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第10話 満腹でも戦う



『大きな魔物が連れていった』


 地面に書いた文字を読んだ瞬間、女性探索者の顔から血の気が引いた。


「生きているの?」


 俺は遠くの影へ目を凝らした。


《遠視》を意識する。


 木々の向こうが、目の前にあるかのように大きく見えた。


 人間の倍近い身体。


 灰色の皮膚。


 丸太のように太い腕。


 腰には獣の皮を巻き、右手に巨大な棍棒を持っている。


 オーガだ。


 ゴブリンの記憶にも、恐ろしい魔物として残っていた。


 力が強く、ゴブリンなら数匹まとめて叩き潰される。


 オーガが左手で引きずっているのは、革の防具を身につけた男だった。


 頭から血を流している。


 だが、胸がわずかに上下していた。


 まだ生きている。


 俺は地面へ文字を書く。


『生きている』


「助けないと……」


 女性が立ち上がろうとした。


 傷ついた右脚に力が入らず、すぐに膝をつく。


「くっ……」


 腰の革袋から、小さな瓶を取り出した。


 中には赤い液体が入っている。


 回復薬だ。


 女性は蓋を開け、中身を飲み干した。


 右脚の傷が淡く光る。


 完全には塞がらないが、流れていた血は止まった。


 女性は剣を杖のように使い、今度こそ立ち上がる。


「案内して」


 俺はすぐには動かなかった。


《現在の満腹度 百》


 満腹状態だ。


 オーガを倒したところで、《死骸収奪》は使えない。


 それ以前に、勝てる可能性が低い。


 ゴブリンを六匹率いていたホブゴブリンでさえ、探索者たちと協力してようやく倒せた。


 オーガは、あれよりもさらに大きい。


 俺は左肩を負傷している。


 女性も回復薬を使ったとはいえ、まともに走れる状態ではない。


 戦わないほうがいい。


 仲間を助けたいなら、彼女一人で行けばいい。


 俺には関係がない。


 そう判断しかけたとき、女性が俺を見た。


「怖い?」


 俺はうなずいた。


 勝てると思っているのなら、それは勇気ではなく無謀だ。


「私も怖い」


 女性の手も震えていた。


「でも、あの人を置いて逃げたくないの」


 人間だった頃の俺なら、その言葉だけで動いたかもしれない。


 いまは違う。


 助ける価値があるか。


 勝てる可能性はあるか。


 自分が生き残れるか。


 ゴブリンの思考が、冷静に損得を計算している。


 俺は背負っている矢筒を確認した。


 残っている矢は四本。


 短剣。


 小さな弓。


《夜目》


《遠視》


《忍び足》


《弓術》


《敏捷》


《腕力強化》


 正面から戦えば負ける。


 だが、不意を突けば傷を与えられる。


 オーガが人間を運んでいる間なら、まだこちらには気づいていない。


 俺は地面へ文字を書いた。


『戦うなら、俺の言うとおりにしろ』


 女性が文字を読み、俺を見た。


「作戦があるの?」


 うなずく。


 勝てる保証はない。


 それでも、何も考えずに突っ込むよりはましだった。


     ◇


 俺たちはオーガを追った。


《忍び足》で気配を抑え、一定の距離を保つ。


 女性の足では速く進めない。


 それでもオーガは人間を引きずっているため、追いつくことができた。


 やがて、オーガは森の中にある小さな空き地へ入った。


 引きずっていた男を地面へ放り投げる。


「ぐっ……」


 男が小さくうめいた。


 まだ意識は戻っていない。


 オーガは近くの木へ棍棒を叩きつけた。


 太い枝が折れる。


 枝を集め、火を起こそうとしている。


 男を食うつもりだ。


 時間はない。


 俺は女性へ、近くの茂みを指さした。


 彼女の役目は、オーガが俺を追っている間に仲間を救出することだ。


 女性がうなずき、茂みの中へ身を隠す。


 俺は木の陰から、オーガを観察した。


 身体は大きい。


 皮膚も厚い。


 胸や腹を矢で射ても、致命傷にはならないだろう。


 狙うなら、目だ。


 弓を構え、矢をつがえる。


《遠視》でオーガの顔を捉える。


《弓術》で軌道を定める。


 狙うのは右目。


 息を止め、弦を放した。


 矢が木々の間を抜ける。


「グオオオオッ!」


 矢はオーガの右目へ突き刺さった。


 巨体が大きくのけぞる。


 俺はすぐにその場から離れた。


「グガアアアッ!」


 オーガが矢を引き抜き、怒りに任せて棍棒を振り回す。


 片目から血を流しながら、俺のいた木へ突進した。


 棍棒が幹へ叩きつけられる。


 大きな木が、鈍い音を立てて折れた。


 一撃でも受ければ死ぬ。


 俺は木々の間を走った。


《敏捷》がなければ、すぐに追いつかれていた。


 オーガは巨体だが、速い。


 地面を蹴るたび、距離が縮まっていく。


 俺は二本目の矢をつがえた。


 走りながら振り返り、弓を引く。


