第六十三章:剥き出しの絶望
光すらも泥のように沈む、大穴の底。
死の谷に口を開けたその「ダンジョン」の内部は、生物の胃袋の中を思わせるような、生温かく腐臭に満ちた空気が充満していた。
一歩足を踏み出すたびに、靴底が何か粘つくものに絡め取られる。
岩肌であるはずの壁面は、赤黒い肉塊のように脈打ち、そこかしこからドロドロとした不気味な粘液が滴り落ちていた。
「……酷い臭いだ。血と、内臓が腐ったような……」
アレンが鼻を覆い、双剣を構えながら吐き捨てるように言った。
レイもまた、大剣の柄を握る手にじっとりと嫌な汗をかいているのを感じていた。
ルミナスの濃霧や砂塵の荒野にも、魔物の縄張り特有の威圧感はあった。だが、ここは違う。
空間そのものが、侵入者の生命を悪意を持って「消化」しようとしているのだ。
――ズズ……、ジュル……。
奥から、何かをすするような不快な水音が聞こえてきた。
ボルグを先頭に、四人は息を殺して薄暗い通路の角を曲がる。
そして、そこに広がる光景を目にした瞬間、全員の足が氷のように凍りついた。
「う、あ……ぁ……」
壁一面に、逃げ遅れたギルムの偵察部隊の冒険者たちが「埋め込まれて」いた。
死んではいない。いや、死ぬことすら許されていないのだ。
彼らの四肢は壁の肉塊と完全に癒着し、皮膚はドロドロに溶け落ちて赤黒い筋肉と白骨が剥き出しになっている。
壁から伸びた無数の管が、彼らの眼球の裏や喉の奥へと深く突き刺さり、そこから生命力と魔力を、文字通り「啜って」いた。
「……たす、け……ころ、して……」
声帯すら溶けかかった喉から、血の泡を吹きながら一人の若い冒険者が懇願する。
その顔には見覚えがあった。かつてギルドで、レイの大剣を「鉄クズ」だと笑っていた青年だ。
今はその両目がくり抜かれ、空洞となった眼窩から、透明な管が彼の脳髄をかき回すように蠢いている。
「なんだよ、これ……。ただの魔物のやることじゃねえぞ……!」
ボルグが胃液をこみ上げさせながら、大盾を持つ手を震わせた。
シェリアもまた、あまりの惨状に顔を青ざめさせ、魔導銃の銃口を震わせている。
「助け……」
レイが青年のもとへ駆け寄ろうと一歩踏み出した、その時だった。
天井の肉の壁が、音もなく裂けた。
「レイ、上だッ!」
アレンの絶叫。
しかし、降ってきた『それ』は、魔物という概念すら超越した異形だった。
人間の死体を無数につなぎ合わせたような多関節の肢体に、頭部にあたる部分には、ただ巨大な「歯を剥き出しにした顎」だけがついている。
異形は、もっとも魔力の高いシェリアを狙って、天井から直接その顎を突き出した。
「――ッ!」
「シェリアッ!!」
レイより早く動いたのは、ボルグだった。
彼は自身の巨体を弾丸のように投げ出し、シェリアを庇うように大盾を天へと掲げた。
ルミナスの過酷な環境を耐え抜き、覇竜の突進すら防いだ自慢の大盾。
だが、異形の顎は、その大盾を紙切れのように『噛み砕いた』。
「ぁ……?」
金属が噛み千切られる嫌な音と共に、異形の無数の牙が、大盾ごとボルグの右腕へと深々と突き刺さった。
「ガァァァァァァッ!!?」
ボルグの凄まじい絶叫が、迷宮に響き渡る。
牙から注入された強酸性の体液が、一瞬にしてボルグの軽鎧を溶かし、皮膚を焼き、筋肉の繊維をジュウジュウと音を立てて溶かしていく。
「ボルグさんッ!!」
レイが大剣を振りかぶり、異形の胴体めがけて渾身の斬撃を放つ。
質量を乗せた一撃は、確かに異形の肉体を半ばから断ち切った。
だが、異形は痛みを感じる様子もなく、切断された胴体から赤黒い触手を無数に伸ばし、傷口を瞬時に縫い合わせていく。
「あ、あぁ……ッ、腕が……俺の、腕がァァァッ!」
ボルグは異形の顎から解放されたものの、その右腕はもはや原形を留めていなかった。
肉は焼け爛れて骨が剥き出しになり、傷口からは彼の生命力が青白い光の粒となって、空気中へと溶け出していく。
圧倒的な苦痛に、あの豪快だった男が、子供のように涙と鼻水を流して地面をのたうち回っている。
「嘘だ……。ボルグの盾が、あんなにあっさりと……」
アレンが双剣を握りしめたまま、絶望に目を見開いた。
壁に埋め込まれた冒険者たちが、まるでこの惨劇を歓迎するかのように、カタカタと痙攣しながら血の涙を流し続ける。
絶対の自信を持っていた質量の刃も、誇り高き大盾も、この暗黒の奈落の前ではただの玩具に過ぎないのか。
暗闇の奥から、さらに無数の『顎』が這い出てくる音が響く。
仲間を失うかもしれないという剥き出しの絶望が、レイの心を容赦なく黒く塗り潰していった。
最後まで『大剣の冒険者』をお読みいただき、誠にありがとうございました。
今回はこれまでとは打って変わり、迷宮の底知れぬ悪意と残酷な絶望を描かせていただきました。読んでいて辛く、悲しい気持ちにさせてしまったかもしれませんが、この深い闇と喪失があるからこそ、レイたちがそれにどう抗っていくのか、その絆と生命力がより強く描けるものと信じて執筆しております。
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絶望の淵に立たされたレイたちがこの先どう立ち向かっていくのか、皆様からの応援が次なる展開を描き続けるための最大の原動力となります。どうぞよろしくお願いいたします。




