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黒い傘と、白い企画書

「傘は?」


 その一言に、私はバッグの中へ突っ込んでいた手を止めた。


 あります、と言いたかった。

 ありますよ普通に、社会人ですから雨予報くらい見ていますし、二十六歳にもなって上司に傘の心配をされるような女ではありません。


 そう胸を張るための傘が、ない。


「……ありません」


 敗北宣言みたいな声が出た。


 部長は責めなかった。ただ、私のバッグと窓の外を一度ずつ見て、黒い長傘を持ち直した。


「駅まで入れ」


「いえ、大丈夫です。コンビニまで走れば」


「資料、濡らす気か」


 言われて、抱えていたファイルに視線が落ちた。今日直したばかりの提案資料。濡らしたら、私の心より先に紙が波打つ。


「……お邪魔します」


 相合傘、という言葉を頭の中から全力で追い出した。


 違う。これは業務上の緊急避難。資料保護のための合理的判断。傘の半径内に部長がいるだけで、私の心臓が勝手に非常ベルを鳴らしているだけ。


 エントランスを出ると、夜の雨は思ったより強かった。


 部長が無言で傘を開く。黒い布が私たちの上に広がった瞬間、雨音が少し遠くなる。かわりに、部長の肩の位置と、袖口の白さと、近い体温がやけにはっきりした。


「寄れ」


「寄ってます」


「濡れてる」


 部長は傘を私のほうへ少し傾けた。


 そのせいで、部長の右肩が雨に打たれる。


「部長が濡れます」


「俺はいい」


 その言い方が、七年前の雨の日と重なった。


 あの時もそうだった。自分は濡れているのに、私の手元へ傘を押しつけて、何でもない顔をしていた。優しいくせに、優しいと言われるのを嫌がる人。


 胸の奥がきゅっと縮む。


「……そういうところです」


「何が」


「最低だったって言うなら、そういうところも込みで反省してください」


 言ってしまってから、雨より冷たい沈黙が落ちた。


 しまった。今のは言い過ぎた。いや、言い過ぎではないかもしれないけれど、上司と部下が駅までの道で交わす会話としてはだいぶ重い。


 部長はしばらく黙って歩いた。


 水たまりを避ける私の歩幅に合わせるように、少しだけ速度を落としているのがわかる。その細かさが、また腹立たしいくらい優しい。


「……努力する」


 低い声が雨の中で聞こえた。


「え」


「反省だけでは足りないだろう」


 私は顔を上げた。


 部長は前を向いたままだった。街灯の光が、傘の縁から横顔を薄く照らしている。表情はいつも通り硬い。なのに、耳のあたりだけ少し赤い気がした。


 気のせい。たぶん雨のせい。いや、雨で耳は赤くならない。


 心臓が困った音を立てる。


「部長」


「昔の話は、逃げずに話す」


 足が止まりそうになった。


 部長は続ける。


「ただ、会社で、上司としての立場を崩すつもりはない。君に不利な形にはしない」


 君に。


 その言葉が、傘の内側に残った。


 私はうまく返事ができなかった。聞きたいことは山ほどある。どうして覚えていないふりをしたのか。どうして七年前、あんなふうに終わらせたのか。ずっと後悔していたなら、どうして今もそんなに線を引くのか。


