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21/22

雨宿りの残業

 タクシーを呼ぶ、と部長は言った。


 言ったのに、私たちはまだ会社にいた。


 理由は単純で、企画書があと一歩だったからだ。

 正確に言うと、あと一歩の顔をした細かい修正が、三歩ぶんくらい残っていた。


 注釈の位置をそろえる。白石部長代理が突っ込みそうな表現を削る。数字の根拠ページを巻末に差し込む。表紙のタイトルを一文字詰める。


 地味。

 ものすごく地味。

 なのに、こういうところで企画は急に頼りなく見えたり、逆に強く見えたりする。


「結城さん、三ページ目」


「はい」


「この言い方だと、値引き前提に読める」


「……確かに。『導入負担の平準化』に変えます」


「それでいい」


 短い返事。

 でも、その声が少しだけやわらかく聞こえたのは、私の耳が都合よく働いているせいだろうか。


 やめて、私の耳。

 夜中に部長の声を美化しないで。

 これは仕事。仕事中の上司の声。癒やし音声ではない。


 画面の右下は、零時を越えていた。

 オフィスの照明は半分落ちて、窓ガラスに私たちの姿が薄く映っている。斜めに立つ部長と、椅子に座ってキーボードを叩く私。


 その距離が近い。


 近い、というか、確認のために部長が私の画面をのぞき込むたび、スーツの袖が視界の端に入る。濡れてもいないのに、雨の匂いがした気がして、胸が落ち着かなくなる。


「結城さん」


「はい」


「肩に力が入りすぎだ」


「えっ」


 言われて初めて、首の後ろが固まっていることに気づいた。


「すみません」


「謝ることじゃない」


 部長は自分の席に戻ると、置きっぱなしになっていた缶コーヒーを手に取った。もう冷めているはずなのに、確かめるみたいに指先で缶の側面をなぞる。


「あと五分で終える」


「はい」


「本当に五分だ」


「部長、それ、さっきも聞きました」


 言ってから、私は口を押さえた。

 夜中のテンション、怖い。上司に対して軽口が滑る。


 けれど部長は怒らなかった。

 ほんの一瞬だけ、目元がゆるんだ。


「結城さんも、言うようになったな」


 心臓が、ばかみたいに跳ねた。


 その言い方が、仕事の成長を褒めたのか、私自身の変化を見ているのか、わからない。

 わからないから困る。

 わからないのに、うれしいと思ってしまうから、もっと困る。


「……部長の指導が厳しいので」


「そうか」


「はい。鬼なので」


「自覚はある」


 自覚はあるんだ。

 思わず笑いそうになって、唇を結ぶ。


 笑ったら、この夜が少し違う名前になってしまいそうで怖かった。


 最後のPDFを書き出し、共有フォルダに保存する。ファイル名を確認して、送信用のメール下書きまで整えたところで、部長が小さく息を吐いた。


「終わりだ」


 その一言で、背中から力が抜けた。


「……終わりましたね」


「ああ」


 たったそれだけなのに、達成感がじわじわ広がる。

 眠い。寒い。お腹も少し空いた。

 でも、それ以上に、胸の奥が熱かった。


 部長の後ろに隠れずに済んだ。

 横に立ちたい、と言った自分を、ほんの少しだけ裏切らずに済んだ。


「結城さん」


「はい」


「今日の修正、よかった」


 息が止まった。


 部長は、画面から目を離さないまま続けた。


「言葉が逃げていなかった。企画の弱いところを、隠さずに補強していた」


 褒められている。

 これは褒められている。

 たぶん、間違いなく褒められている。


 なのに、うまく喜べなかった。

 うれしすぎると、人は案外、固まる。


「……ありがとうございます」


 声が小さくなった。


 部長がこちらを見る。

 静かな視線だった。いつもの冷たい灰色じゃなくて、雨上がり前の空みたいな、少しだけ温度のある色。


「結城さんの企画だ」


 その言葉は、さっきの缶コーヒーよりずっと熱かった。


 喉の奥がつまる。

 前の会社で、私の案はよく誰かの資料の一部になった。名前のない作業になって、便利に使われて、でも最後には「若手が手伝ってくれた」で終わった。


