紺色の下で
「……その傘」
部長の声は、雨音にまぎれそうなほど低かった。
私は傘を持ったまま、指先だけで固まった。
気づいた。
今、絶対に何かに気づいた。
だって、部長の視線がただの折りたたみ傘を見る目ではなかったから。
資料の数字を見る時の、冷静な目ではない。ミスを見つけた時の、鋭い目でもない。
もっと遠いものを、一瞬だけ見ている目だった。
「……古いな」
少し遅れて、部長が言った。
それは逃げ道みたいな言葉だった。
私にも、部長にも。
「はい。物持ちがいいので」
笑おうとした声が、自分でもわかるくらい不自然に上ずった。
物持ちがいい。
便利な言葉だ。
七年前の失恋を捨てられなかったことまで、生活上手みたいにごまかせる。
部長はまだ傘を見ていた。
紺色の布。少し擦れた持ち手。金具の端に、小さな傷。
あの日、駅前の歩道で風にあおられて、私が慌てて握りしめた時についた傷だ。
そんなことまで覚えている自分が怖い。
「使えるのか」
「使えます。たぶん」
「たぶんで雨に出るな」
「じゃあ確認します」
変な意地が出た。
私はロビーの端で傘を開いた。
ぱさ、と乾いた音がする。
骨は少し頼りなく広がったけれど、布はちゃんと丸く張った。七年前からずっと、私の鞄の奥で眠っていたくせに、当然みたいな顔で雨を受ける準備をしている。
私より肝が据わっている。傘なのに。
「ほら、大丈夫です」
そう言った瞬間、部長の眉間に薄くしわが寄った。
「小さい」
「折りたたみ傘ですから」
「二人では濡れる」
「五分です」
「結城さんが濡れる」
まただ。
この人はいつも、何かを決める時に自分の分を数に入れない。
雨に濡れるのは二人なのに、私だけを心配する。
胸がきゅっとなる。
優しさが嬉しいのに、少しだけ苦しい。
「部長も濡れます」
「俺はいい」
「よくないです。三回目です」
思わず言うと、部長がわずかに目を瞬いた。
自分でも驚いた。
今、私はこの人に何を数えているのだろう。
仕事の修正回数でもあるまいし。
けれど、部長の口元がほんの少しだけゆるんだ気がして、心臓が一拍遅れた。
だめだ。
そんな顔は反則です。
普段が氷点下だから、たまに一度上がるだけで春が来たみたいになる。温度差でこちらの情緒が割れる。
「……行くか」
「はい」
私が先に自動ドアへ向かおうとすると、部長が手を出した。
「持つ」
「え」
「背が違う。君が持つと俺が入らない」
事実だった。
ものすごく事実だった。
だから反論できない。
私は傘の柄を差し出した。
部長の指が、私の指先のすぐそばに来る。
触れたわけじゃない。
触れていない。
なのに、そこだけ空気が熱を持ったみたいだった。
「……お願いします」
「ああ」
部長が傘を受け取る。
その手が、ほんの一瞬だけ止まった。
持ち手の小さな傷に親指がかかったからだ。
私は息を止めた。
部長も、何も言わなかった。
自動ドアが開く。
湿った夜の空気が一気に流れ込んできた。
傘が雨を受ける音は、ロビーで聞いていた雨音よりずっと近かった。
ぱらぱらではない。ざあざあでもない。布のすぐ上で、細かい水の粒が絶え間なく跳ねている音。
その下に、私と部長がいる。
たった一本の紺色の下に。
「足元、滑る」
「はい」
「こっち側、段差がある」
「はい」
「車道寄りは俺が歩く」
「……はい」
返事しかできない。
横にいる距離が近すぎた。
肩と肩の間に、数センチしかない。部長のコートの袖が、歩くたびに私の腕にかすかに触れそうになる。
触れない。
触れそう。
触れない。
その繰り返しだけで、頭の中が仕事にならない。
いや、今は仕事帰りです。社会人です。落ち着いてください、結城ひなた。
相合傘という単語を二度目に浮かべたら負けです。
負けました。
雨の匂いが濃い。
アスファルトの水たまりに、街灯が細長く揺れている。駅前へ続く道はいつもより人が少なくて、通り過ぎる車のライトだけが濡れた道路を白く照らした。
「寒くないか」
部長が前を向いたまま聞いた。
「大丈夫です」
「本当に?」
「本当です。部長こそ、肩が」
言いかけて、私は気づいた。
部長の右肩が、傘から少しはみ出している。
私のほうへ傘を寄せているからだ。
濃いスーツの肩に、雨粒が点々と染みていく。
「部長、傘、そっちに寄せてください」
「寄せてる」
「私のほうに寄せすぎです」
「問題ない」
「あります」
私は足を止めた。
部長も止まる。
傘の下で、雨音だけが密度を増した。