 でも、今ここで全部を聞いたら、この黒い傘の下が壊れてしまいそうだった。


「……わかりました」


 また、わかっていないのにそう言った。


 駅の明かりが見えたところで、部長は傘をさらに私のほうへ傾けた。


「走るな。足元、滑る」


「子どもじゃありません」


「知ってる」


 短い返事なのに、妙にやわらかかった。


 私は思わず黙る。


 知ってる。


 七年前の私ではなく、今の私を見て言われた気がした。


 改札前で傘から出ると、急に雨音が大きくなった。私は頭を下げる。


「ありがとうございました。資料、無事です」


「君は」


「え?」


「濡れてないか」


 それは反則だ。


 資料の次に私を確認するの、順番としてどうなの。いや、むしろ資料を口実にしていたのでは、とか考え始めたら負けだ。


「大丈夫です」


「そうか」


 部長はそれだけ言って、改札とは反対方向へ視線を向けた。たぶんタクシー乗り場だ。


「あの、部長」


「何だ」


「今日は、ここまでにします。でも、なかったことにはしません」


 自分の声が震えなかったことに、少し驚いた。


 部長の目が、ほんのわずかに揺れる。


「……ああ」


 その返事を聞いて、私は改札を抜けた。


 電車の窓に映る自分の顔は、ひどく落ち着かない顔をしていた。怒っているようで、泣きそうで、でも少しだけ笑いそうでもある。


 最低だったと、あの人は言った。

 逃げずに話すとも、言った。


 七年分の傷が急に消えるわけではない。許すかどうかも、まだわからない。


 それなのに私は、黒い傘の下で聞いた「知ってる」を何度も思い出してしまった。


 翌朝、企画部の空気はいつもより少し張っていた。


 雨は上がっていたけれど、窓の外はまだ白く曇っている。デスクに置かれた資料の山。会議室を行き来する営業部の人たち。朝から三上さんが部長席に来て、短く何かを確認していた。


「何かあるね、これは」


 隣の席で、あかねが小声で言った。


「何かって?」


「部長が朝から三上さんと話してる。しかも眉間が通常比二割増し」


「その比率、どこで測ってるの」


「恋する女の観察眼?」


「仕事の観察眼にしてください」


 軽口を返しながらも、私は部長のほうを見ないようにしていた。


 昨夜のことを思い出すと、顔が勝手に熱くなる。黒い傘。近い肩。逃げずに話す、という低い声。


 だめだ。職場。ここは職場。しかも相手は上司。私の脳内だけ梅雨の恋愛映画を上映している場合ではない。


 九時半、急きょ全体ミーティングが招集された。


 会議室に入ると、ホワイトボードには大きく「東都百貨店 秋季リニューアル販促企画」と書かれていた。


 東都百貨店。


 名前を見ただけで、室内の温度が一段上がった気がした。老舗で、広告予算も大きい。前職でも何度か噂を聞いたことがある。通れば、企画部としてはかなり大きな実績になる案件だ。