 だから私は、自分のものだと言うのが下手になった。

 言ったら笑われる気がした。

 欲しがったら、重いと思われる気がした。


 仕事も、気持ちも。


「……はい」


 私は画面を見たまま、うなずいた。


「私の企画です」


 言えた。


 胸の中で、小さな何かがほどけた。


 部長はそれ以上、余計なことを言わなかった。ただ、保存済みのフォルダをもう一度確認し、パソコンを閉じた。


「帰るぞ」


「はい」


 その瞬間、現実が戻ってきた。


 零時過ぎ。

 終電なし。

 雨。

 二人きり。


 いや、待って。

 達成感に包まれている場合じゃない。帰宅問題が何ひとつ解決していない。


 部長はスマホでタクシーアプリを開いた。私はその横で、意味もなく自分のスマホを握る。


 画面を見た部長の眉間に、ほんの少ししわが寄った。


「混んでる」


「雨ですもんね……」


「配車まで二十五分」


「二十五分」


 復唱してしまった。

 二十五分。

 この時間のオフィスで、部長と二十五分。


 心臓に悪い。

 企画書の修羅場より、こっちのほうがよほど難易度が高い。


「ロビーで待つ」


「はい」


 部長は当たり前みたいに私のノートパソコンを見た。


「それ、持つ」


「大丈夫です。自分で持てます」


「重いだろ」


「重いですけど、持てます」


 部長の手が止まる。


 また、言い方が強かったかもしれない。

 でも、今夜はどうしても、自分の荷物くらい自分で持ちたかった。


 部長は少し黙って、それから手を引いた。


「わかった」


 その一言に、私はほっとした。

 優しさを受け取らない、という意味じゃない。

 ただ、守られるだけの人には戻りたくなかった。


 廊下に出ると、深夜の会社は別の建物みたいだった。白い壁も、非常灯も、いつものざわめきがないだけで少しよそよそしい。


 エレベーターを待つ間、会話はなかった。


 隣に立つ部長の気配だけが、やけにはっきりしている。

 近すぎず、遠すぎない。肩が触れるほどではないけれど、半歩動けば届いてしまう距離。


 七年前の私は、その半歩をどうしても埋めたかった。

 今の私は、埋めたいのか、逃げたいのか、自分でもわからない。


 エレベーターが到着し、扉が開く。

 乗り込んだ箱の中で、雨に濡れた街の匂いがかすかにした。誰かがさっきまで傘を持っていたのかもしれない。


 傘。


 鞄の奥に眠っている、紺色の傘の重みを思い出して、指先が固まる。


 今日は持ってきている。

 朝の天気予報が雨だったから、迷った末に入れた。


 七年前、返せなかった傘。

 何度も処分しようとして、結局できなかった傘。


 部長は、まだ知らない。

 いや、本当に知らないのだろうか。


 甘さ控えめの缶コーヒーを覚えている人が。

 昔と同じ仕草に一瞬だけ目を伏せる人が。

 「昔の俺は最低だった」と言った人が。


 あの傘だけ、忘れているなんてことがあるのだろうか。


 ロビーに着くと、自動ドアの向こうで雨が白く跳ねていた。

 夜の雨は、昼間より音が近い。道路を流れる水、タクシーのタイヤ、コンビニの看板に当たるしずく。


 部長がアプリを確認する。


「あと十八分」


「結構ありますね」


「ああ」


 ロビーのベンチに並んで座るのは、なんとなく気まずかった。だから私は少し離れて立った。部長も何も言わず、柱のそばに立つ。


 きちんと距離を取ってくれている。

 上司として、たぶん正しい。

 正しいのに、胸のどこかが小さくしぼむ。


 めんどくさいな、私。

 近いと困るくせに、離れられると寂しい。

 恋の疑いがある感情、取り扱い説明書が難しすぎる。


 そのとき、スマホが震えた。


 部長が画面を見る。表情が少しだけ険しくなった。


「キャンセルされた」


「えっ」


「近くに車がないらしい」


 雨音が、さらに大きく聞こえた。


 部長はすぐに別の配車を探し始めた。無駄のない動き。焦っていないように見える。


 でも、横顔の線が固い。


「私、ビジネスホテル探します」


