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十二歳上の初恋の人が、転職先の鬼上司でした ~もう一度、好きになってもいいですか?~  作者: ろくさんだ


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22/110

紺色の下で

「……その傘」


 部長の声は、雨音にまぎれそうなほど低かった。


 私は傘を持ったまま、指先だけで固まった。


 気づいた。

 今、絶対に何かに気づいた。


 だって、部長の視線がただの折りたたみ傘を見る目ではなかったから。

 資料の数字を見る時の、冷静な目ではない。ミスを見つけた時の、鋭い目でもない。


 もっと遠いものを、一瞬だけ見ている目だった。


「……古いな」


 少し遅れて、部長が言った。


 それは逃げ道みたいな言葉だった。

 私にも、部長にも。


「はい。物持ちがいいので」


 笑おうとした声が、自分でもわかるくらい不自然に上ずった。


 物持ちがいい。

 便利な言葉だ。

 七年前の失恋を捨てられなかったことまで、生活上手みたいにごまかせる。


 部長はまだ傘を見ていた。

 紺色の布。少し擦れた持ち手。金具の端に、小さな傷。


 あの日、駅前の歩道で風にあおられて、私が慌てて握りしめた時についた傷だ。

 そんなことまで覚えている自分が怖い。


「使えるのか」


「使えます。たぶん」


「たぶんで雨に出るな」


「じゃあ確認します」


 変な意地が出た。

 私はロビーの端で傘を開いた。


 ぱさ、と乾いた音がする。

 骨は少し頼りなく広がったけれど、布はちゃんと丸く張った。七年前からずっと、私の鞄の奥で眠っていたくせに、当然みたいな顔で雨を受ける準備をしている。


 私より肝が据わっている。傘なのに。


「ほら、大丈夫です」


 そう言った瞬間、部長の眉間に薄くしわが寄った。


「小さい」


「折りたたみ傘ですから」


「二人では濡れる」


「五分です」


「結城さんが濡れる」


 まただ。


 この人はいつも、何かを決める時に自分の分を数に入れない。

 雨に濡れるのは二人なのに、私だけを心配する。


 胸がきゅっとなる。

 優しさが嬉しいのに、少しだけ苦しい。


「部長も濡れます」


「俺はいい」


「よくないです。三回目です」


 思わず言うと、部長がわずかに目を瞬いた。


 自分でも驚いた。

 今、私はこの人に何を数えているのだろう。

 仕事の修正回数でもあるまいし。


 けれど、部長の口元がほんの少しだけゆるんだ気がして、心臓が一拍遅れた。


 だめだ。

 そんな顔は反則です。

 普段が氷点下だから、たまに一度上がるだけで春が来たみたいになる。温度差でこちらの情緒が割れる。


「……行くか」


「はい」


 私が先に自動ドアへ向かおうとすると、部長が手を出した。


「持つ」


「え」


「背が違う。君が持つと俺が入らない」


 事実だった。

 ものすごく事実だった。

 だから反論できない。


 私は傘の柄を差し出した。

 部長の指が、私の指先のすぐそばに来る。


 触れたわけじゃない。

 触れていない。

 なのに、そこだけ空気が熱を持ったみたいだった。


「……お願いします」


「ああ」


 部長が傘を受け取る。


 その手が、ほんの一瞬だけ止まった。

 持ち手の小さな傷に親指がかかったからだ。


 私は息を止めた。


 部長も、何も言わなかった。


 自動ドアが開く。

 湿った夜の空気が一気に流れ込んできた。


 傘が雨を受ける音は、ロビーで聞いていた雨音よりずっと近かった。

 ぱらぱらではない。ざあざあでもない。布のすぐ上で、細かい水の粒が絶え間なく跳ねている音。


 その下に、私と部長がいる。


 たった一本の紺色の下に。


「足元、滑る」


「はい」


「こっち側、段差がある」


「はい」


「車道寄りは俺が歩く」


「……はい」


 返事しかできない。


 横にいる距離が近すぎた。

 肩と肩の間に、数センチしかない。部長のコートの袖が、歩くたびに私の腕にかすかに触れそうになる。


 触れない。

 触れそう。

 触れない。


 その繰り返しだけで、頭の中が仕事にならない。


 いや、今は仕事帰りです。社会人です。落ち着いてください、結城ひなた。

 相合傘という単語を二度目に浮かべたら負けです。


 負けました。


 雨の匂いが濃い。

 アスファルトの水たまりに、街灯が細長く揺れている。駅前へ続く道はいつもより人が少なくて、通り過ぎる車のライトだけが濡れた道路を白く照らした。


「寒くないか」


 部長が前を向いたまま聞いた。


「大丈夫です」


「本当に?」


「本当です。部長こそ、肩が」


 言いかけて、私は気づいた。


 部長の右肩が、傘から少しはみ出している。

 私のほうへ傘を寄せているからだ。


 濃いスーツの肩に、雨粒が点々と染みていく。


「部長、傘、そっちに寄せてください」


「寄せてる」


「私のほうに寄せすぎです」


