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19/22

横にいる人

 午後の企画部フロアは、雨の匂いを連れていた。


 窓の外では、昼に一本だけ伝った雨粒が本格的な線になって、ガラスを細く叩いている。社内の空調はいつも通りなのに、紙の端が少し湿っている気がした。


 そして私の机の上は、湿気どころではなかった。


 資料、付箋、赤ペン、過去の提案書、東都リビングの既存カタログ、ヒアリングメモ。

 きれいに並べたつもりが、五分後には現場検証後みたいになる。


 犯人は私です。

 動機は焦りです。


「結城さん、三ページ目の導線図、こっちの数字と合ってない」


 斜め前から三上さんの声が飛んできた。


「はい、今直します!」


「声、大きい」


「すみません!」


「謝る声も大きい」


 ぐうの音も出ない。


 私は慌ててキーボードに向かい直した。三ページ目。部長に指摘された、東都の言葉に翻訳できていないページ。十五時までに組み直すはずだったページ。


 そこへ、夕方に先方が途中案を見たいという連絡。


 つまり、十五時までに部長へ出して、そこから修正して、夕方に東都へ見せる。


 冷静に考えて、午後の時間が伸縮自在でない限り厳しい。

 そして残念ながら、私は時間を操れない。ただの中途入社二十六歳。特殊能力は、緊張すると指先が白くなることくらいだ。


 いらない。そんな特殊能力はいらない。


「結城さん」


 低い声がして、背筋が伸びた。


 部長が、いつの間にか私の席の横に立っていた。

 手には、さっきまで第一会議室で広げていた資料と、黒いマグカップ。無駄のない立ち姿。なのに、隣に来られると机の上の散らかり具合が急に恥ずかしくなる。


「進捗は」


「今、三ページ目の構成を組み替えています。導入を機能説明から生活動線に変えて、最初に“誰のどんな負担を減らすのか”が見えるように……」


 言いながら、私は画面を指した。


 部長は身をかがめる。


 近い。


 肩が触れるほどではない。でも、私の視界の端に部長のスーツの袖が入る距離。黒いマグカップから、コーヒーの匂いがふわりとした。


 心臓、今は仕事中です。

 勤務態度を改めてください。


「ここ」


 部長の指が画面の一文を示した。


「“子育て世帯に便利”では広い。東都が欲しいのは、売り場で客が足を止める理由だ」


「はい。なので、朝の十五分短縮、という数字を前に出そうかと」


「根拠は」


「ヒアリングの三件と、既存ユーザーアンケートの自由回答です。正確な統計ではないので、“平均”とは言わず、“朝の支度時間を見直せる”くらいに留めます」


 そこまで言って、自分で少し驚いた。


 声が震えていない。

 早口ではある。そこはもう私の標準仕様なので仕方ない。でも、ちゃんと説明できている。


 部長は画面を見たまま、短くうなずいた。


「悪くない」


 その四文字で、肩に入っていた力が少し抜けた。


 悪くない。

 褒め言葉としては省エネが過ぎる。けれど、部長の「悪くない」はたぶん、社内換算でかなり上位の評価だ。


 顔がにやけそうになって、私は慌てて唇を結んだ。


「十五時までに一度出します」


「ああ」


 部長はそこで、一瞬だけ私の手元を見た。


 またペンを握りしめている。


 しまった、と思うより早く、部長がマグカップを私の机の端に置いた。


「五分」


「え?」


「手を止めろ」


「でも」


「五分で効率が落ちるなら、もう落ちている」


 正論が鋭い。

 でもその声は、刃物みたいに冷たいわけじゃなかった。


 私はキーボードから手を離す。指先がじん、とした。どれだけ力を入れていたのだろう。


 部長は何も言わず、マグカップを少しこちらに押した。


「飲め」


「え、でも、これ部長の」


「新しく淹れた。俺のではない」


 そんな言い方をされたら、余計に意識する。


 マグカップの中身はコーヒーだった。湯気が細く立っている。砂糖もミルクも入っていないはずなのに、香りはなぜか柔らかい。


「ありがとうございます」


「礼は」


「企画が通ってから、ですよね」


 二回目だから、今度は少しだけ得意げに言えた。


 部長は黙った。


 怒らせた?

 調子に乗った?

 氷の部長相手に定型文を先取りするなんて、私、午後の焦りで判断力が迷子?


