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18/22

十五分の昼休み

 十二時十五分、第一会議室。


 手帳に書いたその文字は、仕事の予定以外の何ものでもない。

 ない、はずなのに。


 午前中、私はその五文字を何度も見返してしまった。


 昼休み。


 ただの昼休み。

 社会人にとっては、メールを返しながらおにぎりを飲み込むための時間であり、コンビニのレジ前で己の判断力の低下を思い知る時間であり、たまに同期と愚痴をこぼして生き返る時間である。


 決して、上司と二人で会議室に入るたびに胸が妙な跳ね方をする時間ではない。


「ひなた、顔」


 隣の席から、あかねが低い声で言った。


「顔って何」


「『私は冷静です』って顔をしようとして、結果的にめちゃくちゃ不自然な顔」


「やめて。言語化しないで」


 私は慌ててディスプレイに向き直る。

 東都リビング向け新サービス企画の資料。昨日から何度も見ているのに、文字がときどき滑る。


 だめだ。仕事、仕事。


 部長が私に声をかけたのは、企画を詰めるため。

 白石部長代理の耳に入った以上、曖昧なまま出せば横やりが入る。だから昼休みに十五分だけ、短く確認する。


 それだけ。


 そう自分に言い聞かせているのに、朝の第一会議室で聞いた言葉が、ずっと胸の奥に残っていた。


 結城さんの案は、まだ粗い。

 だが、捨てる必要はない。


 捨てる必要はない。


 企画書の話。

 それはわかっている。

 わかっているのに、七年前、雨の中に置き去りにした気持ちまで拾い上げられたような気がして、私はうっかり呼吸の仕方を忘れそうになる。


 十二時のチャイムが鳴ると同時に、フロアの空気が少し緩んだ。

 椅子が引かれ、財布を持った人たちが立ち上がり、あちこちで「今日どうする?」という声が飛ぶ。


「一緒に下行く?」


 あかねが聞いてくれた。


「あ、私、十五分だけ会議室」


「霧島部長?」


「仕事です」


「まだ何も言ってない」


「顔が言ってた」


 あかねはにやっと笑ったあと、少しだけ真面目な目になった。


「無理はしないんだよ。仕事でも、気持ちでも」


 その言い方に、胸の変なところを押された。


「……うん」


「あと、耳赤い」


「最後で全部台なし!」


 小声で抗議すると、あかねは楽しそうに手を振って給湯室のほうへ消えていった。


 私はノートと資料を抱え、第一会議室へ向かう。

 廊下は昼休み特有のざわめきに包まれていた。なのに会議室前に立った瞬間、そこだけ空気が一段静かになる。


 ノックしようとしたところで、中から扉が開いた。


「時間ぴったりだな」


 霧島部長が立っていた。


「お、お疲れさまです」


「昼休みだ。そんなに固くならなくていい」


 そう言う本人の顔が、誰よりも仕事の温度なのですが。


 心の中でだけ突っ込み、私は会議室に入った。


 机の上には、赤ペンで書き込まれた私の企画書と、付箋が貼られた競合資料。そして紙パックのお茶が二本置いてあった。


「……お茶?」


「会議室の乾燥がひどい」


「ありがとうございます」


「礼は企画が通ってからだ」


「三回目です」


 言ってから、またやってしまったと思った。

 でも部長は、ほんの少しだけ口元を動かした。


「覚えているなら、二回目で止めろ」


 その声が、朝より少しだけ柔らかい。

 たったそれだけで、胸が勝手に忙しくなる。


 やめてほしい。

 仕事中の小さな優しさに、いちいち反応する私の心臓も、ついでに反省会に参加してほしい。


「十五分で終わらせる」


 部長は腕時計を見た。


「残りの時間で昼を食べろ。午後の打ち合わせ前に倒れられると困る」


「倒れません」


「朝からコーヒーしか飲んでいない顔だ」


「顔でそこまでわかります?」


「わかる」


 即答だった。


 その一言に、喉の奥がきゅっと詰まる。

 七年前も、この人はよく人の顔色を見ていた。写真サークルの飲み会で、私が無理に笑っていると、気づけば水のグラスが近くに置かれていた。


 でも彼は、いつも何も言わなかった。

 優しさに名前をつけない人だった。


「結城さん」


「あ、はい」


「ここだ」


 部長が資料の一ページ目を指で押さえた。


「提案の芯は、この一文にある」


 見ると、赤ペンではなく青い付箋が貼られていた。


 『忙しい人が、家のことを少しだけ好きになれる仕組み』


 昨日、私が勢いで書いた言葉だ。

 少し感情的すぎるかと思って、あとで削ろうとしていた一文。


「ここ、残すんですか」


「残す」


「でも、企画書としては少し甘いというか」


「甘い言葉を、甘いまま出すな。数字と導線で支えればいい」


 部長は淡々と言った。


「人が動く理由を先に捨てるな。便利だからだけで、生活は変わらない」


 胸の奥が、音もなく熱くなった。


 厳しい。

 相変わらず言葉は少なくて、表情も読みにくい。

 でもこの人は、私がいちばん見てほしかった場所を、ちゃんと見ている。


 前の会社では、こういう言葉はよく「ふわっとしてる」で終わった。

 私もそのたびに、「ですよね」と笑って消した。

 傷つく前に、自分から引っ込めるのが癖だった。


 だけど、部長は消せと言わなかった。


 粗い。

 でも捨てるな。


 まるで、企画書の端に立っている私自身に言われているみたいだった。


「結城さんは、ここを感情で書いた」


「はい」


「なら、次は相手の言葉に翻訳しろ」


「相手の言葉」


「東都リビングが欲しいのは、きれいな共感ではない。既存会員の継続率と、購入単価を上げる理由だ」


