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20/23

終電までの距離

「終電は、何時だ」


 部長の声は低かった。

 叱るでも、急かすでもない。ただ、今ある現実を正確に測ろうとしている声。


 私は反射的にスマホを開いた。

 乗り換えアプリの画面に、白い光が浮かぶ。雨で窓が暗いせいか、その数字だけがやけに冷たく見えた。


「……二十三時四十七分です」


「今から逆算して、何分前に出れば間に合う」


「駅まで十分、ホームまで五分、乗り換えが……」


 言いながら、私は画面を凝視した。

 つまり、二十三時二十五分には会社を出たい。


 時計は、十九時五十七分。


 四時間もある。

 そう思おうとした瞬間、目の前の資料の山が「四時間しかない」と主張してきた。強い。紙なのに圧が強い。


「二十三時二十五分です」


「わかった」


 部長は短く言って、ホワイトボードの前に立った。


「全員、作業を切る。結城さんは縮小案の軸。羽田は競合価格の再確認。来栖はコピーのたたき台。三上は白石さんに回す形式の確認。俺は東都への補足資料を組む」


 迷いがない。

 雨音の中、部長の声だけがまっすぐ通る。


 さっきまで静かな絶望に沈んでいたフロアが、少しずつ息を吹き返した。キーボードの音。椅子を引く音。資料をめくる音。


 その中心に、部長がいる。


 七年前、私はこの人の横顔を遠くから見ていた。

 大学のサークル室の窓際で、先輩たちに混じって静かに話を聞く横顔。大人で、落ち着いていて、私なんかとは違う世界にいる人だと思っていた。


 今は違う。


 同じ雨の夜に、同じ資料を見ている。

 同じ締切に追われている。

 同じ場所で、同じ時間を削っている。


 それだけで、胸の奥が少し熱くなるなんて、仕事中の感情としてはかなり面倒だ。しかも今はコピー三案と縮小案で頭を使わなければいけない。心臓、いったん休憩して。


「結城さん」


「はい」


「三ページ目の生活動線、売り場面積が減っても残す要素を三つに絞れ」


「三つ」


「全部守ろうとすると、全部薄くなる」


 部長の言葉に、私は資料へ視線を落とした。


 全部守りたい。

 せっかく拾ってもらえた私の案を、削るなんてもったいない。


 そう思った瞬間、自分で気づいた。

 違う。

 守るのは、案そのものじゃない。

 伝えたい芯だ。


「帰宅導線、朝の支度、週末のまとめ買い。この三つでいきます」


 私が言うと、部長は一拍だけ黙った。


「いい」


 たった二文字。

 でも、指先に力が戻る。


 私はノートパソコンを開き直し、構成を組み替えた。大きな展開図を削り、店頭の限られた幅でも見えるように要素を並べ替える。コピー欄はまだ空白。余白が、こちらを見ている。


 余白って、こんなに怖いものだったっけ。


「結城先輩、価格表入れました!」


 羽田くんが隣の島から声を上げる。


「ありがとう。共有フォルダに入れて」


「あ、あとコンビニでおにぎり買ってきました。部長の分も」


「余計な気遣いをするな」


「すみません。でも鮭です」


「……置いておけ」


 その沈黙は、たぶん受け取ったという意味だ。


 あかねが小さく吹き出した。

 私は笑いそうになって、慌てて口元を引き締める。いけない。今笑ったら、この張り詰めた夜が少し日常に戻ってしまう。


 でも、戻っていいのかもしれない。

 怖い締切の中にも、誰かが買ってきたおにぎりがあって、湯気の立たない缶コーヒーがあって、短い言葉で人を動かす部長がいる。


 それは冷たいだけの場所じゃない。


 二十一時を過ぎると、フロアの人はさらに減った。他部署の明かりがひとつ、またひとつと消えていく。窓の外では雨が相変わらず強く、ビルのガラスを細かく叩いていた。


 コピー一案目。

 だめ。説明っぽい。


 二案目。

 悪くない。でも店頭で足を止めるほどじゃない。


 三案目。

 書いた瞬間、何かが引っかかった。


 私は画面を見つめたまま固まる。


「どうした」


 いつの間にか部長が隣に立っていた。

 近い。

 いや、資料を見る距離としては普通。普通です。上司が部下の画面を確認しているだけです。なのに、部長のシャツからかすかにコーヒーの匂いがして、雨で冷えた空気の中でそこだけ温度がある。


