後日談 魔王より強い人
魔王討伐から八年。
「レン!」
王都郊外の家に、クレールの声が響いた。
蓮は反射的に背筋を伸ばした。
「はい!」
返事だけは完全な日本語である。
台所からクレールが現れた。
腕を組んでいる。
八年前と変わらない金色の髪。ただし今は後ろでまとめている。
「これ」
指差す。
床。
蓮の靴下。
「あ」
「Again」
「……Sorry」
「Yesterdayも」
「分かった、片づける」
「Now」
「はい」
かつて魔王を倒した勇者は、素直に靴下を拾った。
居間のテーブルで本を読んでいた六歳の娘リナが、顔も上げずに言った。
「お父さん、昨日もお母さんに怒られてたよね」
「お前はどっちの味方なんだ」
「お母さん」
「即答か」
リナは蓮には日本語で話す。
クレールにはフランス語。
外へ出ればアルヴェリア語。
三つを自然に使い分けていた。
四歳の弟ルイも、姉ほどではないが同じだった。
「不公平だろ」
蓮は娘の向かいへ座る。
「何が?」
「父さんは英語であんなに苦労したのに、お前は三か国語だぞ」
「三か国語じゃないよ」
「え?」
「シポおじさんに教えてもらってる言葉もあるから四つ」
「増えてるのかよ!」
そこへクレールがやってきた。
何かをフランス語で早口に言う。
蓮は黙った。
「……」
リナが父を見る。
「分かった?」
「七割」
「お母さん、今度の日曜日はシポおじさんたちが来るから、庭を片づけておいてって」
「それは分かった」
「あと、昨日飲んだお酒の瓶を隠しても無駄だって」
「それは分からなかった」
「分かりたくなかったんじゃない?」
「娘が鋭すぎる」
クレールが蓮を見る。
「Ren?」
「Yes」
「No alcohol today」
「そこだけ英語にしなくても分かるよ!」
クレールは笑った。
◇
午後。
庭へ二頭立ての馬車が到着した。
降りてきたのはシポとアウリだった。
「久しぶり!」
蓮が手を上げる。
シポも手を上げる。
八年の間に、シポはかなりアルヴェリア語を学んだ。
もっとも蓮との間では翻訳魔法が働かないため、相変わらず英語と身振りを混ぜて話している。
アウリはさらに酷かった。
八年前より話せるようにはなったが、本人が必要性を感じていない。
「元気そうだな」
蓮が言う。
アウリは意味を理解できない。
だが笑って蓮の肩を叩いた。
それで十分だった。
リナとルイが駆けてくる。
「シポおじさん!」
「アウリおじさん!」
二人には子供たちの言葉が分かる。
ここでも妙な現象が起きていた。
リナとルイはこの異世界で生まれた。
そのため翻訳魔法は二人を「異世界人」と判定する。
つまり、地球出身の四人とは自動的に言葉が通じる。
「ずるいよな」
蓮は何度も思った。
父親と母親は言葉を覚えるのに何年もかかった。
子供たちは生まれた瞬間から、四人全員と話せるのだ。
リナがアウリの手を引いて庭へ連れていく。
「吹き矢教えて!」
「おい!」
蓮が慌てて追いかけた。
「六歳児に吹き矢教えるな!」
アウリには分からない。
だが父親の顔を見れば意味は分かる。
楽しそうに笑う。
「笑うところじゃない!」
シポまで笑っている。
◇
夕方。
庭に大きなテーブルを出し、全員で食事をした。
シポが王立学院の話をする。
アウリは新しい斥候部隊の話。
クレールは治癒院。
蓮は騎士学校で若い騎士たちを教えている。
八年前、四人には共通する言葉がほとんどなかった。
今でも、完璧とは言えない。
蓮の英語は相変わらず怪しい。
フランス語も日常会話程度。
クレールの日本語の方がずっと上手い。
シポとは英語と身振り。
アウリとは、もはや身振りの方が早い。
それでも何の問題もなかった。
「ねえ」
食事が終わる頃、リナが尋ねた。