 狙いを定める時間はない。


 矢はオーガの肩へ刺さった。


 ほとんど効いていない。


「グオオッ!」


 棍棒が振り下ろされる。


 俺は横へ跳んだ。


 地面が大きくへこみ、土と石が飛び散る。


 飛んできた石が背中に当たった。


「ギッ!」


 身体が地面へ転がる。


 オーガが棍棒を持ち上げた。


 逃げるのは間に合わない。


 俺は短剣を抜き、迫ってくる巨体を見上げた。


 そのとき、女性探索者がオーガの背後から斬りつけた。


「こっちよ!」


 剣が、オーガの膝裏を切り裂く。


「グガッ!」


 オーガの身体が傾いた。


 女性のそばには、救出された男が横たわっている。


 もう移動させたあとだった。


「いま!」


 俺は地面を蹴った。


 倒れかけたオーガの身体へ飛び乗る。


 背中を駆け上がり、太い首へ短剣を突き刺した。


 硬い。


 刃が途中で止まる。


「グオオオッ!」


 オーガが暴れ、俺を振り落とそうとする。


 俺は首へしがみつき、短剣へ全体重をかけた。


《腕力強化》を使い、刃を少しずつ押し込む。


 オーガの手が、俺の身体をつかんだ。


「ギャッ!」


 骨が軋む。


 このまま握り潰される。


 女性がもう一度、傷ついた膝裏へ剣を振り下ろした。


 オーガの脚から力が抜ける。


 巨体が前へ倒れた。


 俺は地面へ投げ出される。


 オーガも顔から地面へ突っ込んだ。


 短剣は首に刺さったままだ。


 立ち上がろうとしたオーガの首へ、女性が剣を突き刺す。


「終わって!」


 オーガが腕を振り回す。


 女性の身体が弾き飛ばされた。


 それでも、剣は首に残っている。


 俺は落ちていた棍棒を見た。


 人間でも持ち上げるのが難しそうな大きさだ。


 だが、片側は地面についている。


 俺は棍棒の端を両手で持ち、持ち上げた。


「ギ……ギギッ!」


《腕力強化》を使っても重い。


 腕の筋肉が悲鳴を上げる。


 それでも、少しずつ棍棒が持ち上がった。


 オーガがこちらを見る。


 残った左目に、初めて恐怖が浮かんだ。


「お前も、死ぬのは怖いよな」


 俺は棍棒を振り下ろした。


 先端が、オーガの頭部へ叩きつけられる。


 一度では止まらない。


 もう一度持ち上げる。


 二度目。


 三度目。


 オーガの身体が動かなくなるまで、何度も振り下ろした。


「はあ……はあ……」


 棍棒を手放す。


 全身が痛い。


 左肩の傷は開き、腕からも血が流れている。


 それでも、生き残った。


 女性が倒れている男のもとへ駆け寄る。


「しっかりして!」


「う……」


 男がかすかに目を開いた。


「生きてる……」


 女性が安堵の声を漏らす。


 俺はオーガの死骸を見た。


 戦闘で満腹度は大きく減っている。


《現在の満腹度 三十二》


 収奪できる。


 俺はオーガの死骸へ近づき、胸へ手を置いた。


《新鮮な死骸を確認しました》


《対象が所有していた能力を一つ選択してください》


《棍棒術》


《怪力》


《肉体強化》


《再生》


《威圧》


《能力値》


 どれも強力だった。


《怪力》があれば、オーガの棍棒さえ簡単に扱えるようになるかもしれない。


《肉体強化》なら、攻撃を受けても耐えられる。


 だが、俺の身体には傷が増え続けている。


 回復薬は持っていない。


 このまま戦いを重ねれば、いつか傷が原因で動けなくなる。


「《再生》を選ぶ」


《能力《再生》を収奪します》


 オーガの死骸から、濃い赤色の光が浮かび上がった。


 光は俺の全身へ絡みつき、傷口へ集まっていく。


「ギッ……!」


 開いていた傷が熱を持つ。


 流れていた血が止まり、裂けた皮膚がゆっくりと塞がり始めた。


 一瞬ですべて治るわけではない。


 それでも、放置するよりはるかに速く回復している。


《能力《再生》を獲得しました》


《強力な能力を収奪しました》


《満腹度が大幅に上昇します》


《満腹度 百》


《満腹状態になりました》


 女性が、黒い光を吸収する俺を見ていた。


「その力で、強くなっているの?」


 俺はうなずいた。


「死体さえあれば、どこまでも?」


 首を横に振り、地面へ文字を書く。


『一体から一つだけ』


『満腹になると使えない』


 女性は文字を読み、オーガの死骸へ視線を向けた。


「それでも、とんでもない力ね」


 否定はできない。


 死骸さえ新鮮なら、魔物からでも人間からでも能力を奪える。


 いつか、オーガより強い魔物の能力も。


 その先にいる存在の力さえも、奪えるかもしれない。


 俺は再生し始めた自分の手を見つめた。


 最弱のゴブリンだった身体が、死骸を重ねるたびに作り替えられている。


 この力を使い続けた先で、俺は何になるのだろう。


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