8-1 鏡像 同じだと思ってしまった
その日の学習を終え、僕は医務室に直行した。
前タームに終わらなかった課題は、未完成のまま受理されていた。
医務室は、カフェテリアと同じ中央棟の一階にある。学園のどこにいてもうっすらと消毒液の匂いが漂っていたが、ここではそれが壁そのものから滲み出しているように濃く感じられる。
入ってすぐにフラットなベンチがいくつかと、パーテーションで区切られたブースが置かれている。そのうちひとつはカーテンが閉められており、中から話し声が聞こえた。誰かが診察を受けているのだろう。ちょっとした怪我や体調不良は、ここで診療をしてもらえる。
診察ブースの前の通路を左に行くと療養エリアだ。前に風邪を拗らせて高熱を出したとき、そこで一晩過ごしたことがある。療養エリアにはベッドと医療機器の置かれた個室が並び、そのさらに奥が治療室だった。
入学時の案内で、治療室には簡単な外科治療を行う設備が揃えられていると聞いたことを思い出す。学園は山中にあり、冬は雪で閉ざされるので、こうした設備が必要なのだろう。
医務室へ入ると、部屋の隅でスリープモードになっていた受付用ロボットが起動して、ほとんど音を立てることなく僕の方へ近づいてきた。そのモニターには来室の目的を問う選択肢が表示されている。僕はその中から「面会」を探し、指で触れた。次に、誰の面会に訪れたのかを問われ入力すると、すぐに画面が変わった。『現在、処置中のため、面会できません』という文面が表示される。
「いつ終わるの?」
更に画面が変わる。
『その質問には、お答えできません』
「分かった。ありがとう」
そういうものか、と思い、僕は医務室を出る。兄の所在はもう分かったので、それほど心配はしていなかった。
廊下に出ると、医務室の静けさとは対照的に学習を終えた生徒たちでごった返していた。夕食前の軽食を摂りにきた者や友人と待ち合わせる者たちが、カフェテリアへと流れていく。空腹を思い出した僕は足早にその流れを横切り、カフェテリアの前を通りすぎた。
部屋へ戻るなり、デスクの引き出しから菓子を取り出して口に入れる。
菓子は抵抗なく喉を通り、体の奥へ落ちていった。少し、空腹が満たされる。
今朝からカフェテリアへは行っていない。青鸞にもらった菓子で食いつないでいた。普段なら到底許されない行動だが、今はそれを咎める兄はいない。
ベッドに横になる。向かいのベッドが目に入った。空白のベッドは、今はさほど気にならない。
横になると、強烈な眠気が襲ってきた。僕は抗わずに瞼まぶたを閉じる。
目を瞑りながらも、頭は動き続けていた気がする。何を考えていたのかはひとつも覚えていなかった。
再び目を開くと、スクリーンの開いたままになった窓から空が明るいのが見えた。まだ日が暮れていないのか翌朝なのかを咄嗟には判断できず、ベッドに放り投げた外部端末を手に取る。
21時台だった。夜のはずなのに、空は昼と同じ色をしている。コミューンよりも緯度の高いこの場所は、日が暮れるのが随分遅い。間もなく寮の門限だ。
琥珀は今夜も医務室で眠るのだろう。
少し眠ったせいか、頭の中が妙に冴えているのを感じた。
ふと、あの果実の匂いがした気がした。
思い出した一瞬、思考が止まった。
あの日着ていた衣服は、全て洗濯に出しているはずだ。大きく息を吸い込んでみる。今度は何も匂わなかった。
あの「甘さ」をもう一度味わいたいという欲求が、何もかもを埋め尽くしていく。
――行ってみようか。今日ならまだ、兄はこの部屋にいない。
青鸞も誘おうかと思いつき、すぐに考え直す。ひとりで行くのを怖がったとは思われたくなかった。そもそも誘う手段もないことに気がつく。外部端末から送るメッセージは全て記録に残ってしまう。
パターンを意識する間もなく、指が動いた。ダミィコードが作動する。
誰もいない廊下に、靴音だけがやけに響いた。1階へ降りるのにエレベーターは使わない。前に青鸞に教えられたことをひとつひとつ思い出しながら実行する。
誰かに会えば、まだ引き返すことができると思いながら。




