4章-92.熱を増していくグレンの恋慕、エリオスとの約束
朝、私が自室で身支度をきれいに整え終えた、まさにそのタイミングだった。
コンコンと扉からノックの音が響く。
「グレンだ。少しいいか?」
「グレン……もちろんよ」
私は嬉しくなって扉へと駆け寄り、ゆっくりとそれを開いた。
目の前に立つ彼は、昨日身につけていたものとは意匠の異なる、一段と洗練された格式高い礼装を着こなしている。
「今日も王宮へ行くの?」
「ああ。だが、その前に……ルナリア、君に会いたかったんだ」
そう愛おしそうに呟くと同時に、彼は私の返事を待つこともなく、私をその大きな腕で優しく抱擁した。
「……! グ、グレン……誰かに見られるかもしれないわ……!」
「私は一向にかまわない。すべてを君に伝えるために……感情を抑えるのはやめることにしたんだ」
グレンは私をしっかりと抱きしめたまま、そっと私の頬に温かい唇を寄せた。
「……!」
「今日の王宮での会談には……おそらく、セフィラも同席しているだろう。だが、どうか安心してほしい。私の目にはルナリア、君しか映っていない」
グレンは私の頬からそっと顔を離すと、これ以上ないくらい優しい微笑みを浮かべた。
その眼差しに宿る熱量に、私の胸は甘く狂おしく締め付けられる。
「では、行ってくるよ」
「う、うん……気を付けてね……」
彼の背中が廊下の奥へと消えていくのを見送った瞬間、私は一気に緊張が解けて、へなへなとその場に座り込んでしまった。
(な、なんだか今日のグレン、いつも以上に甘さが増している気がする……っ。こんなの、毎朝されたら心臓がもたないわ……!)
私は自分の顔が耳まで真っ赤に染まっているのを自覚して、両手で顔を覆い隠した。
「あ、ママ! 今日はお屋敷でお留守番だって! 一緒に遊ぼう! ……あれ、どうしたの?」
そこへ、パタパタと足音を響かせながらエリオスが部屋へとやってきた。
私の様子がいつもと違うことに気づいたのか、小さな首をかしげている。
「い、いえ……何でもないわよ。そうね、今日は一緒にたくさん遊びましょう……」
私は動揺を必死に隠しながら、無理やり笑顔を作って立ち上がった。
純粋なエリオスは、まだ顔の赤みが引かない私の様子を不思議そうにじっと見つめているのだった。
「エリオスは何がしたい? 絵本を読んであげましょうか?」
「絵本! 読みたい! その後はね、甘いお菓子を食べて……ごはんもいっぱい食べるの!」
「ふふ、そうね。いっぱい楽しみましょうね」
私はエリオスを伴って、自室の中へと入った。まだ読んでいない本を探して本棚へと手を伸ばす。
「私の部屋で読んでいない絵本は……これね」
私が手に取ったのは、かつて世界に災いをもたらした魔女を、聖女と勇者たちが力を合わせて打ち倒すという、王道ながらも少し古びた絵本だった。
「昔むかし、あるところに人々に災厄をもたらす闇の魔女がいました。魔女は作物を荒らし、たくさんの人の幸せをおびやかす悪い存在。それに、聖女と勇者達が協力して立ち向かうことにしました」
「聖女……お姉ちゃんのこと?」
「うーん。同じだけど違うのよ。これは昔いた偉大な聖女のお話なの」
そこまで朗読して、私は次のページをめくる手がぴたりと止まってしまった。
(これ……まるで、今の私たちの状況みたい……)
作中で世界を滅ぼそうとする悪の象徴、災厄の魔女が私。
そして、彼女に立ち向かう聖女が、物語の主人公であるセフィラ。
彼女を支える勇者たちは、グレンやアル、エリオス、ヴィル達のこと。
あまりにも出来すぎた絵本の筋書きが、これからの未来を予言しているかのように思えて、胸に冷たいものが走る。
「ママ?」
エリオスの屈託のない声に、私ははっと我に返った。
「ご、ごめんなさい……。この絵本はまた今度にしましょうか……」
私は逃げるようにして絵本をパタンと閉じた。
自分でも情けないほど、指先が震えてしまっている。
「ママ、大丈夫……?」
私のただならぬ様子を察したのか、エリオスが私の震える手に、自身の小さな手をそっと重ねてくれた。
「ごめんなさいね、心配をかけちゃって……」
「平気だよ! ママ、お水飲む? 僕にできることあったら何でも言ってね! 何でも望みを叶えてあげる!」
エリオスはにこっと愛らしく微笑む。
その小さな顔立ちには、この半年の急成長のせいか、どこか青年のような頼もしさが混ざり始めていた。
「私の望み……」
私の望みはひとつ。
みんなの命を助けることだ。
「ねえ、エリオスはとても強いのよね?」
「古代魔法いっぱい使えるもん! それでママを助けてあげるよ!」
確かにエリオスの知識と、古代魔法はさまざまな場面で頼りになる。
港町では転移魔法、それにヴィルを吹き飛ばした攻撃力ももっていたはずだ。
「そう……それじゃ……もし、私がみんなを傷つけようとしたら……」
彼の強さと、自分への無条件の愛に甘えてしまったのだろうか。
私は抑えきれなくなった心の弱さから、彼に恐ろしい言葉を漏らしてしまった。
「私を殺してくれる?」
エリオスは私の突飛な言葉に、驚いたように目を瞬かせた。
「あ……」
幼い子供に向かってなんて呪いのような言葉を吐いてしまったのかと、我に返って大慌てで首を振る。
「私ってば、なんてことを言っているのかしら……ごめんなさいね、エリオス。今のは聞かなかったことにして……」
「——いいよ。ママの望みなら、どんなことだってしてあげる」
エリオスは、私の手を包む小さな手にぎゅっと力を込めると、いつものように無邪気に微笑んだ。
「ママがみんなを傷つけようとしたら……僕が殺してあげるね」
「エリ、オス……」
その純粋すぎる瞳の奥に宿る、よどみのない決意。
彼の手のあたたかなぬくもりを肌で感じながら、私は取り返しのつかない最悪の願いを託してしまったことを、今更ながらに後悔せずにはいられなかった。
「……エリオス、今のはやっぱりなしよ。……そうだ、食堂へお菓子を食べに行きましょう?」
私はこの場に漂う緊張感を振り払うようにして話を逸らし、彼の手を引いて立ち上がった。
エリオスは先ほどの約束を忘れたかのように、顔を輝かせてくれる。
その顔に安堵して、私は息を吐くのだった。