「このコピー、短くしたいんですけど、短くすると軽くなって」


 私は椅子を少し引いた。

 部長は画面をのぞき込み、黙って読んだ。


 沈黙が長い。

 長いけれど、不思議と怖くない。


「結城さんの案は、生活を急がせないところがいい」


「え」


「価格訴求を強くすると、どうしても押しつけに見える。そこを崩すな」


 生活を急がせない。


 その言い方が、胸に残った。

 仕事の話だ。完全に仕事の話。

 でも、部長が私の出したものを、そんなふうに見てくれていたことがうれしかった。


「じゃあ……“今の暮らしに、ちょうどいい一歩”」


 呟くと、部長の視線が画面から私へ移った。


 一秒。

 たぶん一秒だけ。


 なのに、その一秒で雨音が遠くなる。


「いい」


 部長が言った。


 さっきと同じ、たった二文字。

 でも今度は、少し声が柔らかかった気がした。


 気のせいです。

 そういうことにします。

 仕事が進まなくなるので。


 二十二時を回るころ、あかねが目の下を押さえながら立ち上がった。


「ごめん、私、ここで落ちる。夫から駅まで迎えに来るって連絡きた」


「来栖は帰れ。コピーは引き取る」


「部長、結城を働かせすぎないでくださいね」


「本人に言え」


「本人は放っておくと走ります」


 あかねの視線が私に刺さる。

 はい、すみません。走りがちです。


 羽田くんも、終電の都合で二十二時半に帰った。最後まで「残れます」と言っていたけれど、部長が一言「帰れ」と言うと、渋々リュックを背負った。


 三上さんは白石さん用の体裁を整え終えると、私の机に付箋を置いてくれた。


「ここ、白石さんが突っ込みそうなところ。先に一文足して」


「ありがとうございます」


「結城さん」


「はい」


 三上さんは少しだけ部長の方を見て、それから私に微笑んだ。


「霧島さんは、止めるのが下手だから。自分でも、他人でも」


「え」


「だから、あなたが無理だと思ったら、自分で言ってね」


 その言葉を残して、三上さんはコートを羽織った。


 止めるのが下手。


 胸の奥で、その言葉が静かに沈む。

 七年前の部長も、そうだったのだろうか。

 何かを止められなくて、何かを言えなくて、だから私を突き放したのだろうか。


 考えかけて、私は首を振った。


 だめ。

 今そこを開けたら、戻ってこられなくなる。


 フロアの扉が閉まった。


 残ったのは、私と部長だけだった。


 空調の音が急にはっきり聞こえる。コピー機の待機ランプが青く光っている。窓の向こうでは雨が斜めに流れ、遠くのビルの灯りがにじんでいた。


 机の島を挟んで、部長が資料を直している。


 二人だけ。


 その事実を意識した瞬間、キーボードを打つ指が一文字ぶん滑った。


 落ち着け、私。

 これは残業。しかも大型企画の緊急対応。ロマンチック要素はゼロ。ゼロのはず。雨と夜と二人きりという単語の並びが悪いだけ。


「結城さん」


「はいっ」


 声が裏返った。

 終わった。


 部長は気づいたのか気づいていないのか、デスクの端に缶コーヒーを置いた。


「冷える。飲め」


 甘さ控えめ。


 私は缶を見て、ほんの少し息を止めた。

 何度目だろう。この偶然。

 偶然にしては、あまりに同じ温度で差し出される。


「……ありがとうございます」


 缶は温かかった。

 指先に熱が移る。その熱で、張りつめていたものが少しほどける。


「部長も、休んでください」


「俺はいい」


「よくないです」


 言ってから、またやったと思った。

 でも、今日はもう引っ込めなかった。


「部長も、自分を止めるの下手ですよね」


 部長の手が止まる。


 しまった。

 三上さんの言葉をそのまま投げてしまった。


 部長はしばらく黙っていた。

 怒るかと思った。

 けれど、返ってきた声は静かだった。


「昔からだ」


 心臓が、強く鳴った。


 昔。


 その二文字に、七年前の雨が入り込んでくる。

 紺色の傘。濡れた靴。言えなかった続き。応えられないと言った人の、伏せた目。


 私は缶コーヒーを握ったまま、何も言えなくなった。


 部長も、それ以上は言わなかった。

 ただ、時計を見た。


 二十三時十八分。


「結城さん、ここで切る」


「でも、あと図版の差し替えが」


「俺がやる。帰れ」


「帰りません」


 自分でも驚くほど、即答だった。


 部長の眉が寄る。


「終電がある」


「あります。でも、ここで私が帰ったら、明日の朝、この企画を自分のものだって言えなくなります」


 声が震えた。

 仕事の話なのに、たぶん仕事だけじゃなかった。


「部長の後ろに隠れたくないんです。横にいるって、今日、自分で言ったので」


 言い終えたあと、息が苦しくなった。


 部長は、何かを言おうとして口を閉じた。

 その横顔に、見覚えのある迷いが浮かぶ。


 七年前と同じようで、でも少し違う。

 今の私は、十九歳じゃない。

 目の前にいるのは、憧れだけで見上げていた人じゃない。


 私の上司で、仕事の相棒で、そしてまだ名前をつけられない気持ちを揺らす人だ。


「……十分钟だけだ」


「はい」


「十分钟で差し替えて、出る」


「はい」


 私たちは同時に画面へ向かった。


 十分钟。

 そのはずだった。


 けれど、差し替えた図版の比率が崩れ、コピーの行数がずれ、白石さん用の注釈が一つ足りないことに気づいた。直して、確認して、保存して、PDFを書き出す。


 画面右下の時計が、無情に進む。


 二十三時三十四分。


「あ」


 思わず声が漏れた。


 部長も時計を見た。


 雨音が、急に大きくなる。


 乗り換えアプリを開くまでもなかった。

 会社を出るべき時間は、とっくに過ぎている。


 それでも私はスマホを手に取った。指先が少し冷たい。


 検索結果の一番上に、赤い文字が出る。


 終電に間に合いません。


 胸の奥が、どくんと鳴った。


 部長が静かに息を吐いた。


「結城さん」


「……はい」


「終電は」


 私は画面から目を上げられなかった。


 雨の音。

 青い待機ランプ。

 机の上に残った温かい缶コーヒー。


 そして、すぐ近くにいる部長の気配。


「行きました」


 言葉にした瞬間、フロアの静けさが深くなった。


 部長は少しの間だけ黙り、それから窓の外を見た。

 雨は、まだやむ気配がない。


「……タクシーを呼ぶ」


 そう言いながらも、部長の視線はまだ資料に残っていた。

 私の視線も、完成目前の企画書から離れなかった。


 明日の九時。

 雨の夜。

 終電の消えたオフィス。


 私たちは、もう少しだけ二人で残ることになった。


(第21話へ続く)

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