八時半の第一会議室
翌朝、私はいつもより三十分早く会社に着いた。
気合いが入りすぎている。
自覚はある。
でも、昨日「しばらく俺と二人で進める」と言われた瞬間から、私の中の何かがずっと小刻みに震えていた。
仕事だ。
これは仕事。
東都百貨店の大型企画で、失敗したら会社にも部長にも迷惑がかかる。
そう何度も言い聞かせているのに、第一会議室のドアノブに手をかけた時、指先が少し汗ばんでいた。
「おはようございます」
そっと入ると、すでに部長がいた。
窓際の席。ノートパソコン。広げられた資料。白い紙コップから上がる湯気。
八時半集合なのに、まだ八時十七分。
「早いな」
「部長こそ早いです」
「準備がある」
「私も準備があるので」
言い返してから、しまった、と思った。
朝から上司に張り合ってどうする、私。
でも部長は怒らなかった。ほんの一瞬だけ、口元が緩んだように見えた。
「なら、座って」
その低い声に促され、私は向かいの席に腰を下ろす。
会議室はまだ空調が効き始めたばかりで、少し肌寒い。蛍光灯の白い光と、窓の外の薄い朝が混ざって、いつもの職場が別の場所みたいに見えた。
二人きり、という単語を考えないようにするほど、逆に意識してしまう。
だめ。脳内会議を開くな。議題が全部、霧島湊になる。
「昨日の三案目を軸にする」
部長が資料を一枚こちらへ滑らせた。
「ただし、そのままでは弱い。結城さんの視点はいいが、売り場に落とすには甘い」
「はい」
「まず、この企画で誰を動かすか。客、販売員、バイヤー。全部を同じ言葉で動かそうとすると失敗する」
赤ペンが紙の上を走る。
昨日、私が貸した赤ペンだった。
なんでもないはずなのに、見つけた瞬間、胸が小さく跳ねた。
私のペンを、部長が普通に使っている。
ただそれだけなのに、会議室の机の上に、自分のものが一つ置かれているみたいで落ち着かない。
「聞いてるか」
「聞いてます。販売員向けには、売り文句より導線と声掛けのしやすさ、ですよね」
反射で答えると、部長の目がこちらを見た。
「そうだ」
短い肯定。
たった二文字なのに、さっきまで冷えていた指先に血が戻る。
私はノートを開き、必死で書き込んだ。
企画名。ターゲット。売り場導線。展示台の高さ。雨の日に立ち寄る客の心理。家に帰った時、少しだけ部屋を整えたくなる気持ち。
部長の指摘は容赦がない。
「そこは感覚で逃げるな」
「数字を置け」
「その言葉はきれいだが、買う理由になっていない」
刺さる。かなり刺さる。
でも、不思議と痛いだけじゃなかった。
前の会社で言われた「なんか違う」とは違う。部長の言葉には、どこを直せば前に進むのかがあった。
私の案を捨てるためではなく、使える形にするための刃。
怖い。
でも、面白い。
「このコピー、別案を出します」
「今ここで出せ」
「えっ、今ですか」
「考える癖を、会議室の外に逃がすな」
鬼。
やっぱり鬼。
だけど、逃げるなと言われた気がして、私はペンを握り直した。
雨の日。秋のはじまり。帰った部屋の明かり。濡れた靴。湯気。少しだけ変えたい生活。
言葉を並べ、消し、また書く。
部長は急かさなかった。
腕を組んで、黙って待っている。
その沈黙が、意外なくらい息苦しくない。
七年前の私は、霧島さんの沈黙が怖かった。何を考えているかわからなくて、嫌われたのだと思って、勝手に心を縮めた。
でも今の私は少しだけ知っている。
この人の沈黙は、突き放すためだけのものじゃない。
考える時間を、奪わないための沈黙でもある。
「……『雨の日の帰り道を、少し好きになる売り場』」
口にした瞬間、自分で恥ずかしくなった。
何それ。ポエムか。朝八時台から何を言っているの、結城ひなた。
恐る恐る部長を見る。
部長は紙に視線を落としたまま、ほんの少し黙った。
心臓が、いやな音を立てる。
「悪くない」
「……本当ですか」
「感情の入口になる。だが、そのままだと甘い。売り場名ではなく、提案コピーに回す」
「はい!」
声が大きくなりすぎた。
部長の眉がかすかに動く。
「朝から元気だな」
「すみません」
「悪いとは言っていない」
その言い方が、妙にやさしく聞こえた。
私は慌ててノートに目を落とす。耳が熱い。赤くなるな、耳。今は仕事中だ。血流、空気を読んで。
八時半を過ぎる頃には、会議室の外も少しずつにぎやかになり始めていた。
コピー機の音。誰かの挨拶。廊下を急ぐ足音。
いつもの会社が戻ってくる。
それが少し残念だと思ってしまって、私は自分に驚いた。
部長と二人きりの空気に、慣れたわけじゃない。むしろ全然慣れていない。心臓は毎分忙しいし、視線が合うたびに内心で小さく転んでいる。
それなのに、この時間が終わるのが惜しい。
仕事が楽しいから。
たぶん、それだけじゃないから。
「結城さん」
「はい」
「十時の定例までに、今の修正を反映してくれ。午後、三上にも見せる」
