第二十五章:霧の洗礼
ルミナスの街を囲むように広がる「霧の渓谷」。
そこは、昼間であっても数歩先が見えなくなるほどの、濃い白霧に閉ざされた危険地帯だった。
湿った風が肌を刺し、周囲の岩肌からは常に水滴が滴り落ちる音が響いている。
レイは、大剣の柄に右手をかけたまま、一歩一歩慎重に視界の悪い悪路を進んでいた。
受けた依頼は、この渓谷の奥に自生する貴重な苔の採取。
難易度自体は高くないはずだが、ギルドの職員が放った「触れることすら叶わない」という言葉が、ずっと耳の奥に残っていた。
――カサッ。
不意に、右前方の霧の奥でかすかな音がした。
レイは瞬時に足を止め、大剣を引き抜いて正眼に構える。
毎日の素振りで培った完璧な姿勢。下腹部に力を込め、周囲の気配に全神経を集中させた。
――シュッ!!
霧を切り裂き、何かが猛烈な速度で跳躍してきた。
レイの鋭い視線が、その正体を捉える。
それは、大人の腕ほどもある巨大なカマキリのような魔物――「霧隠れの鎌虫」だった。
その身体は半透明で、霧に完全に同化している。
「そこだっ!」
レイは狙いを定め、大剣を横一文字に薙ぎ払った。
大地の力を乗せた、無駄のない鋭い一閃。
並の魔物なら、その質量だけで跡形もなく消し飛ぶはずの軌道だった。
――フッ。
しかし、手応えはまったくなかった。
大剣の凶悪な刃は、ただ白く濁った霧を虚しく切り裂いただけだった。
鎌虫は、レイが刃を振り下ろすまさにその瞬間、驚異的な跳躍力で自らの軌道を変え、大剣の風圧すら利用するようにして身を翻したのだ。
「なに……っ!?」
質量があるからこそ、空振ったときの隙は大きい。
体勢がわずかに崩れたレイの死角へ、半透明の鋭い鎌が容赦なく襲いかかる。
――キィンッ!
レイは本能的に大剣の腹を盾にして鎌を防いだが、衝撃で数歩後ろへとよろめいた。
仕切り直そうと目を凝らすが、鎌虫の姿はすでに濃い霧の向こうへと消え去っていた。
聞こえてくるのは、どこから響いているのかも分からない、不気味な羽音だけだ。
(本当に、当たらない……!)
ギルムの魔物は、狂犬にしろ変異種にしろ、自らの肉体を武器にして真っ向から突っ込んできた。
だからこそ、大剣の圧倒的な力で叩き潰すことができたのだ。
しかし、このルミナスの魔物は違う。
こちらの力を逆手に取り、霧に隠れて翻弄してくる。
「力任せじゃダメだ。もっと、敵の動きの『先』を……」
レイは額から流れる冷や汗を拭い、再び大剣を構え直した。
霧の奥から、じっと自分を値踏みするような冷たい視線を感じる。
新天地ルミナスの過酷な洗礼が、今、始まったばかりだった。