 部長は資料をめくる。


「だが、その数字を動かす入り口に、この一文は使える」


 私はペンを握り直した。


「つまり、情緒を入口にして、行動データで設計する」


「そうだ」


「会員アンケートの自由回答を、生活シーン別に拾い直します。あと、利用頻度が落ちる三か月目に、家事負担が増えるタイミングの提案を入れて……」


「悪くない」


 その一言で、背筋が伸びる。


 悪くない。

 霧島部長辞典では、おそらく「かなり良い」の入口あたりに位置する言葉だ。たぶん。希望的観測込みで。


 私がノートに書き込んでいると、部長の指が紙面の端に伸びた。


「そこ、主語が大きい」


「え?」


「『共働き家庭』では広すぎる。東都の既存客なら、まず三十代後半から四十代前半の、買い替え層に絞れ」


「はい」


 部長の指先が、私のペン先のすぐ近くで止まる。


 数センチ。

 本当に、ただそれだけの距離。


 でもその数センチが、どうしてこんなに落ち着かないのか。


 指が触れたわけでもない。

 甘い言葉を言われたわけでもない。

 仕事の話しかしていない。


 なのに、部長の体温が机越しに伝わってくる気がして、私は必要以上に丁寧な字でメモを書いた。


 手元を見るな、私。

 いや仕事だから見る必要はある。

 でも見すぎるな。

 何この難易度の高い自己管理。


「結城さん」


「はいっ」


 声が少し裏返った。


 部長が私を見る。

 あ、終わった。完全に不審者だ。


「ペン」


「ペン?」


「また力が入っている」


 言われて、私は自分の指を見る。

 確かに、ペンを握る指先が白くなっていた。


「すみません」


「謝ることじゃない」


 部長は少し間を置いた。


「癖は、直すより先に気づけばいい」


 その声が、ひどく静かだった。


 胸が、つきんとした。


 癖。

 緊張すると指に力が入る癖。

 言われる前に謝る癖。

 傷つく前に笑う癖。

 気持ちを重荷だと思って、先に自分で下ろしてしまう癖。


 この人は、どこまで気づいているのだろう。


 問いかけたい衝動が喉まで上がってきた。


 七年前のこと、覚えていますか。

 どうして初対面みたいにしたんですか。

 あの雨の日、私のことを少しでも思い出すことはありますか。


 でも、会議室の時計は十二時二十六分を指している。

 ここは職場で、目の前にあるのは東都リビングの企画書で、私はまだ、この人の部下だ。


 だから私は、その言葉を飲み込んだ。


「……気をつけます」


「無理に直せとは言っていない」


「はい」


「必要な時に、力を抜ければいい」


 部長が資料を閉じる。


「今日の十五時までに、今の観点で三ページ目だけ組み直してくれ。俺が見る」


「わかりました」


「午後、白石さんがフロアに来る可能性がある」


 一気に空気が仕事に戻った。


「白石部長代理が?」


「東都の件を確認したいらしい。まだ途中だと言えばいい。余計な説明は俺がする」


 その言い方に、少しだけ引っかかった。


 俺がする。


 守られているみたいで心強い。

 でも、それだけではだめだとも思った。


 これは私の企画だ。

 部長に見つけてもらった一文を、私自身が相手の言葉に翻訳しなければいけない。


「私も説明します」


 気づいた時には、そう言っていた。


 部長の目が、わずかに動く。


「白石さんに聞かれたら、自分の担当部分は私が話します。まだ粗いですけど、逃げたくないので」


 言い終えてから、心臓が遅れて暴れ出した。


 何を宣言しているの、私。

 相手は氷の部長で、白石部長代理は社内でも有名な圧の強い人で、私は中途入社してまだ日が浅い。


 でも、不思議と取り消したいとは思わなかった。


 部長はしばらく黙っていた。

 その沈黙が怖くて、でも逃げたくなくて、私は視線をそらさずに待つ。


「……わかった」


 やがて部長は静かにうなずいた。


「必要なら横にいる」


 横にいる。


 たったそれだけの言葉なのに、胸の奥に温かいものが広がった。

 前に出ろとも、下がっていろとも言わない。

 ただ、横にいる。


 それが今の私には、どうしようもなく心強かった。


「ありがとうございます」


「礼は」


「企画が通ってから、ですよね」


 今度は先に言えた。


 部長が一瞬だけ、困ったように目を伏せた。

 笑った、のかもしれない。

 あまりにも小さすぎて、証拠写真がなければ主張できないレベルだけれど。


 会議室を出ると、廊下の窓に薄い雲が映っていた。

 朝は晴れていたはずなのに、空の色が少し重い。


 私は資料を抱え直し、自席へ戻ろうとした。


 その時、背後で部長のスマホが短く震えた。


 部長は画面を確認し、眉をほんの少し寄せる。


「どうかしましたか」


「東都からだ」


 胸が跳ねた。


「先方の部長が、今日の夕方に一度、途中案を見たいと言っている」


「今日の、夕方」


 予定より早い。

 しかも、三ページ目はまだ組み直していない。


 昼休みの廊下のざわめきが、急に遠くなる。


 部長はスマホをしまい、私を見た。


「結城さん」


「はい」


「午後、少し忙しくなる」


 その声はいつものように冷静だった。

 でも私はもう、知っている。


 冷たい表面の下で、この人が誰より先に段取りを組み、誰より静かに火の中へ入っていくことを。


 そしてたぶん、今度は私もそこへ踏み込む番だ。


 会議室の窓の外で、細い雨粒が一筋、ガラスを伝った。


(第19話へ続く)

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