 ちらりと見上げると、部長は目を伏せていた。

 ほんの少しだけ、口元が緩んでいるように見えた。


 見えた、気がしただけ。

 でも胸の奥が勝手に温かくなる。


「……三上」


 部長は何事もなかったように振り返った。


「十五時半からの社内確認、第一会議室に変更してくれ。白石さんが来てもそのまま通せるように」


「了解しました」


「羽田、東都の過去案件の売り場写真を三年分。結城さんのフォルダに入れて」


「はい!」


「あかねさん、競合比較の価格帯、最新のものに差し替えを」


「任せてください」


 部長の指示が、迷いなくフロアに落ちていく。


 すごい、と思った。


 誰かを急かす言葉ではないのに、全員の動きが一つの方向へそろっていく。必要なもの、不要なもの、今やること、後でいいこと。それが部長の中ではもう線になって見えているみたいだった。


 七年前、私はこの人のことを、ただ大人で、遠くて、きれいな人だと思っていた。


 今は違う。


 この人は、現場の熱を知っている。

 誰かが見落とした小さな不安に気づいて、何も言わずに手を伸ばす。

 冷たいのではなく、熱を外に出すのが下手なだけなのだと、少しずつわかってしまう。


 わかってしまうから、困る。


 もう一度、好きになってしまいそうで。

 いいえ、そこはまだ認めない。勤務中です。議事録に残せない感情は保留です。


 私はコーヒーをひと口飲んだ。

 苦い。けれど熱が喉を通ると、指先まで戻ってくるみたいだった。


 十五時ちょうど、私は三ページ目を部長に送った。


 十五時十二分、部長から赤字が返ってきた。


 十五時二十八分、第一会議室に移動。


 十五時三十五分、白石部長代理が現れた。


 予定より、早い。


 第一会議室の空気が、すっと硬くなる。


 白石部長代理は、いつ見ても隙がない。グレーのスーツ、細い眼鏡、ほとんど表情の動かない顔。声を荒げる人ではないのに、相手を自然に小さくさせる圧がある。


「途中案を見るだけだ。時間は取らせない」


 そう言いながら、白石さんは上座に座った。


 途中案を見るだけ、の人はたいてい見るだけでは終わらない。

 社会人五年の経験がそう告げている。


 部長は私の隣に座った。


 横にいる。


 昼に言われた言葉が、胸の中で静かに響いた。


「結城さん」


 部長が短く言う。


「説明を」


「はい」


 私は立ち上がった。


 足が少し震える。でも、資料を持つ手はさっきより強くない。力を入れすぎない。必要な時に抜く。


「東都リビング様向けの途中案についてご説明します。今回、最初の提案軸を機能訴求から生活動線の改善に変更しました」


 白石さんの視線がこちらに向く。


 怖い。

 怖いけれど、逃げない。


「理由は、東都様の売り場で選ばれる瞬間が、スペック比較ではなく“自分の家で使う場面が想像できるか”に寄っていると考えたからです。特に今回の主対象である共働き世帯では、朝の支度や帰宅後の片づけが負担になっているという声が複数ありました」


 言葉を一つずつ置く。

 早口になりそうな自分を、心の中で何度も引き止める。


 白石さんは資料をめくった。


「この“朝の十五分”という表現は、根拠が弱いのでは」


 来た。


 胸が跳ねる。


 部長が横でわずかに動いた気配がした。でも、何も言わない。


 大丈夫。

 横にいるだけで、前には出てこない。

 私の担当部分だから。


「おっしゃる通り、定量的に平均十五分短縮と断定できる資料ではありません」


 私は息を吸った。


「なので、提案書では効果を数字で保証する表現にはしません。“朝の支度を十五分見直すきっかけ”として、店頭コピーと売り場導線に落とし込む予定です。数字は断定ではなく、生活者が自分ごと化するための入口として使います」


 白石さんの眉が、ほんの少し動いた。


 沈黙。


 長い。

 会議室の時計の秒針がやけに大きい。


 やっぱりだめだった?

 入口って言い方、抽象的すぎた?

 いやでも、ここで引いたら結局また、部長の後ろに隠れることになる。


 私は資料の次のページを開いた。


「そのため、三ページ目では機能一覧より先に、朝の洗面所、玄関、キッチンの三場面を置いています。商品を“便利なもの”としてではなく、“いつもの動きを一つ減らすもの”として見せたいです」


