第九十五話:哀しき猟犬と、黒鋼の覚悟
ザルバの地下深くを流れる広大な水脈。
膝まで浸かる冷たい汚水と、鼻を突く腐臭の中を、四人は無言で進んでいた。目指すのは、都市の外壁の下を抜けて城外へと繋がる『大排水門』だ。
しかし、出口まであと少しという所で、シェリアがピタリと足を止め、魔導銃を暗闇に向けた。
「……来るわ。信じられない速さよ」
直後、地下水脈の奥から、獣の低い唸り声と水しぶきを上げる無数の足音が響き渡った。
松明の明かりと共に現れたのは、四つん這いになって駆け抜けてくる十数人の獣人の集団だった。彼らの首には赤黒く脈打つ分厚い鉄の首輪がはめられ、その瞳からは一切の理性が失われている。
「シロ、下がっていろ」
レイが黒鋼を構えて前に出る。しかし、レイの背中に隠れたシロは、襲撃者たちの姿を見てガタガタと激しく震え出した。
「あ……ああ……っ」
「シロ?」
「同じ、です。あの人たち、闘技場の地下にいた……逆らえば首輪で激痛を与えられて、心が壊れるまで魔物と戦わされていた、お仕置き用の『猟犬』……ッ!」
シロの悲痛な叫びを嘲笑うように、猟犬たちの後方から、魔導具の制御器を手にした太った人間の男――調教師が姿を現した。
「ヒャハハ! さすがはヴァルダー様の手配書だ、こんな臭えドブネズミの道に逃げ込んでたか! さあ行け駄犬ども! あのガキを殺さなけりゃ、お前らの首輪を最大出力で起爆してやる!」
調教師が制御器のダイヤルを回すと、獣人たちの首輪がバチバチと赤い雷光を放った。
「ギィィィッ……!」
獣人たちは苦痛に顔を歪め、涙と涎を撒き散らしながら、絶望的な殺意を宿してレイたちへと一斉に飛びかかってきた。
彼らもまた、シロと同じように人間に虐げられ、選択肢を奪われた被害者だ。
本来ならば救うべき相手。しかし、彼らが握りしめた刃は、容赦なくレイの命を、そしてレイの後ろにいるシロの命を奪おうと迫ってくる。
「チッ、悪趣味な連中だぜ!」
アレンが双剣を抜き放ち、向かってくる猟犬の刃を弾き返す。「レイ! 迷ってる暇はねえ、殺される前に殺せ!」
「……分かってる」
レイの瞳から、一切の感情が消え失せた。
同情して刃を鈍らせれば、自分の背中にある小さな温もりを守ることはできない。この狂った街で何かを護るということは、理不尽な罪を共に背負うということだ。
「シロを護る。……そのために立ち塞がるなら、相手が誰だろうと斬る」
先頭の猟犬が、狂乱の叫びと共にレイの首筋へと刃を突き立てようと跳躍した。
レイは悲哀に満ちた獣人の顔を真っ直ぐに見据え、一切の躊躇なく、黒鋼の大剣を『横』に薙ぎ払った。
――メチャァッ!!
斬撃ではない。圧倒的な鉄塊による衝突。
空中にいた獣人の胴体は、黒鋼の理不尽な質量と衝突した瞬間「く」の字に折れ曲がり、全身の骨が粉砕される不気味な音と共に、地下水脈のレンガ壁へと文字通り叩き潰された。
血の雨が降り注ぎ、動かなくなった同胞の死体を見ても、残りの猟犬たちは止まれない。
「シェリア!」
「ええ! 足を止めるわ!」
レイの意図を汲み取ったシェリアが、魔導銃から氷結弾を連射する。冷気が炸裂し、猟犬たちの足元が凍りついて動きが鈍る。
その僅かな隙を、レイは逃さなかった。
彼は猟犬たちの群れの『中心』へと真っ直ぐに突進し、大剣を振るうのではなく、巨大な刀身を盾のように構えて、文字通り『重戦車』の如き質量で獣人たちを撥ね飛ばした。
「ガァァッ!?」
骨が砕け、次々と汚水の中に沈んでいく猟犬たち。
レイは一瞬で群れを突破し、その奥で制御器を弄っていた調教師の目の前へと肉薄した。
「なっ、ヒィッ!? ば、馬鹿な、こいつらには痛覚を麻痺させる魔法を――」
「他人の痛みを玩具にする奴が、一番許せない」
レイの静かで氷のような声。
調教師が腰の剣を抜こうとするよりも早く、レイは黒鋼を真上から振り下ろした。
――ドゴォォォォォォンッ!!!
男の悲鳴は上がらなかった。
身の丈ほどもある大剣が、男の頭頂部から制御器ごと、その身体を縦に完全に『圧壊』したのだ。汚水と血肉が爆発するように飛び散り、男だったものは原形を留めない赤い肉の絨毯と化して水に沈んだ。
主と制御器を失った首輪の光が消え、生き残っていた数人の猟犬たちが、信じられないものを見るようにその場にへたり込んだ。
「……追うなら、容赦はしない」
血に濡れた黒鋼を肩に担ぎ、レイが冷たく見下ろすと、獣人たちは恐怖に震えながら、蜘蛛の子を散らすように地下の奥底へと逃げ去っていった。
沈黙が訪れた地下水脈。
レイは背中を向けたまま、自分の顔や手にこびりついた返り血を無言で拭った。同胞を殺させたことを、シロはどう思うだろうか。
しかし、背後から温かいものがレイの背中にぴたりと張り付いた。
シロだ。彼女は血に濡れたレイの背中に額を擦り付け、その両腕を背後からそっとレイの腰に回した。
「……ありがとう、ございます。私のために……痛い思いを、背負ってくださって」
同情よりも、倫理よりも、ただ自分を護るために血に染まってくれた少年の覚悟。
シロのその言葉に、レイは小さく息を吐き、血まみれの手で、自分の腰に回された彼女の小さな手を優しく重ねて握った。
「さあ、行こう。大排水門はすぐそこだ」
血と汚泥に塗れた四人は、欲望の都を覆う魔法障壁が完成する前に、最後の障壁へと向かって歩みを進めた。
最後まで『大剣の冒険者 第二部 〜欲望の都と、檻の中の銀〜』をお読みいただき、誠にありがとうございました。
シロの同胞とも言える獣人たちと戦わねばならない過酷な現実と、一切の躊躇なくシロを護る道を選んだレイの覚悟を描かせていただきました。
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次回、ついにザルバ脱出の最終関門に挑みます。皆様からの応援が物語を描き続けるための最大の原動力となります。引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。




