第8話 巣を捨てる
自分の縄張りへ入ったから殺した。
その考えを、俺はもう間違いだと思えなくなっていた。
以前の俺なら、相手にも事情があったのではないかと考えただろう。
仲間を殺されたなら、復讐に来るのは当然だ。
だが、ゴブリンの俺にとって重要なのは、どちらが正しいかではない。
生き残ったのは俺。
死んだのはこいつら。
それだけだった。
「……本当に、変わってきたな」
恐怖より、諦めに近い感情が浮かぶ。
人間だった頃の倫理観だけでは、この世界を生き残れない。
だからといって、すべて捨てるつもりもなかった。
人間を無意味に殺さない。
助けられる命は、できる範囲で助ける。
だが、俺を殺そうとする相手には容赦しない。
いまは、それでいい。
俺は三匹の死骸を調べた。
一匹目は石槍。
二匹目は小さな弓。
三匹目は石と火打ち道具を持っていた。
どれも粗末な品だが、何も持っていない俺には貴重だ。
弓を持っていたゴブリンの腰には、革製の矢筒が下がっている。
中に入っていた矢は七本。
矢尻は削った石で、羽根の形も揃っていない。
それでも、遠くから攻撃できる武器は欲しかった。
俺は弓を持っていた死骸へ触れた。
《新鮮な死骸を確認しました》
《対象が所有していた能力を一つ選択してください》
《夜目》
《悪臭耐性》
《弓術》
《遠視》
《能力値》
《現在の満腹度 七十六》
欲しいのは《弓術》と《遠視》だ。
遠くの敵を見つけられる《遠視》は便利だが、弓の使い方が分からなければ、せっかくの武器も役に立たない。
「《弓術》を選ぶ」
《スキル《弓術》を収奪します》
死骸から黒い光が浮かび、俺の両腕へ吸い込まれた。
弓の握り方。
矢をつがえる動作。
弦を引く強さ。
風や距離に合わせた狙い方。
知らなかったはずの知識が、一気に頭へ流れ込んでくる。
《満腹度が上昇します》
《満腹度 百》
《満腹状態になりました》
「やっぱり、二つは無理か」
《遠視》も欲しかったが、同じ死骸から二度目の収奪はできない。
別の弓使いを倒すか、その死骸を見つけるしかない。
俺は小さな弓を手に取り、矢を一本つがえた。
少し離れた岩へ狙いを定める。
弦を引き、指を離した。
矢は真っすぐ飛び、岩の隙間へ突き刺さった。
「使える」
短剣しかなかったときより、戦い方の幅が大きく広がった。
正面から戦えば勝てない相手でも、遠くから傷つけられる。
俺は矢を回収し、弓と矢筒を背負った。
石槍も欲しいが、短剣と弓を持ったままでは邪魔になる。
火打ち道具と、三匹が持っていた干し肉だけを革袋へ入れた。
干し肉からは腐ったような臭いがする。
人間だった頃なら、触ることさえ嫌だっただろう。
いまは食べられると分かる。
むしろ、腹が減ったら食べたいとさえ思っていた。
満腹状態なので、すぐに食べる必要はない。
俺は隠れ家へ戻り、使えそうな物を集めた。
青白い苔。
木の実。
水を入れるための革袋。
汚れた布。
全部まとめても、大した量にはならない。
ここで暮らしていたゴブリンが、どれだけ貧しかったのか分かる。
だが、この隠れ家にはもう戻れない。
入口の場所を知られた。
煙を使って追い出そうとした三匹が戻らなければ、さらに仲間が来る。
次は三匹とは限らない。
ホブゴブリンより強い個体が来る可能性もある。
俺は隠れ家を振り返った。
目覚めてから初めて手に入れた、安全な場所だった。
愛着があるわけではない。
それでも、捨てるとなると少しだけ惜しい。
「生きていれば、また見つけられる」
俺は亀裂を抜け、洞窟の奥へ向かった。
◇
身体に残された記憶を頼りに、細い通路を進んだ。
洞窟の出口は、人間が使う大きな通路だけではない。
ゴブリンや小型の魔物しか通れない、狭い穴がいくつも存在する。
そのうちの一つが、外の森へつながっている。
途中で何度か足を止め、周囲の音を確認した。
《忍び足》を使い、自分の気配を抑える。
戦えるようになったからといって、無駄に魔物を探すつもりはない。
いまは満腹だ。
敵を倒しても《死骸収奪》は使えない。
戦うなら、腹が減ってからのほうがいい。
以前の俺なら、命を奪うことに損得を持ち込む自分を嫌悪しただろう。
いまは、それが当然の判断に思えた。
殺しても力を奪えない。
なら、戦う価値は低い。
「どんどんゴブリンらしくなってるな」
そう言いながらも、足は止めなかった。
やがて、通路の奥から冷たい風が流れてきた。
土と草の匂い。
洞窟の中にはなかった、外の匂いだ。
岩壁の間から、白い光が差し込んでいる。
俺は隙間を押し広げ、外へ這い出した。
目の前に、夜の森が広がっていた。
高い木々。
風に揺れる葉。
雲一つない夜空。
そこに浮かぶ月は、俺が知っているものよりも大きかった。
しかも、一つではない。
白い月の隣に、青く小さな月が浮かんでいる。
「本当に、異世界なんだな……」
どこかに日本があるという、わずかな期待が消えた。
同時に、不思議な解放感があった。
あの道路へ戻ることはできない。
トラックで轢いた男がどうなったのかも確認できない。
警察へ説明することも、救急車が間に合ったのか知ることもできない。
俺に過失はなかった。
そう何度言い聞かせても、事故の瞬間は頭から消えてくれない。
だが、いまは生きることだけを考えなければならない。
森の向こうに、小さな明かりが見えた。
人間の村かもしれない。
近づくべきではない。
俺の姿を見れば、話を聞く前に殺される。
俺は明かりとは反対方向へ歩き出した。
そのとき、風に乗ってゴブリンの声が聞こえてきた。
『早く歩け!』
『逃げたら殺す!』
俺は足を止めた。
木々の間から、三匹のゴブリンが現れる。
一匹は棍棒。
一匹は石槍。
最後の一匹は弓を持っていた。
三匹の中央を、両手を縛られた人間の女性が歩かされている。
防具は壊れ、右脚から血を流していた。
「離して!」
女性が抵抗すると、棍棒を持ったゴブリンが背中を殴った。
『黙れ!』
女性が地面へ倒れる。
弓を持ったゴブリンが笑った。
『巣へ持ち帰る』
『長へ渡せば、肉をたくさんもらえる』
俺は木の陰へ身を隠した。
三匹のゴブリン。
いまの俺なら、勝てるかもしれない。
だが、満腹状態なので、倒しても能力は奪えない。
女性とは知り合いでもない。
助けたところで、ゴブリンの俺が感謝される保証もない。
戦う理由はなかった。
俺は背中の弓へ手を伸ばした。
戦わない理由なら、いくつもある。
それでも、見捨てる理由にはならなかった。




