが先に距離を取った。
その仕草が、余計に意識させる。
上司として、部下として。線を引こうとしている。それはわかる。わかるのに、引かれた線の向こう側に、本当の言葉が隠れている気がしてしまう。
「この見出しは、少し強い。相手が反論したくなる」
「では、提案形に変えます」
「ああ。そのほうがいい」
会話は仕事の話だけだった。
それなのに、静かなフロアでは一つ一つの声が近すぎた。
修正を終え、保存ボタンを押した時には、時計は二十一時を回っていた。羽田くんもいつの間にかいなくなり、企画部には私と部長だけが残っている。
外で、ぽつ、と窓を打つ音がした。
雨だ。
私は反射的に窓を見る。ガラスに細い雨筋が伸びていた。
「降ってきましたね」
何気なく言ったつもりだった。
部長の動きが止まった。
ほんの一瞬。
でも私はもう、その一瞬を見逃せなくなっている。
部長はデスクの端に置いていた缶コーヒーに手を伸ばし、すぐにやめた。かわりに、給湯室のほうへ歩き出す。
「少し休め」
「え?」
「根を詰めすぎだ」
言い方は命令形なのに、声は少しだけ疲れていた。
私はつられるように立ち上がった。
給湯室で部長は、備え付けのコーヒーを淹れ直した。紙コップに落ちる黒い液体。湯気。雨音。狭い空間に二人。
心臓に悪い条件がそろいすぎている。
「砂糖は」
「いりません」
「昔から、甘すぎるものは苦手だったな」
その言葉は、あまりにも自然に落ちた。
私の時間が止まる。
部長も、言った直後に気づいたように固まった。
紙コップから湯気だけが上がっている。
「……今」
声が震えた。
「昔から、って言いました」
部長は目を伏せた。
否定しなかった。
その沈黙だけで、胸の奥が熱くなる。怒りなのか、安堵なのか、わからない。七年分の感情が一斉に立ち上がって、喉のところで詰まった。
「やっぱり、覚えてるんですね」
部長は長い息を吐いた。
「……覚えていないわけがない」
低い声だった。
静かで、苦しそうな声だった。
私は紙コップを握る手に力を入れた。熱い。けれど離せない。
「じゃあ、どうして初対面みたいに」
「結城さん」
呼び止める声が、いつもより弱い。
「言い訳になる」
「聞きたいです」
私は即答した。
言ってから、自分でも驚いた。昨日の私より、少しだけ踏み込んでいる。
部長は私を見た。氷の部長の目ではなかった。冷たく整えた仮面の下で、何かを必死に押しとどめている人の目だった。
「昔の俺は、最低だった」
その言葉は、雨音より小さかった。
でも、はっきり届いた。
最低。
七年前、私がずっと心の中で言えなかった言葉。ひどい、どうして、私の何がいけなかったの。そう責めたくても、好きだったから責めきれなかった相手が、自分でそう言った。
胸が痛んだ。
痛いのに、少しだけほどけた。
「……最低だったって、思ってたんですか」
「ああ」
「七年間?」
部長の喉が小さく動いた。
「ずっと」
ずるい。
そんなの、ずるい。
忘れていたなら憎めた。覚えていて平然としていたなら怒れた。でも、ずっと後悔していたと言われたら、私はどうすればいいのだろう。
許す準備なんてしていない。
もう一度好きになる準備だって、していない。
なのに心は、勝手に部長のほうへ一歩進もうとする。
部長は紙コップを私に差し出した。
「すまない。今日はここまでにしてくれ」
また線だ。
でも今度の線は、逃げるためだけのものではない気がした。これ以上踏み込んだら、部長自身も何かを保てなくなる。そんな、危うい線。
私はコーヒーを受け取った。
「……わかりました」
わかってはいない。
でも、わかりましたと言うしかなかった。
給湯室を出ると、窓の外の雨は強くなっていた。細い雨筋が、街の明かりをにじませている。
部長は自席に戻り、黒い長傘を手に取った。
私はバッグの中を探る。折りたたみ傘を入れたはずだった。朝、紺色の傘を置いて、その代わりにいつもの傘を入れたはず。
ない。
嘘でしょう。
ハンカチ、財布、社員証、充電器、なぜか二本入っているリップ。傘だけがない。今朝の私、何をしていた。普通になる儀式に全力を使いすぎたのか。
背後で、低い声がした。
「結城さん」
振り返ると、部長が私の手元を見ていた。
雨音が、フロアの窓を叩いている。
部長の指が、傘の持ち手を握り直した。
「傘は?」
(第16話へ続く)




