終電までの距離
「終電は、何時だ」
部長の声は低かった。
叱るでも、急かすでもない。ただ、今ある現実を正確に測ろうとしている声。
私は反射的にスマホを開いた。
乗り換えアプリの画面に、白い光が浮かぶ。雨で窓が暗いせいか、その数字だけがやけに冷たく見えた。
「……二十三時四十七分です」
「今から逆算して、何分前に出れば間に合う」
「駅まで十分、ホームまで五分、乗り換えが……」
言いながら、私は画面を凝視した。
つまり、二十三時二十五分には会社を出たい。
時計は、十九時五十七分。
四時間もある。
そう思おうとした瞬間、目の前の資料の山が「四時間しかない」と主張してきた。強い。紙なのに圧が強い。
「二十三時二十五分です」
「わかった」
部長は短く言って、ホワイトボードの前に立った。
「全員、作業を切る。結城さんは縮小案の軸。羽田は競合価格の再確認。来栖はコピーのたたき台。三上は白石さんに回す形式の確認。俺は東都への補足資料を組む」
迷いがない。
雨音の中、部長の声だけがまっすぐ通る。
さっきまで静かな絶望に沈んでいたフロアが、少しずつ息を吹き返した。キーボードの音。椅子を引く音。資料をめくる音。
その中心に、部長がいる。
七年前、私はこの人の横顔を遠くから見ていた。
大学のサークル室の窓際で、先輩たちに混じって静かに話を聞く横顔。大人で、落ち着いていて、私なんかとは違う世界にいる人だと思っていた。
今は違う。
同じ雨の夜に、同じ資料を見ている。
同じ締切に追われている。
同じ場所で、同じ時間を削っている。
それだけで、胸の奥が少し熱くなるなんて、仕事中の感情としてはかなり面倒だ。しかも今はコピー三案と縮小案で頭を使わなければいけない。心臓、いったん休憩して。
「結城さん」
「はい」
「三ページ目の生活動線、売り場面積が減っても残す要素を三つに絞れ」
「三つ」
「全部守ろうとすると、全部薄くなる」
部長の言葉に、私は資料へ視線を落とした。
全部守りたい。
せっかく拾ってもらえた私の案を、削るなんてもったいない。
そう思った瞬間、自分で気づいた。
違う。
守るのは、案そのものじゃない。
伝えたい芯だ。
「帰宅導線、朝の支度、週末のまとめ買い。この三つでいきます」
私が言うと、部長は一拍だけ黙った。
「いい」
たった二文字。
でも、指先に力が戻る。
私はノートパソコンを開き直し、構成を組み替えた。大きな展開図を削り、店頭の限られた幅でも見えるように要素を並べ替える。コピー欄はまだ空白。余白が、こちらを見ている。
余白って、こんなに怖いものだったっけ。
「結城先輩、価格表入れました!」
羽田くんが隣の島から声を上げる。
「ありがとう。共有フォルダに入れて」
「あ、あとコンビニでおにぎり買ってきました。部長の分も」
「余計な気遣いをするな」
「すみません。でも鮭です」
「……置いておけ」
その沈黙は、たぶん受け取ったという意味だ。
あかねが小さく吹き出した。
私は笑いそうになって、慌てて口元を引き締める。いけない。今笑ったら、この張り詰めた夜が少し日常に戻ってしまう。
でも、戻っていいのかもしれない。
怖い締切の中にも、誰かが買ってきたおにぎりがあって、湯気の立たない缶コーヒーがあって、短い言葉で人を動かす部長がいる。
それは冷たいだけの場所じゃない。
二十一時を過ぎると、フロアの人はさらに減った。他部署の明かりがひとつ、またひとつと消えていく。窓の外では雨が相変わらず強く、ビルのガラスを細かく叩いていた。
コピー一案目。
だめ。説明っぽい。
二案目。
悪くない。でも店頭で足を止めるほどじゃない。
三案目。
書いた瞬間、何かが引っかかった。
私は画面を見つめたまま固まる。
「どうした」
いつの間にか部長が隣に立っていた。
近い。
いや、資料を見る距離としては普通。普通です。上司が部下の画面を確認しているだけです。なのに、部長のシャツからかすかにコーヒーの匂いがして、雨で冷えた空気の中でそこだけ温度がある。
「このコピー、短くしたいんですけど、短くすると軽くなって」
私は椅子を少し引いた。
部長は画面をのぞき込み、黙って読んだ。
沈黙が長い。
長いけれど、不思議と怖くない。
「結城さんの案は、生活を急がせないところがいい」
「え」
「価格訴求を強くすると、どうしても押しつけに見える。そこを崩すな」
生活を急がせない。
その言い方が、胸に残った。
仕事の話だ。完全に仕事の話。
でも、部長が私の出したものを、そんなふうに見てくれていたことがうれしかった。
「じゃあ……“今の暮らしに、ちょうどいい一歩”」
呟くと、部長の視線が画面から私へ移った。
一秒。
たぶん一秒だけ。
なのに、その一秒で雨音が遠くなる。
「いい」
部長が言った。
さっきと同じ、たった二文字。
でも今度は、少し声が柔らかかった気がした。
気のせいです。
そういうことにします。
仕事が進まなくなるので。
二十二時を回るころ、あかねが目の下を押さえながら立ち上がった。
「ごめん、私、ここで落ちる。夫から駅まで迎えに来るって連絡きた」
「来栖は帰れ。コピーは引き取る」
