第九十章:狂乱の余波と、崩れゆく地下宮殿
「……レイ、様」
シロの小さな手が、レイの傷だらけの手をぎゅっと握り返す。
瓦礫の山と化した地下闘技場の底。差し込む一筋の光の中で、二人は確かに心を通わせていた。
だが、感動の余韻に浸る時間は、彼らには残されていなかった。
――ピキッ、ピキキキキッ……!
突如として、闘技場の底から不気味な亀裂音が鳴り響いた。
レイが粉砕した、あの赤黒い『人工の核』の残骸から、タールのようにどす黒い瘴気が漏れ出し、周囲の石畳をジュウジュウと音を立てて溶かし始めたのだ。
「なっ……これは、あの時の強酸……!?」
レイが目を見張る。
「不味いわね……ッ!」
観客席の通路から飛び降りてきたシェリアが、顔を青ざめさせながら叫んだ。
「あの人工の核、破壊されたことで蓄積されていた『絶望の魔力』が暴走しているのよ! 迷宮の強酸と同じ成分が、この地下空間全体を飲み込もうとしている!」
「チッ、どいつもこいつも後先考えねえでヤバいもん作りやがって!」
アレンが双剣を鞘に収めながら、レイの傍へと駆け寄る。
「レイ、急いでずらかるぞ! このままじゃ俺たちも、檻の中にいる他の奴隷どもも、まとめて酸の池に沈んじまう!」
見れば、闘技場の周囲に設置された鉄格子の奥で、まだ逃げ出せずにいる他種族の奴隷たちが、迫り来る黒い瘴気に悲鳴を上げてパニックに陥っていた。
気絶したままのヴァルダー子爵の身体も、瓦礫の端で黒い煙に巻かれようとしている。
レイは黒鋼を背中に背負い直すと、シロの身体を軽々と抱き上げた。
「ひゃっ……!?」
「しっかり掴まってて、シロ。……アレン、シェリア! 手分けして奴隷たちを檻から出すんだ!」
「お前なぁ! こんな状況で全員助ける余裕なんて……あークソッ、分かったよ! うちのバカ前衛の言う通りにすりゃいいんだろ!」
アレンが半ば自暴自棄に叫びながら、目にも留まらぬ速さで駆け出し、奴隷たちの檻の鍵を次々と双剣で斬り飛ばしていく。シェリアも氷結魔法で酸の進行を遅らせながら、怯える人々に出口へと向かうよう指示を飛ばした。
しかし、闘技場から地上へと続く大通路は、崩落の恐怖に駆られた貴族の観客たちや、ヴァルダーの私兵たちで凄まじいパニック状態となっていた。
「どけッ! 俺は貴族だぞ、下民どもは道を開けろォッ!」
「嫌だ、死にたくない……っ!」
我先に逃げようとする人間たちが、転んだ者を容赦なく踏みつけ、あるいは私兵が剣を振り回して力ずくで道をこじ開けようとしている。そこには、先ほどまで奴隷の死を笑いながら見ていた傲慢な姿は微塵もない。ただの醜悪な生存本能だけが渦巻いていた。
「……っ、このままじゃ、全員潰される」
シロを左腕に抱いたまま、レイは通路を塞ぐ分厚い鋼鉄の『第二防護扉』の前で立ち止まった。
私兵たちが扉をこじ開けようとしているが、崩落の衝撃で歪んでしまったのか、ビクともしない。背後からは確実に死の瘴気が迫っている。
「おい、そこの大剣使い!」
私兵の一人が、血走った目でレイを怒鳴りつけた。
「貴様がこんなふざけた真似をしたせいで……ッ! さっさとそのデカい剣でこの扉を壊せ! さもないと、その獣の女から先に殺すぞ!」
私兵がシロに剣を向けた瞬間、レイの瞳に冷たい怒りの炎が宿った。
「……他人に命を助けてもらう立場で、まだそんな口が利けるのか」
レイはシロを安全な場所へ降ろし、その背中をそっと撫でた。
「少しだけ耳を塞いでいて。すぐに終わらせるから」
そして、私兵たちの脅しなど歯牙にもかけず、ゆっくりと右腕一本で『封魔の黒鋼』を抜き放った。
「どけ」
その低く重い一言に、私兵たちは背筋を凍らせ、弾かれたように鋼鉄の扉から後ずさる。
レイは大きく息を吸い込み、全身のバネと圧倒的な筋力、そして絶望の迷宮で培った完璧な重心移動をただ一点――鋼鉄の扉の蝶番へと叩きつけた。
――ドゴォォォォォォォォォォンッ!!!
剣戟の音ではない。大砲を至近距離で撃ち込んだかのような爆音。
厚さ数十センチの鋼鉄の扉が、理不尽な質量の直撃を受け、ひしゃげながら通路の奥へと吹き飛んでいく。
「……ひぃっ……!」
腰を抜かす私兵たちや貴族たちを冷たく見下ろし、レイは再び黒鋼を肩に担いだ。
「道は開けた。……生きたければ走れ」
レイがそう告げた瞬間、人々は悲鳴を上げながら、開かれた通路を通って地上へと雪崩れ込んでいった。
奴隷たちを誘導し終えたアレンとシェリアも合流する。
「全員出したわ。急ぎましょう!」
背後に迫る黒い瘴気と崩落の轟音を背に、レイは再びシロの手を強く握りしめた。
ザルバの街を裏で牛耳っていた闘技場は、こうして完全に崩壊した。
しかし、彼らが地上へ出たとして、待っているのは歓声ではない。この「人間至上主義」の街において、貴族の施設を破壊し、奴隷を解放した彼らは、街中から命を狙われる『大罪人』に他ならないのだ。
証拠の書類を王都に送り、正規の騎士団がこの街に介入してくるまでの数日間。
欲望の都からの、過酷な逃走劇と潜伏の日々が始まろうとしていた。
最後まで『大剣の冒険者 第二部 〜欲望の都と、檻の中の銀〜』をお読みいただき、誠にありがとうございました。
崩壊する闘技場からの緊迫した脱出劇を描かせていただきました。極限状態の中でレイが見せた背中と、シロとの確かな絆を感じていただければ幸いです。
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地上へと向かうレイたちの前に何が待ち受けているのか。皆様からの応援が物語を描き続けるための最大の原動力となります。引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。