「だめだ」


 即答だった。


 思わず顔を上げる。


 部長も、言い方が強かったと気づいたのか、わずかに息をのんだ。


「……この時間に一人で歩かせる選択はしない」


 低い声だった。

 命令みたいなのに、命令ではなかった。

 心配が、不器用に角ばった形をしている。


 胸が、ぎゅっと痛くなる。


「ありがとうございます。でも、部長も帰れなくなります」


「俺のことはいい」


「よくないです」


 今日、二回目の「よくないです」だった。


 部長が黙る。


 ロビーの白い光の下で、私たちは向かい合った。

 雨がガラスを叩いている。


「部長が全部引き受けるの、よくないです」


 声は震えた。

 でも、言いたかった。


「私、もう十九歳じゃないです。自分で決められます。だから、心配してくれるなら、相談させてください。命令じゃなくて」


 言ってしまった。


 仕事の話から、少しだけ踏み出してしまった。

 七年前に言えなかったことの輪郭を、今さらなぞるみたいに。


 部長の目が揺れた。


 ほんの一瞬。

 本当に一瞬だけ。


 彼は何かを飲み込むように黙り、それから視線を落とした。


「……悪い」


 その声が、思ったより苦しそうで、私の胸まで苦しくなった。


「命令のつもりはなかった」


「はい」


「ただ、危ないと思った」


「わかってます」


 わかっている。

 この人の優しさは、いつも説明が少ない。

 少ないから誤解する。

 でも、少ない言葉の奥にある熱を、私はもう何度も見てしまった。


 部長はもう一度スマホを見た。


「駅前まで出れば、流しが拾える可能性がある」


「ここから、歩いて五分くらいですよね」


「ああ」


 自動ドアの向こうは、容赦なく降っている。


 私は鞄の持ち手を握った。

 奥にある紺色の傘が、存在を主張するみたいに硬く当たる。


 出す?

 出さない?


 普通に考えたら、出すしかない。

 雨だ。傘だ。使うために持ってきた。


 でも、この傘は普通じゃない。

 私にとっては七年前そのものだ。


 部長が先に、自分の鞄を探った。

 そして、少しだけ眉を寄せる。


「……置き傘を、上に忘れた」


 氷の部長にも、そんなことがあるんだ。

 不謹慎にも、ほんの少しだけ笑いそうになった。


 けれど次の瞬間、状況の意味に気づいて、笑いは喉で止まった。


 傘は、私の鞄の中に一本。


 外は雨。

 駅前まで五分。


 つまり。


 つまり、これは。


 相合傘、という単語が頭に浮かんで、私は全力で打ち消した。


 違う。違います。これは緊急避難。社会人二人が雨を避けて移動するだけ。恋愛漫画的な響きを勝手に足さないで、私の脳。


 部長はガラスの外を見たまま言った。


「少し待つ。弱まるかもしれない」


 その選択が、私に気を遣っているのだとわかった。

 私の傘に気づいているわけじゃない。ただ、自分が傘を忘れたせいで私を濡らすわけにはいかないと思っている。


 本当に、この人は。


 私は鞄を開けた。


 指先が、紺色の布に触れる。


 七年前の雨が、指先からよみがえった。

 差し出された傘。低い声。「持っていって」。そして、返せなかった気持ち。


 今、これを出したら。

 何かが、また始まってしまう気がした。


 でも、始まるのが怖いからといって、ずっと鞄の奥に隠しておくのは、もう違うのかもしれない。


「部長」


 声が少し震えた。


 部長がこちらを向く。


 私は鞄の奥から、紺色の折りたたみ傘を引き出した。


 ロビーの白い光の下で、その色が静かに浮かび上がる。


「一本だけなら、あります」


 部長の視線が、傘に落ちた。


 時間が止まったみたいだった。


 雨音だけが、やけにはっきり響く。


 部長は何も言わない。

 ただ、傘を見つめている。


 その沈黙に、私の心臓が嫌なほど大きく鳴った。


 そして部長が、息をひそめるように言った。


「……その傘」


(第22話へ続く)

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