「お父さんとお母さんって、最初は全然お話できなかったの?」
「そうだぞ」
「どうやって結婚したの?」
蓮は少し考えた。
「……どうやったんだろうな」
「Ren」
クレールが睨む。
「冗談だよ」
「Joke?」
「Yes。Joke」
リナが笑う。
「お父さん、お母さんのこと好きだったの?」
「まあな」
「いつから?」
「それは……」
蓮が困っていると、クレールが何かをフランス語で言った。
「今なんて?」
リナが答える。
「『私の方が先に好きだったかもしれない』だって」
「え?」
蓮がクレールを見る。
「Really?」
クレールは少し赤くなった。
「Maybe」
「初めて聞いたぞ」
意味は完全には通じない。
だがクレールが照れていることは分かった。
蓮は笑った。
リナが首を傾げる。
「でも、言葉が分からないのに、どうやって好きになったの?」
蓮は答えようとして、やめた。
クレールを見る。
彼女もこちらを見ている。
言葉より先に分かるものもある。
八年前から、それだけは変わっていなかった。
「別に、全部分からなくてもいいんだよ」
「どういう意味?」
「そのうち分かる」
「ずるい」
「大人だからな」
クレールが日本語で言った。
「レン」
「ん?」
「お皿」
「……はい」
「洗って」
蓮の肩が落ちる。
シポが笑う。
アウリまで笑う。
「お前らなあ」
リナが楽しそうに尋ねた。
「お父さんって世界で一番強い勇者なんでしょう?」
「昔はそう呼ばれてたな」
「魔王にも勝ったんでしょう?」
「ああ」
「じゃあ、どうしてお母さんには勝てないの?」
蓮は皿を抱えたまま黙った。
シポが興味深そうに答えを待っている。
アウリも待っている。
クレールは腕を組んでいる。
蓮はしばらく考え、娘へ言った。
「世の中にはな、戦っちゃいけない相手っていうのがいるんだ」
「誰?」
蓮はクレールを見る。
クレールが微笑んでいる。
「……お母さん」
リナとルイが笑った。
シポも笑った。
アウリは意味が分からないはずなのに、皆が笑ったので一緒に笑った。
「Ren?」
クレールだけが首を傾げた。
「What did you say?」
蓮は少し考えた。
八年間で英語もずいぶん上達した。
それでも、この言葉だけは訳さないことにした。
「Nothing」
クレールが目を細める。
「Really?」
「Really」
「……Ren」
まずい。
八年間夫婦をやっていると、言葉が分からなくても嘘をついたことくらいは分かるらしい。
蓮は皿を抱えて台所へ逃げた。
「逃げるな!」
クレールの日本語が背中から飛んでくる。
「そこだけ完璧な日本語で言うなよ!」
子供たちの笑い声が家中に響いた。
窓の外には、魔王のいない穏やかな夕暮れが広がっている。
かつて蓮は、言葉が通じなければ人は理解し合えないと思っていた。
実際、何度も間違えた。
右と言ったつもりで光魔法を撃たれた。
治療はいらないと言おうとして、君はいらないと言ってしまった。
告白では文法を間違えた。
結婚してからも、夫婦喧嘩の半分は言葉の問題だった。
それでも八年が過ぎた。
二人の間には二人の子供がいて、かつての仲間たちが食卓を囲んでいる。
全部が伝わらなくてもいい。
分からなければ尋ねればいい。
間違えたら謝ればいい。
それでも駄目なら、笑えばいい。
蓮が皿を洗っていると、背後から腕が回ってきた。
クレールだった。
「Ren」
「何?」
彼女は日本語で言った。
「幸せ?」
その言葉だけは、驚くほどきれいな発音だった。
蓮は振り返る。
「うん」
そして今度は、彼女が最初に教えてくれた言葉で答えた。
「Yes」
クレールが笑った。
それだけで十分だった。
――了