「問題ない」


「あります」


 私は足を止めた。


 部長も止まる。

 傘の下で、雨音だけが密度を増した。


「風邪ひきます」


「この程度ではひかない」


「そういう問題じゃないです」


 また、少し強くなってしまった。


 でも、言わずにはいられなかった。

 七年前も、きっとこの人はこうだったのだと思う。自分のことを後回しにして、何も説明しないまま、正しいと思った距離を作る。


 その距離で誰かが傷ついても、自分だけが濡れればいいと思ってしまう。


「半分です」


 私は傘の柄に手を添えた。

 部長の手のすぐ下。


「ちゃんと、半分」


 部長の視線が落ちる。

 私の手と、自分の手を見ている。


 近い。

 ものすごく近い。


 勢いで触ったのは私なのに、今さら心臓が大騒ぎを始める。

 ばくばく、というより、社内チャットで緊急通知が連続で鳴っている感じ。落ち着いてほしい。私の心臓に通知オフ機能はないのか。


 部長は何か言いかけて、やめた。


 それから、傘をほんの少し中央に戻した。


「……わかった」


 たった四文字だった。

 でも、その四文字がなぜか胸にしみた。


 命令ではなく、譲歩でもなく。

 私の言葉を、ちゃんと受け取ってくれた音がした。


 私たちはまた歩き出した。


 さっきより、少しだけ近い。

 でも、さっきより苦しくない。


 二人で濡れない場所を探すみたいに、歩幅を合わせる。部長の歩き方はいつもより遅い。私の足元を見て、段差の前では自然に速度を落とす。


 優しい。


 冷たい人なんかじゃない。

 知っていたはずなのに、雨の下ではそのことがいちいち輪郭を持つ。


「結城さん」


「はい」


「さっきのことだが」


 さっき。

 命令じゃなく相談させてください、と言ったことだろうか。


 私は緊張で背筋を伸ばした。


「俺は、君が自分で判断できないと思っているわけじゃない」


「……はい」


「ただ、危険を先に潰そうとする癖がある」


 癖。


 部長が、自分のことをそんなふうに言うのは珍しい。


「それで、相手の意思を飛ばすことがある」


 雨音の奥に、苦いものが混じった気がした。


 私は部長の横顔を見上げる。

 街灯に照らされた輪郭は、いつもより少し疲れて見えた。


「気をつける」


 胸の奥が、ふいに熱くなった。


 謝られたことより、その先を変えようとしてくれたことが嬉しかった。


「私も」


 気づいたら、そう言っていた。


「怖いと、平気なふりをします。あと、明るくしてごまかします」


「知ってる」


「即答しないでください」


「すまない」


 部長の声が、少しだけやわらかかった。


 知ってる。


 その言葉に、また胸が騒ぐ。

 上司としての観察なのか、七年前からの記憶なのか。聞きたい。聞けない。聞いたら、この傘の下で全部がほどけてしまいそうで。


 駅前の明かりが見えてきた。

 タクシー乗り場には、数人の列ができている。雨のせいで車は少ないけれど、完全に途方に暮れるほどではなさそうだった。


 ほっとした。

 同時に、少しだけ残念だと思ってしまった。


 最低だ。

 帰れるのはいいことなのに。


 傘の下の五分が終わることを、惜しいと思っている。


 駅前の庇に入る直前、横を走った車が大きな水たまりを踏んだ。


「結城さん」


 部長の声と同時に、肩を軽く引かれた。


 強くではない。

 でも確かに、私を自分の側へ寄せる力だった。


 水しぶきが、さっきまで私がいた場所を派手に濡らした。


 私は息をのむ。


 部長の手が、私の腕からすぐに離れた。


「悪い」


「いえ、助かりました」


 腕に残った感触が消えない。

 雨よりも、街灯よりも、そこだけが熱い。


 庇の下に入ると、急に雨音が遠くなった。

 部長が傘を閉じる。


 紺色の布から、しずくがぽたぽた落ちた。


「ありがとうございました。部長、濡れてます」


「君ほどではない」


「私はほとんど濡れてません。部長が寄せるから」


「……半分にした」


「最終的には、です」


 言いながら、思わず笑ってしまった。

 部長が困ったように目を伏せる。


 こんな会話ができる日が来るなんて、七年前の私に言っても絶対に信じないと思う。


 タクシー乗り場の列が少し進んだ。


 私が傘を受け取ろうと手を出すと、部長はすぐには返さなかった。


 閉じた傘を見つめている。


 さっきと同じ目だった。

 ただの物を見ていない目。


「部長?」


 呼ぶと、彼ははっとしたように顔を上げた。


 そして、いつもの冷静な声に戻ろうとして、戻りきれない声で言った。


「結城さん」


「はい」


「この傘は」


 心臓が止まりそうになった。


 雨が、また強くなる。

 駅前の庇を叩く音が、二人の間を埋めていく。


 部長の指が、持ち手の小さな傷に触れていた。


「……誰に、借りたものだ」


(第23話へ続く)

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