第八十章:温かなスープと、心の檻
大通りから離れた、比較的静かで小ぎれいな宿屋。
レイは迷宮で得た金貨を弾んで部屋を取り、シロを連れて食堂の隅の席に座った。しかし、アレンとシェリアは無言のまま離れた別のテーブルに座り、レイたちとは明確な距離を置いている。パーティーの間に走った亀裂は、そう簡単に埋まるものではなかった。
やがて、湯気を立てる肉と野菜のスープ、そして焼きたての柔らかいパンが運ばれてきた。
「さあ、食べていいよ」
レイが促すが、シロは椅子に座ろうとせず、床に正座したまま小刻みに震えていた。
「……あの。私のような獣の奴隷が、人間のご主人様と同じ卓につくことは、許されません。……床に、こぼしていただければ、それを這いつくばって舐めますから」
その痛ましい言葉に、レイは胸を鋭い刃物でえぐられるような錯覚を覚えた。
「違う。ここは君の席だ。床になんてこぼさない。ちゃんと椅子に座って、スプーンで食べるんだ」
レイが優しく手を引いて椅子に座らせると、シロはおずおずと木のスプーンを握った。そして、震える手でスープを一口、口に運ぶ。
その瞬間、シロの銀色の瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ出した。
「あ、あぁ……ごめんなさい、ごめんなさい……っ」
シロは慌ててスプーンを置き、怯えたように頭を抱えてテーブルの下にうずくまった。
「奴隷が、ご主人様の前で涙を流すなんて……生意気です。どうか、ぶたないで……火のついた薪を、押し付けないでください……っ」
「ぶたないよ! 誰も君を傷つけない。……ただ、温かかったんだろ?」
レイの静かな問いかけに、シロはビクッと肩を跳ねさせ、こくりと頷いた。
これまで彼女に与えられていたのは、腐りかけた残飯や泥水だけだったのだ。まともな食事の『温もり』すら、彼女にとっては未知の恐怖でしかなかった。
レイは自分のスープを一口飲み、無理に微笑みを作った。
「ゆっくりでいい。全部君のものだ。誰も奪ったりしない」
シロはレイの顔色をうかがいながら、少しずつ、少しずつスープを飲み進めた。空っぽだった胃に温かい食べ物が収まっていくにつれ、張り詰めていた彼女の糸が僅かに緩んでいくのが分かった。
食事が終わると、シロは立ち上がり、突然レイの外套をスルリと床に脱ぎ捨てた。
下着すら身につけていない、無数の鞭の跡や火傷が刻まれた華奢な裸体が露わになる。
「なっ……シロ!? 何をして……」
レイが慌てて目を逸らすと、シロは虚ろな瞳のまま、ゆっくりとレイの足元にひざまずき、自らの細い腕を抱きしめた。
「……美味しいご飯を、いただきました。だから、代償(お返し)をしなければなりません。私の体でよければ、好きにしてください。……どんなに痛くても、声は出しませんから。だから、明日もご飯をください……」
それが、彼女がこの残酷な街で生き延びるために骨の髄まで刻み込まれた『理』だった。優しくされたら、それ以上の代償(暴力や凌辱)を払わなければ殺される。
鉄の首輪を外しても、彼女の心はまだ分厚い檻の中に囚われたままなのだ。
レイは床に落ちた外套を拾い上げ、シロの小さな体をもう一度、今度は隙間なくしっかりと包み込んだ。
「ご主人様……?」
「何もしなくていい。君は、ただ生きて、笑ってくれればそれでいいんだ」
「……生きる? 笑う……?」
シロには、その言葉の意味が全く理解できなかった。
だが、自分を包み込む少年の体温と、その不器用で真っ直ぐな声だけは、どうしてか嘘ではないように思えた。
過酷な緊張と疲労が限界に達していたシロは、レイの温もりに触れた瞬間、気絶するように深い眠りに落ちた。
その安らかな寝顔を見つめながら、レイは背中の黒鋼の柄を固く握りしめた。
(……この街の『悪意』は、迷宮の化け物よりもずっと深く、残酷だ)
シロの心に絡みつく見えない鎖を断ち切るには、ただ力で敵を叩き潰すだけでは足りない。
若き大剣使いは、静かに寝息を立てる銀髪の少女を抱き上げながら、この欲望の都の底なしの闇と向き合う覚悟を固めていた。
最後まで『大剣の冒険者 第二部 〜欲望の都と、檻の中の銀〜』をお読みいただき、誠にありがとうございました。
あまりにも残酷な虐待の記憶から、優しさにすら怯え、自らの身体を差し出そうとするシロ。心にかけられた重い鎖と、彼女を救おうと誓うレイの姿を描かせていただきました。
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すれ違うパーティーの絆と、シロの閉ざされた心がこれからどう動いていくのか。皆様からの応援が次なる展開を描き続けるための最大の原動力となります。どうぞよろしくお願いいたします。




