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17/25

八時半の第一会議室

 翌朝、私はいつもより三十分早く会社に着いた。


 気合いが入りすぎている。

 自覚はある。


 でも、昨日「しばらく俺と二人で進める」と言われた瞬間から、私の中の何かがずっと小刻みに震えていた。


 仕事だ。

 これは仕事。

 東都百貨店の大型企画で、失敗したら会社にも部長にも迷惑がかかる。


 そう何度も言い聞かせているのに、第一会議室のドアノブに手をかけた時、指先が少し汗ばんでいた。


「おはようございます」


 そっと入ると、すでに部長がいた。


 窓際の席。ノートパソコン。広げられた資料。白い紙コップから上がる湯気。


 八時半集合なのに、まだ八時十七分。


「早いな」


「部長こそ早いです」


「準備がある」


「私も準備があるので」


 言い返してから、しまった、と思った。

 朝から上司に張り合ってどうする、私。


 でも部長は怒らなかった。ほんの一瞬だけ、口元が緩んだように見えた。


「なら、座って」


 その低い声に促され、私は向かいの席に腰を下ろす。


 会議室はまだ空調が効き始めたばかりで、少し肌寒い。蛍光灯の白い光と、窓の外の薄い朝が混ざって、いつもの職場が別の場所みたいに見えた。


 二人きり、という単語を考えないようにするほど、逆に意識してしまう。


 だめ。脳内会議を開くな。議題が全部、霧島湊になる。


「昨日の三案目を軸にする」


 部長が資料を一枚こちらへ滑らせた。


「ただし、そのままでは弱い。結城さんの視点はいいが、売り場に落とすには甘い」


「はい」


「まず、この企画で誰を動かすか。客、販売員、バイヤー。全部を同じ言葉で動かそうとすると失敗する」


 赤ペンが紙の上を走る。


 昨日、私が貸した赤ペンだった。


 なんでもないはずなのに、見つけた瞬間、胸が小さく跳ねた。


 私のペンを、部長が普通に使っている。

 ただそれだけなのに、会議室の机の上に、自分のものが一つ置かれているみたいで落ち着かない。


「聞いてるか」


「聞いてます。販売員向けには、売り文句より導線と声掛けのしやすさ、ですよね」


 反射で答えると、部長の目がこちらを見た。


「そうだ」


 短い肯定。


 たった二文字なのに、さっきまで冷えていた指先に血が戻る。


 私はノートを開き、必死で書き込んだ。


 企画名。ターゲット。売り場導線。展示台の高さ。雨の日に立ち寄る客の心理。家に帰った時、少しだけ部屋を整えたくなる気持ち。


 部長の指摘は容赦がない。


「そこは感覚で逃げるな」

「数字を置け」

「その言葉はきれいだが、買う理由になっていない」


 刺さる。かなり刺さる。


 でも、不思議と痛いだけじゃなかった。


 前の会社で言われた「なんか違う」とは違う。部長の言葉には、どこを直せば前に進むのかがあった。


 私の案を捨てるためではなく、使える形にするための刃。


 怖い。

 でも、面白い。


「このコピー、別案を出します」


「今ここで出せ」


「えっ、今ですか」


「考える癖を、会議室の外に逃がすな」


 鬼。

 やっぱり鬼。


 だけど、逃げるなと言われた気がして、私はペンを握り直した。


 雨の日。秋のはじまり。帰った部屋の明かり。濡れた靴。湯気。少しだけ変えたい生活。


 言葉を並べ、消し、また書く。


 部長は急かさなかった。

 腕を組んで、黙って待っている。


 その沈黙が、意外なくらい息苦しくない。


 七年前の私は、霧島さんの沈黙が怖かった。何を考えているかわからなくて、嫌われたのだと思って、勝手に心を縮めた。


 でも今の私は少しだけ知っている。


 この人の沈黙は、突き放すためだけのものじゃない。

 考える時間を、奪わないための沈黙でもある。


「……『雨の日の帰り道を、少し好きになる売り場』」


 口にした瞬間、自分で恥ずかしくなった。


 何それ。ポエムか。朝八時台から何を言っているの、結城ひなた。


 恐る恐る部長を見る。


 部長は紙に視線を落としたまま、ほんの少し黙った。


 心臓が、いやな音を立てる。


「悪くない」


「……本当ですか」


「感情の入口になる。だが、そのままだと甘い。売り場名ではなく、提案コピーに回す」


「はい!」


 声が大きくなりすぎた。

 部長の眉がかすかに動く。


「朝から元気だな」


「すみません」


「悪いとは言っていない」


 その言い方が、妙にやさしく聞こえた。


 私は慌ててノートに目を落とす。耳が熱い。赤くなるな、耳。今は仕事中だ。血流、空気を読んで。


 八時半を過ぎる頃には、会議室の外も少しずつにぎやかになり始めていた。


 コピー機の音。誰かの挨拶。廊下を急ぐ足音。


 いつもの会社が戻ってくる。


 それが少し残念だと思ってしまって、私は自分に驚いた。


 部長と二人きりの空気に、慣れたわけじゃない。むしろ全然慣れていない。心臓は毎分忙しいし、視線が合うたびに内心で小さく転んでいる。


 それなのに、この時間が終わるのが惜しい。


 仕事が楽しいから。

 たぶん、それだけじゃないから。


「結城さん」


「はい」


「十時の定例までに、今の修正を反映してくれ。午後、三上にも見せる」