 言い切った瞬間、喉がからからになった。


 白石さんは資料に視線を落としたまま、指で机を一度だけ叩いた。


「……途中案としては、悪くない」


 悪くない。


 今日二度目の、省エネ高評価。


 全身の力が抜けそうになった。でもまだ会議中だ。ここで崩れ落ちたら、企画以前に体幹の問題を指摘される。


「ありがとうございます」


「ただし」


 ですよね。

 社会人経験は甘くない。


「夕方の東都との確認では、価格帯と売り場面積の制約を必ず聞き出せ。こちらの情緒だけで押すな。現場の棚に入らない企画は絵空事だ」


「はい」


 白石さんの言葉は厳しい。

 でも、間違ってはいない。


 私がうなずくと、部長が隣で静かに言った。


「その点は、こちらで質問項目に入れています」


「霧島くん」


 白石さんの視線が部長へ移った。


「君が前に出すぎると、結城さんの企画なのか君の企画なのかわからなくなる」


 会議室の空気が、さらに一段冷えた。


 私は思わず部長を見た。


 部長の表情は変わらない。けれど、目だけが少し鋭くなる。


 何か言う。

 そう思った瞬間、私は先に口を開いていた。


「私の企画です」


 声は、思ったよりまっすぐ出た。


 白石さんがこちらを見る。


 しまった。

 反射で出た。

 でも、取り消さない。


「部長には、論点の整理と先方への確認事項を見ていただいています。でも、三ページ目の方向性は私が出しました。粗い部分はありますが、最後まで私が説明します」


 心臓がうるさい。

 耳まで熱い。


 でも、部長の横顔を見なくてもわかった。

 隣で、部長が息を止めた気配がした。


 白石さんはしばらく黙っていた。


「そうか」


 短い返事だった。


「では夕方、東都の反応を見よう」


「はい」


 会議が終わり、白石さんが出ていったあと、私は椅子に座ったまま動けなかった。


 足に力が入らない。

 会議中に使った全エネルギーが、どこかへ吸い取られたらしい。


「結城さん」


 部長の声がした。


「はい……」


「よく言った」


 その一言で、心臓が変な場所を跳ねた。


 よく言った。


 たったそれだけ。

 なのに、七年前の雨の日に置いてきた何かが、少しだけ息をした気がした。


 あの日の私は、伝えたことを後悔した。

 好きだと言った自分を、重かったのだと思い込んだ。


 でも今、仕事の言葉ではあるけれど、私は自分のものを自分のものだと言えた。

 部長の後ろではなく、横で。


「……部長が、横にいてくれたので」


 言ってから、しまったと思った。


 これは仕事の感謝。

 そう、仕事の感謝です。なのに言葉だけ切り取ると、妙に個人的な温度がある。今すぐ議事録に戻れ、私の口。


 部長は一瞬、視線を落とした。


「俺は何もしていない」


「しました」


 思わず言い返していた。


「前に出ないで、でも逃げ道は作ってくれていました」


 部長が黙る。


 雨音が、会議室の窓に薄く重なった。


「それ、すごく心強かったです」


 言い終えた瞬間、胸が熱くなった。


 部長は何かを言いかけて、やめた。

 いつものように言葉を削ったのだと思う。


 でも、その沈黙が冷たくないことを、私はもう少し知っている。


「夕方までに質問項目を詰める」


「はい」


「無理はするな」


「します」


「するな」


「必要な分だけします」


 部長がこちらを見た。


 少しだけ、困ったような顔をしていた。


「……癖が強い」


「部長に言われたくありません」


 言ってから、今度こそ終わったと思った。


 上司に向かって何を。

 でも部長は怒らなかった。


 ほんの一瞬だけ、目元が緩んだ。


 その一瞬で、午後の疲れが少し報われてしまうのだから、私は相当まずいところまで来ている。


 夕方の東都とのオンライン確認は、予想以上に長引いた。


 先方の反応は悪くなかった。むしろ、三ページ目の生活動線の見せ方には興味を示してくれた。


 ただし、条件が増えた。


 売り場面積は想定より狭い。

 価格訴求は強めたい。

 明日の朝九時までに、店頭展開の縮小案と、コピーを三案。


 明日の朝九時。


 画面が切れた瞬間、企画部フロアに静かな絶望が降りた。


 外は雨。

 時計は、十九時四十六分。


 あかねが遠くで「夕飯、諦めた」と呟き、羽田くんが「コンビニ行ってきます」と立ち上がる。三上さんは無言でスケジュール表を開いた。


 私は資料を抱え直した。


 怖いより先に、やりたいと思った。

 この企画を、途中で折りたくない。


「部長」


 声をかけると、部長がこちらを向いた。


「縮小案、私が組みます。コピーも、まず三案出します」


「一人で抱えるな」


「抱えません。分担します。でも、軸は私が持ちます」


 部長は、少しだけ目を細めた。


 叱られるかと思った。

 けれど、返ってきたのは短い言葉だった。


「わかった」


 その時、窓の外で雨脚が強くなった。


 ざあっと、ビルのガラスを叩く音がフロアまで響く。


 部長は時計を見て、それから私の机の上の資料を見た。


「今日は長くなる」


 低い声だった。


 私はうなずく。


 その瞬間、部長のスマホが震えた。


 画面を確認した部長の眉が、わずかに寄る。


「……東都から追加だ」


「追加?」


「明日の九時前に、白石さんへ社内確認用の完成版を回せと言ってきた」


 フロアの空気が止まった。


 雨音だけが、やけにはっきり聞こえる。


 部長はスマホを伏せ、私を見た。


「結城さん」


「はい」


「終電は、何時だ」


 胸の奥が、どくんと鳴った。


(第20話へ続く)

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