「部長、結城を働かせすぎないでくださいね」
「本人に言え」
「本人は放っておくと走ります」
あかねの視線が私に刺さる。
はい、すみません。走りがちです。
羽田くんも、終電の都合で二十二時半に帰った。最後まで「残れます」と言っていたけれど、部長が一言「帰れ」と言うと、渋々リュックを背負った。
三上さんは白石さん用の体裁を整え終えると、私の机に付箋を置いてくれた。
「ここ、白石さんが突っ込みそうなところ。先に一文足して」
「ありがとうございます」
「結城さん」
「はい」
三上さんは少しだけ部長の方を見て、それから私に微笑んだ。
「霧島さんは、止めるのが下手だから。自分でも、他人でも」
「え」
「だから、あなたが無理だと思ったら、自分で言ってね」
その言葉を残して、三上さんはコートを羽織った。
止めるのが下手。
胸の奥で、その言葉が静かに沈む。
七年前の部長も、そうだったのだろうか。
何かを止められなくて、何かを言えなくて、だから私を突き放したのだろうか。
考えかけて、私は首を振った。
だめ。
今そこを開けたら、戻ってこられなくなる。
フロアの扉が閉まった。
残ったのは、私と部長だけだった。
空調の音が急にはっきり聞こえる。コピー機の待機ランプが青く光っている。窓の向こうでは雨が斜めに流れ、遠くのビルの灯りがにじんでいた。
机の島を挟んで、部長が資料を直している。
二人だけ。
その事実を意識した瞬間、キーボードを打つ指が一文字ぶん滑った。
落ち着け、私。
これは残業。しかも大型企画の緊急対応。ロマンチック要素はゼロ。ゼロのはず。雨と夜と二人きりという単語の並びが悪いだけ。
「結城さん」
「はいっ」
声が裏返った。
終わった。
部長は気づいたのか気づいていないのか、デスクの端に缶コーヒーを置いた。
「冷える。飲め」
甘さ控えめ。
私は缶を見て、ほんの少し息を止めた。
何度目だろう。この偶然。
偶然にしては、あまりに同じ温度で差し出される。
「……ありがとうございます」
缶は温かかった。
指先に熱が移る。その熱で、張りつめていたものが少しほどける。
「部長も、休んでください」
「俺はいい」
「よくないです」
言ってから、またやったと思った。
でも、今日はもう引っ込めなかった。
「部長も、自分を止めるの下手ですよね」
部長の手が止まる。
しまった。
三上さんの言葉をそのまま投げてしまった。
部長はしばらく黙っていた。
怒るかと思った。
けれど、返ってきた声は静かだった。
「昔からだ」
心臓が、強く鳴った。
昔。
その二文字に、七年前の雨が入り込んでくる。
紺色の傘。濡れた靴。言えなかった続き。応えられないと言った人の、伏せた目。
私は缶コーヒーを握ったまま、何も言えなくなった。
部長も、それ以上は言わなかった。
ただ、時計を見た。
二十三時十八分。
「結城さん、ここで切る」
「でも、あと図版の差し替えが」
「俺がやる。帰れ」
「帰りません」
自分でも驚くほど、即答だった。
部長の眉が寄る。
「終電がある」
「あります。でも、ここで私が帰ったら、明日の朝、この企画を自分のものだって言えなくなります」
声が震えた。
仕事の話なのに、たぶん仕事だけじゃなかった。
「部長の後ろに隠れたくないんです。横にいるって、今日、自分で言ったので」
言い終えたあと、息が苦しくなった。
部長は、何かを言おうとして口を閉じた。
その横顔に、見覚えのある迷いが浮かぶ。
七年前と同じようで、でも少し違う。
今の私は、十九歳じゃない。
目の前にいるのは、憧れだけで見上げていた人じゃない。
私の上司で、仕事の相棒で、そしてまだ名前をつけられない気持ちを揺らす人だ。
「……十分钟だけだ」
「はい」
「十分钟で差し替えて、出る」
「はい」
私たちは同時に画面へ向かった。
十分钟。
そのはずだった。
けれど、差し替えた図版の比率が崩れ、コピーの行数がずれ、白石さん用の注釈が一つ足りないことに気づいた。直して、確認して、保存して、PDFを書き出す。
画面右下の時計が、無情に進む。
二十三時三十四分。
「あ」
思わず声が漏れた。
部長も時計を見た。
雨音が、急に大きくなる。
乗り換えアプリを開くまでもなかった。
会社を出るべき時間は、とっくに過ぎている。
それでも私はスマホを手に取った。指先が少し冷たい。
検索結果の一番上に、赤い文字が出る。
終電に間に合いません。
胸の奥が、どくんと鳴った。
部長が静かに息を吐いた。
「結城さん」
「……はい」
「終電は」
私は画面から目を上げられなかった。
雨の音。
青い待機ランプ。
机の上に残った温かい缶コーヒー。
そして、すぐ近くにいる部長の気配。
「行きました」
言葉にした瞬間、フロアの静けさが深くなった。
部長は少しの間だけ黙り、それから窓の外を見た。
雨は、まだやむ気配がない。
「……タクシーを呼ぶ」
そう言いながらも、部長の視線はまだ資料に残っていた。
私の視線も、完成目前の企画書から離れなかった。
明日の九時。
雨の夜。
終電の消えたオフィス。
私たちは、もう少しだけ二人で残ることになった。
(第21話へ続く)