「三上さんに、ですか」


「東都の売り場事情は三上が詳しい」


 その名前が出た瞬間、胸の奥が少しだけきゅっとした。


 三上玲子さん。

 部長の右腕で、誰より自然に隣に立てる人。


 わかっている。仕事だ。三上さんは有能で、東都案件には必要な人。私が妙な感情を挟む余地なんてない。


 それでも、部長の口から迷いなく名前が出ると、自分の席が急に浅くなった気がした。


「不安か」


 部長にそう聞かれ、私は慌てて顔を上げた。


「いえ。三上さんに見ていただけるのは心強いです」


「そういう意味じゃない」


 部長の視線がまっすぐこちらに向く。


「自分の案を、他人に直されるのが不安かと聞いている」


 あ。


 そっち。


 私は恥ずかしさで、今度こそ耳どころか首まで熱くなった。

 何を勝手に違う方向へ飛んでいたの、私の心。社内で走るな。廊下は歩け。


「……不安です」


 正直に言った。


「でも、直されたくないわけじゃありません。ちゃんと戦える案にしたいです」


 部長は数秒、私を見ていた。


 その沈黙の後、静かにうなずく。


「なら大丈夫だ」


 大丈夫。


 部長の言葉は短いのに、妙に重みがある。


 根拠をたくさん並べて励まされるより、ずっと深いところに落ちてくる。


「結城さんの案は、まだ粗い」


「はい」


「だが、捨てる必要はない」


 胸が、じわっと熱くなった。


 捨てる必要はない。


 企画の話だとわかっている。

 それでも、その言葉は七年前の私にも触れた気がした。


 捨てなくていい。

 あの時の気持ちも、今ここで頑張りたい自分も。


 私はノートの端を押さえた。


「ありがとうございます」


「礼は通ってからだ」


「昨日も聞きました」


 つい口から出てしまった。


 しまった、と思った時にはもう遅い。


 部長が目を細める。


「覚えているなら、言うな」


「すみません」


 でも、部長の声は少しだけ柔らかかった。


 覚えているなら。


 その言葉に、別の意味を探しそうになって、私は慌てて視線を資料へ落とした。


 だめ。今のはただの会話。勝手に深読み禁止。


 けれど胸のどこかで、七年前からの小さな疑問がまた顔を出す。


 部長は、本当に何も覚えていないのだろうか。


 私の好きだった缶コーヒー。

 昔と同じ仕草に固まった目。

 雨の日に傘を気にする声。


 そして昨日の、「昔の俺は最低だった」という言葉。


 点は増えているのに、線にする勇気がまだない。


 会議室を出る前、部長が紙コップを片付けようとして、ふと私の手元を見た。


「冷えてるな」


「え?」


「指」


 自分の指先を見る。確かに、ペンを握りしめていたせいか、爪のあたりが白くなっていた。


「緊張すると、昔から……」


 言いかけて、息が止まった。


 昔から。


 私が自分で言ったその言葉に、部長の動きも止まった。


 一秒。

 二秒。


 会議室の外のざわめきだけが、やけに遠く聞こえる。


「……力を入れすぎると、線がぶれる」


 部長は何事もなかったように言った。


「ペンは軽く持て」


「はい」


 それは仕事の助言だった。

 間違いなく仕事の助言。


 なのに、七年前、雨の中で傘の柄をぎゅっと握っていた私の手を、この人だけが覚えているような気がしてしまった。


 苦しくて、うれしくて、腹立たしい。


 覚えていないフリをするなら、そんな顔をしないでほしい。


 第一会議室を出ると、ちょうど廊下の向こうから三上さんが歩いてきた。


「おはようございます。朝から東都ですか?」


「ああ。午後に見てほしい」


「了解です」


 三上さんは私にも微笑んだ。


「結城さん、楽しみにしてる」


「よろしくお願いします」


 その笑顔は穏やかで、敵意なんて少しもない。

 だからこそ、自分の小さな嫉妬が余計に恥ずかしくなる。


 私は会釈して自席へ戻ろうとした。


 その時、背後で三上さんの声が少し低くなった。


「霧島さん、東都の担当、白石さんにも話が上がってます」


 足が止まりかけた。


 白石部長代理。

 名前だけで、空気が少し硬くなる人。


「余計な口を出される前に、形にする」


 部長の声も、仕事の温度に戻っていた。


「結城さん」


 呼ばれて振り向く。


 部長は赤ペンを胸ポケットに差しながら、まっすぐ私を見た。


「今日、昼休みを十五分だけもらう。詰めたい点がある」


「昼休み、ですか」


「嫌なら断っていい」


 その言い方に、なぜか胸が痛くなった。


 断れる余地を、必ず残す人。

 線を引くのが上手で、でもその線の向こうで、たぶんいつも一人で立っている人。


「嫌じゃありません」


 私は自分でも驚くほど静かに答えた。


「十五分、空けておきます」


 部長は一瞬だけ目を伏せた。


「助かる」


 それだけ言って、彼は先に歩き出した。


 背中を見送りながら、私は手帳を開く。


 昼休みの欄に、短く書いた。


 十二時十五分、第一会議室。


 仕事の予定。

 ただの仕事の予定。


 なのにその文字を見た瞬間、胸の奥でまた、小さな雨音みたいな予感が鳴った。


(第18話へ続く)

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