「風邪ひきます」
「この程度ではひかない」
「そういう問題じゃないです」
また、少し強くなってしまった。
でも、言わずにはいられなかった。
七年前も、きっとこの人はこうだったのだと思う。自分のことを後回しにして、何も説明しないまま、正しいと思った距離を作る。
その距離で誰かが傷ついても、自分だけが濡れればいいと思ってしまう。
「半分です」
私は傘の柄に手を添えた。
部長の手のすぐ下。
「ちゃんと、半分」
部長の視線が落ちる。
私の手と、自分の手を見ている。
近い。
ものすごく近い。
勢いで触ったのは私なのに、今さら心臓が大騒ぎを始める。
ばくばく、というより、社内チャットで緊急通知が連続で鳴っている感じ。落ち着いてほしい。私の心臓に通知オフ機能はないのか。
部長は何か言いかけて、やめた。
それから、傘をほんの少し中央に戻した。
「……わかった」
たった四文字だった。
でも、その四文字がなぜか胸にしみた。
命令ではなく、譲歩でもなく。
私の言葉を、ちゃんと受け取ってくれた音がした。
私たちはまた歩き出した。
さっきより、少しだけ近い。
でも、さっきより苦しくない。
二人で濡れない場所を探すみたいに、歩幅を合わせる。部長の歩き方はいつもより遅い。私の足元を見て、段差の前では自然に速度を落とす。
優しい。
冷たい人なんかじゃない。
知っていたはずなのに、雨の下ではそのことがいちいち輪郭を持つ。
「結城さん」
「はい」
「さっきのことだが」
さっき。
命令じゃなく相談させてください、と言ったことだろうか。
私は緊張で背筋を伸ばした。
「俺は、君が自分で判断できないと思っているわけじゃない」
「……はい」
「ただ、危険を先に潰そうとする癖がある」
癖。
部長が、自分のことをそんなふうに言うのは珍しい。
「それで、相手の意思を飛ばすことがある」
雨音の奥に、苦いものが混じった気がした。
私は部長の横顔を見上げる。
街灯に照らされた輪郭は、いつもより少し疲れて見えた。
「気をつける」
胸の奥が、ふいに熱くなった。
謝られたことより、その先を変えようとしてくれたことが嬉しかった。
「私も」
気づいたら、そう言っていた。
「怖いと、平気なふりをします。あと、明るくしてごまかします」
「知ってる」
「即答しないでください」
「すまない」
部長の声が、少しだけやわらかかった。
知ってる。
その言葉に、また胸が騒ぐ。
上司としての観察なのか、七年前からの記憶なのか。聞きたい。聞けない。聞いたら、この傘の下で全部がほどけてしまいそうで。
駅前の明かりが見えてきた。
タクシー乗り場には、数人の列ができている。雨のせいで車は少ないけれど、完全に途方に暮れるほどではなさそうだった。
ほっとした。
同時に、少しだけ残念だと思ってしまった。
最低だ。
帰れるのはいいことなのに。
傘の下の五分が終わることを、惜しいと思っている。
駅前の庇に入る直前、横を走った車が大きな水たまりを踏んだ。
「結城さん」
部長の声と同時に、肩を軽く引かれた。
強くではない。
でも確かに、私を自分の側へ寄せる力だった。
水しぶきが、さっきまで私がいた場所を派手に濡らした。
私は息をのむ。
部長の手が、私の腕からすぐに離れた。
「悪い」
「いえ、助かりました」
腕に残った感触が消えない。
雨よりも、街灯よりも、そこだけが熱い。
庇の下に入ると、急に雨音が遠くなった。
部長が傘を閉じる。
紺色の布から、しずくがぽたぽた落ちた。
「ありがとうございました。部長、濡れてます」
「君ほどではない」
「私はほとんど濡れてません。部長が寄せるから」
「……半分にした」
「最終的には、です」
言いながら、思わず笑ってしまった。
部長が困ったように目を伏せる。
こんな会話ができる日が来るなんて、七年前の私に言っても絶対に信じないと思う。
タクシー乗り場の列が少し進んだ。
私が傘を受け取ろうと手を出すと、部長はすぐには返さなかった。
閉じた傘を見つめている。
さっきと同じ目だった。
ただの物を見ていない目。
「部長?」
呼ぶと、彼ははっとしたように顔を上げた。
そして、いつもの冷静な声に戻ろうとして、戻りきれない声で言った。
「結城さん」
「はい」
「この傘は」
心臓が止まりそうになった。
雨が、また強くなる。
駅前の庇を叩く音が、二人の間を埋めていく。
部長の指が、持ち手の小さな傷に触れていた。
「……誰に、借りたものだ」
(第23話へ続く)




