8-2 鏡像 同じだと思ってしまった
結局、誰にも会うことなく寮の外へ出られてしまった。
まだ影ができそうなほど、外は明るかった。
寮の裏手の林間エリアへ入る。子供の頃によく遊んだ林によく似ていた。自由に見えて、迷わないように設計された林だ。
世界中で、森林が残っている場所は、もう随分と少なくなっていると聞く。学園を取り囲むように広がるこの辺り一帯は『同盟』によって保護地区に指定されていて、誰からも脅かされることなく気候変動以前の生態系を維持していた。
あの日の夜とは違い、視界は完全に開けていた。
暗闇に耳を澄ませる必要も、匂いを探す必要もない。ただ見えるものを見ていればよかった。
教えられた地点で、管理された林を外れる。注意して見ると、踏み固められた道筋があるのが分かった。しばらく行くと、この前と同じ道に出る。
迷わずたどり着けたことにほっとしていると、奥に、温室のガラスが光るのが見えた。
温室へ入ると、人工物と自然物が溶け合ったようなあの夜の異様さはすでになかった。暗闇の中にあるときとは別の顔をした温室の中を、順に歩いていく。
熟した果実は、手の届く高さにだけでもまだいくつもあった。蔦葉の隙間から射し込む微かな光が、果実の色や艶を際立たせている。甘い香りはそのままだったが、あの夜ほど濃くは感じられなかった。
手を伸ばし、果実を捥ぐ。
口元に運ぶと、甘みと酸味が柔らかく広がった。
果実の感触、香り、味が、ここにあることを教えてくれている。
「………それ、食べてるの?」
後ろから声がした。見知らぬ生徒がひとり、僕の方を見て立っていた。
「え……」
答えに迷って手元に目を落とす。手には、歯形のついた果実が残されていた。
「食べてるの?」
質問する、というよりは、確認に近い響きだった。
どう答えたらよいのか分からず、頷く。
「へェ、植物を食べる人、初めて見た」
声色からは、嫌悪の感情は感じられなかった。かといって好意的というわけでもなく、ただただ珍しいものを見つけて観察をする目をしていた。
「……駄目、かな」
訊くと、その生徒はゆっくりと首を振った。
「別に、いいんじゃない。僕は、欲しいとは思わないけれど」
突き放すように言うその距離感が、なぜか心地よく感じた。返答の冷たさとは反対に、距離が近づく。
長い前髪の隙間から覗く暗褐色の瞳は、こちらの反応を一つも逃さないように、記録するみたいに僕を見ていた。
「どんな感じ?」
「甘い。それから、少し酸っぱい」
味を訊かれているのかと思い、答える。
「ふうん」
それきり、沈黙が落ちた。気まずいはずなのに、逃げたいとは思わなかった。
温室を維持する、機械の低い唸うなりだけが残される。
「君、鶉でしょ」
不意に名前を呼ばれ、胸の奥が小さく跳ねた。
「CEPTORがない人は珍しいから、知ってる」
淡々と言う彼の声には、悪意が混じらない。ただ、事実を伝えているだけだと分かった。
「君は誰?」
「黒鶫」
短く名乗ると、彼は俯うつむいて一歩下がった。
彼との会話は、ひとつ間違えるとすぐにでもいなくなってしまいそうな、野生動物を相手にした時のような緊張感があった。
「……ねェ、黒鶫。ここには、よく来るの?」
離れた距離を縮めようと、言葉を繋ぐ。
「……時々」
それ以上、続かない。
「僕は、これで二度目。前に来た時は真夜中だった」
黒鶫は黙っていた。
僕は、区画区分のために置かれていただろうブロックの上に腰を下ろし、手に持っていた果実をもうひと口齧りとる。
黒鶫が、また、僕を見ているのが分かった。軽く咀嚼して、飲み込む。
「明るいと、全然違うね」
そう言って、もうひと口齧る。咀嚼する。飲み込む。
黒鶫は、それを黙って見ていた。
「また、ここに来てもいい?」
「……別に。好きにしたらいいんじゃない」
黒鶫は、少しの沈黙の後にそう言って、小さく息を吐いた。空気が緩んだのを感じる。
僕は、許されたと思った。
黒鶫は、少し離れた蔦の絡まるベンチに座り、黙って僕を見ている。それ以上は近づいてこなかった。
僕は、その距離がそんなに嫌ではなかった。
影が、だんだんと濃くなっていく。
夜の気配がすぐ側まで近づいてきているのが分かった。
戻ると、部屋の空気は出る前と何も変わらなかった。ベッドに横になると、反対側のマットレスが微かに沈んでいるのを見つける。
それだけで、今日はもう十分だと思えた。