 部長が前に立つ。


 昨夜の雨の人ではない。黒い傘の下で言葉を選んでいた人ではなく、無駄のない声で場を動かす、企画部長の霧島湊だった。


「先方のリニューアルに合わせ、暮らし雑貨フロア全体の販促提案を行う。期限は三週間。競合は二社。勝ちに行く」


 その一言で、全員の背筋が伸びた。


 部長は資料を配りながら、現状の課題、先方の客層、競合の強みを淡々と説明していく。冷たいくらい簡潔なのに、聞いているうちに企画の輪郭が見えてくる。


 すごい。


 悔しいけれど、やっぱり思ってしまう。


 この人の仕事をしている姿が、私は好きだ。


 七年前、写真サークルで見た社会人の先輩としての横顔ではなく、今、同じ職場で、同じ資料を見ている相手として。


「結城さん」


 突然名前を呼ばれて、私は背筋を正した。


「はい」


「前職で生活雑貨系の店頭企画を担当していたな」


「はい。小規模ですが、季節フェアをいくつか」


「今回は君に生活者視点の企画骨子を出してもらう」


 会議室の視線が一斉にこちらを向いた。


 え。


 生活者視点。企画骨子。東都百貨店。三週間。競合二社。


 頭の中で単語が渋滞する。


 部長は続けた。


「俺が全体設計を見る。結城さんは初期案の軸を担当。今日中にラフを三本出してくれ」


「今日中、ですか」


「無理なら言え」


 いつもの冷たい問い方。


 けれど、そこに試すような意地悪さはなかった。できないと言えば責めるためではなく、必要な調整をするための確認だとわかる。


 私は資料を握った。


 逃げ癖が、喉元まで上がってくる。


 大きな案件。失敗したら迷惑をかける。私なんかが、と思う声。前の会社で何度も飲み込んだ声。


 でも、部長は私の経歴を覚えていた。

 覚えていたから、任せた。


「出します」


 声は思ったよりはっきりしていた。


「今日中に、三本」


 部長が一瞬だけ目を細める。


「頼む」


 その二文字で、胸の奥に火がついた。


 会議が終わると同時に、あかねが椅子ごと私に寄ってきた。


「ひなた、部長とペアじゃん」


「ペアって言い方やめて。業務分担です」


「はいはい、業務分担の名を借りた共同作業ね」


「余計悪い」


 耳が熱い。絶対赤い。あかねの視線がそこに刺さっている。


「でも、顔つき変わった」


「え?」


「任された時、逃げなかった」


 私は返事に詰まった。


 逃げなかった。


 そう言われて初めて、自分でも気づいた。


 昨日、私は「なかったことにはしません」と言った。昔のことにも、今の気持ちにも。そして仕事でも、同じように逃げたくなかった。


 昼休みもそこそこに、私はデスクで資料を広げた。


 東都百貨店の客層。暮らし雑貨フロアの動線。季節は秋。雨から晴れへ移るような、家の中の温度を変える提案。


 考えれば考えるほど、楽しくなってくる。


 怖いのに、楽しい。


 十八時を過ぎる頃には、ラフ案を三本、どうにか形にしていた。完璧ではない。むしろ穴だらけだ。でも、私の視点で作った案だった。


 部長席へ持っていくと、部長は黙って資料を読み始めた。


 一枚目、二枚目、三枚目。


 赤ペンが入るたびに、心臓が縮む。


「このコピーは弱い」


「はい」


「導線提案は悪くない。ただ、売り場側の人員負荷が見えていない」


「修正します」


「三案目」


 部長の指が止まった。


 私は息を止める。


「軸はこれだ」


「……本当ですか」


「詰めれば戦える」


 その瞬間、胸の奥がぱっと明るくなった。


 褒められたわけではない。むしろこれから詰める部分のほうが多い。でも、私の出したものが、部長の中で企画の核として残った。


 嬉しい。


 単純に、ものすごく嬉しい。


「ありがとうございます」


「礼は通ってからにしろ」


「はい」


 そう返事をした時、部長の手元にある赤ペンのインクが切れた。


 部長は眉を寄せ、ペンを振る。出ない。もう一度振る。やっぱり出ない。


 その姿が少しだけ人間くさくて、私は思わず笑いそうになった。


「替え、あります」


 自分のペンケースから赤ペンを差し出す。


 部長が受け取る時、指先がほんの少し触れた。


 紙より薄い接触。


 なのに、そこだけ温度が残る。


「……借りる」


「どうぞ」


 部長はすぐに資料へ視線を戻した。私も仕事の顔に戻ろうとした。


 でも、赤ペンを持つ部長の指先を見てしまう。


 七年前の傘を握っていた手。昨日、黒い傘を傾けてくれた手。今、私の企画書に線を引く手。


 過去の人だったはずの霧島湊が、現在の私の仕事の上に、確かにいる。


 そのことが、怖いくらい胸に響いた。


「結城さん」


「はい」


「明日の朝、八時半。第一会議室に来てくれ」


「八時半、ですか」


「東都の案件は通常業務の前に詰める。しばらく俺と二人で進めることになる」


 俺と二人で。


 その言葉が、赤ペンより濃く頭に残った。


 部長は何事もなかったように資料を閉じる。


「覚悟しておけ」


 仕事の話だ。

 完全に仕事の話だ。


 それなのに私は、胸の奥で小さく跳ねる音を止められなかった。


(第17話へ続く)

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