第九十二話:這い寄る追手と、小さな手当て
冷たい石の床の上で、レイは微かな物音で目を覚ました。
隙間風が吹き込むスラムの廃屋。外からは、夜が明けてもなお街中を駆け回る衛兵たちの鎧の音や、賞金稼ぎたちの怒声が絶え間なく聞こえてくる。包囲網は少しずつ、しかし確実にこのスラム街にも狭まりつつあった。
「……起きたか、レイ」
入り口の隙間から外の様子をうかがっていたアレンが、低い声で振り返った。その傍らでは、シェリアが魔導銃のメンテナンスをしながら、周囲の警戒用センサー端末の魔力残量を確認している。
「追手の数は?」
「最悪だな。ヴァルダーの私兵だけじゃなく、裏社会のゴロツキどもまで総動員されてやがる。金貨百枚の懸賞金は伊達じゃないってことだ」
アレンは忌々しそうに双剣の柄を叩いた。
「俺とシェリアで、少し外の様子を探ってくる。特務騎士団が来るまでの三日間、水と食料が心許ないし、いざという時の逃走ルートも確保しておきたい」
「僕も行くよ。二人だけに負担は……」
「バカ言え。お前のそのデカすぎる大剣と、シロの銀髪と獣耳は目立ちすぎる。お前らが外に出れば一瞬で蜂の巣だ」
アレンの正論に、レイは口をつぐむしかなかった。
「レイ、ここは私たちに任せて。あなたはシロと一緒に、息を潜めて休んでいてちょうだい」
シェリアが光学迷彩の魔導シートの出力を調整し、廃屋の入り口を完全に隠蔽する。二人は足音一つ立てず、スラムの暗がりへと消えていった。
廃屋に取り残されたレイとシロ。
静寂の中、レイは壁に背中を預け、傍らに置いた黒鋼の柄に手を乗せたまま、小さく息を吐いた。
その時、シロがおずおずとレイの元へ擦り寄ってきた。
彼女の視線は、レイの両手に注がれている。衛兵の牢獄で石壁を殴り続けた時の傷と、闘技場で分厚い鋼鉄の扉を無理やり吹き飛ばした衝撃で、レイの拳は皮が破れ、痛々しく赤黒く腫れ上がっていたのだ。
「……レイ、様。そのお怪我……」
「あぁ、これ? 大したことないよ。頑丈なのが取り柄だからね」
レイが無理に笑って手を隠そうとすると、シロは首を横に振り、レイの手をそっと自分の両手で包み込んだ。
「だめ、です。血が、出ています……」
シロはシェリアが置いていった水筒から清潔な布に少しだけ水を染み込ませ、レイの拳の傷を丁寧に、壊れ物に触れるような手つきで拭い始めた。
これまで他人の怪我の手当てなどしたことはないのだろう。手際はお世辞にも良いとは言えなかったが、その真剣な瞳と、傷口を刺激しないように細心の注意を払う震える指先からは、彼女の痛いほどの想いが伝わってきた。
「……痛く、ないですか?」
「うん。冷たくて気持ちいいよ。ありがとう、シロ」
レイの言葉に、シロは少しだけ安堵したように目尻を下げる。
奴隷として痛みを与えられるだけの存在だった自分が、自分を救ってくれた大切な人の痛みを、ほんの少しでも和らげることができている。その事実が、彼女の心に小さな、けれど確かな『誇り』を芽生えさせていた。
(私だって……ただ守られるだけじゃなくて、レイ様の役に立ちたい。少しでも、お傍にいる資格が欲しい……)
そんな静かな時間が流れていた、その時。
「――おい、この廃屋はどうだ? センサーの反応が少しおかしいぞ」
すぐ外から、野太い男の声が響いた。
レイの表情が一瞬にして鋭く冷たいものへと変わり、シロの肩がビクッと跳ねる。
「貴族様の魔導具なんて信用できるかよ。ただのゴミだろ、どうせ」
「いや、念のため中を改める。もしあのガキどもがいたら大金星だ」
ザクッ、ザクッと、武装した複数の男たちの足音が、光学迷彩の張られた入り口へと真っ直ぐに近づいてくる。
レイは無言のままシロの身体を自分の背後に庇い、右手で黒鋼の柄を握りしめた。
極限の緊張が廃屋を満たす。
もし見つかれば、狭い室内での乱戦になる。シロを守りながら、音を立てずに素早く始末しなければ、他の追手まで雪崩れ込んでくる最悪の事態だ。
レイは暗闇の中で息を殺し、扉越しの男たちの首の軌道を正確に見据えながら、漆黒の大剣を引き抜く準備を整えた。
最後まで『大剣の冒険者 第二部 〜欲望の都と、檻の中の銀〜』をお読みいただき、誠にありがとうございました。
迫り来る追手の緊張感と、その裏でレイの傷を手当てしようとするシロの健気な姿を描かせていただきました。守られるだけではなく、役に立ちたいと願い始める彼女の心の変化が今後の鍵となっていきます。
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入り口まで迫った賞金稼ぎたちを前に、レイはどう動くのか。皆様からの応援が物語を描き続けるための最大の原動力となります。引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。