「三上さんに、ですか」
「東都の売り場事情は三上が詳しい」
その名前が出た瞬間、胸の奥が少しだけきゅっとした。
三上玲子さん。
部長の右腕で、誰より自然に隣に立てる人。
わかっている。仕事だ。三上さんは有能で、東都案件には必要な人。私が妙な感情を挟む余地なんてない。
それでも、部長の口から迷いなく名前が出ると、自分の席が急に浅くなった気がした。
「不安か」
部長にそう聞かれ、私は慌てて顔を上げた。
「いえ。三上さんに見ていただけるのは心強いです」
「そういう意味じゃない」
部長の視線がまっすぐこちらに向く。
「自分の案を、他人に直されるのが不安かと聞いている」
あ。
そっち。
私は恥ずかしさで、今度こそ耳どころか首まで熱くなった。
何を勝手に違う方向へ飛んでいたの、私の心。社内で走るな。廊下は歩け。
「……不安です」
正直に言った。
「でも、直されたくないわけじゃありません。ちゃんと戦える案にしたいです」
部長は数秒、私を見ていた。
その沈黙の後、静かにうなずく。
「なら大丈夫だ」
大丈夫。
部長の言葉は短いのに、妙に重みがある。
根拠をたくさん並べて励まされるより、ずっと深いところに落ちてくる。
「結城さんの案は、まだ粗い」
「はい」
「だが、捨てる必要はない」
胸が、じわっと熱くなった。
捨てる必要はない。
企画の話だとわかっている。
それでも、その言葉は七年前の私にも触れた気がした。
捨てなくていい。
あの時の気持ちも、今ここで頑張りたい自分も。
私はノートの端を押さえた。
「ありがとうございます」
「礼は通ってからだ」
「昨日も聞きました」
つい口から出てしまった。
しまった、と思った時にはもう遅い。
部長が目を細める。
「覚えているなら、言うな」
「すみません」
でも、部長の声は少しだけ柔らかかった。
覚えているなら。
その言葉に、別の意味を探しそうになって、私は慌てて視線を資料へ落とした。
だめ。今のはただの会話。勝手に深読み禁止。
けれど胸のどこかで、七年前からの小さな疑問がまた顔を出す。
部長は、本当に何も覚えていないのだろうか。
私の好きだった缶コーヒー。
昔と同じ仕草に固まった目。
雨の日に傘を気にする声。
そして昨日の、「昔の俺は最低だった」という言葉。
点は増えているのに、線にする勇気がまだない。
会議室を出る前、部長が紙コップを片付けようとして、ふと私の手元を見た。
「冷えてるな」
「え?」
「指」
自分の指先を見る。確かに、ペンを握りしめていたせいか、爪のあたりが白くなっていた。
「緊張すると、昔から……」
言いかけて、息が止まった。
昔から。
私が自分で言ったその言葉に、部長の動きも止まった。
一秒。
二秒。
会議室の外のざわめきだけが、やけに遠く聞こえる。
「……力を入れすぎると、線がぶれる」
部長は何事もなかったように言った。
「ペンは軽く持て」
「はい」
それは仕事の助言だった。
間違いなく仕事の助言。
なのに、七年前、雨の中で傘の柄をぎゅっと握っていた私の手を、この人だけが覚えているような気がしてしまった。
苦しくて、うれしくて、腹立たしい。
覚えていないフリをするなら、そんな顔をしないでほしい。
第一会議室を出ると、ちょうど廊下の向こうから三上さんが歩いてきた。
「おはようございます。朝から東都ですか?」
「ああ。午後に見てほしい」
「了解です」
三上さんは私にも微笑んだ。
「結城さん、楽しみにしてる」
「よろしくお願いします」
その笑顔は穏やかで、敵意なんて少しもない。
だからこそ、自分の小さな嫉妬が余計に恥ずかしくなる。
私は会釈して自席へ戻ろうとした。
その時、背後で三上さんの声が少し低くなった。
「霧島さん、東都の担当、白石さんにも話が上がってます」
足が止まりかけた。
白石部長代理。
名前だけで、空気が少し硬くなる人。
「余計な口を出される前に、形にする」
部長の声も、仕事の温度に戻っていた。
「結城さん」
呼ばれて振り向く。
部長は赤ペンを胸ポケットに差しながら、まっすぐ私を見た。
「今日、昼休みを十五分だけもらう。詰めたい点がある」
「昼休み、ですか」
「嫌なら断っていい」
その言い方に、なぜか胸が痛くなった。
断れる余地を、必ず残す人。
線を引くのが上手で、でもその線の向こうで、たぶんいつも一人で立っている人。
「嫌じゃありません」
私は自分でも驚くほど静かに答えた。
「十五分、空けておきます」
部長は一瞬だけ目を伏せた。
「助かる」
それだけ言って、彼は先に歩き出した。
背中を見送りながら、私は手帳を開く。
昼休みの欄に、短く書いた。
十二時十五分、第一会議室。
仕事の予定。
ただの仕事の予定。
なのにその文字を見た瞬間、胸の奥でまた、小さな雨音みたいな予感が鳴った。
(第18話へ続く)




