3章-69.最後の攻略対象、たどり着く光の腕の中
ヴィルの冷たい吐息が、すぐ間近にまで感じられる。
恐怖で心臓が押し潰されそうになった、まさにその時。
「ママ——!」
夜闇を切り裂くような叫びとともに、目を焼くような銀閃が私の目の前を駆け抜けた。
凄まじい風圧と衝撃が木製の甲板を激しく叩き、私を押さえつけていたヴィルの身体が弾かれたように離れていく。
「ママ! どこにいってたの! パパもおじちゃんも心配してるよ!」
「エ、エリオス……!?」
自由になった身体を慌てて起こすと、そこには小さな肩で私を庇うように立ち塞がる、銀髪の幼子の姿があった。
「ごめんなさい……っ。グレンとアルは? 二人は今どこにいるの?」
「うーん……あっち? あ、そっちかも?」
エリオスは屋敷のある高台や砂浜の方向を、小さな指で迷うように指ししめす。
「待って、エリオス……あなた、まさか一人でここまで来たの……!?」
「うん! ママがここにいるのが見えたから飛んできた!」
「そんな……危険よ! 今すぐに一緒に戻りましょう!」
私の心臓は凍りついた。
今すぐここを離れなければ、敵の望む結末へ向かうことになる。
エリオスを抱いて立ち上がると、銀色の残光と煙の向こうから、ゆらりと黒い影が立ち上がった。
「ルナリア。そいつは、俺たちの組織の第一標的でもある。……危ないから、そこから離れてくれ」
煙を割って現れたヴィルの声は、冷たい殺気に満ちていた。
「そんなことできるわけがな——」
言い返そうとした私は、ヴィルの素顔を正面から見つめた瞬間、言葉を失って絶句した。
仮面が外れ、月光の元にさらされた彼の顔。
妖しく艶やかな紫の髪、そして、世界のすべての闇を吸い取ったかのような黒い瞳。
(あ、あの顔は……まさか……っ)
脳裏に、前世の記憶が蘇る。
主人公やグレンたちと並んで堂々と描かれていた主要キャラクターの一人。
最後の攻略キャラクターが、今まさに私の目の前に立っていた。
「う、うそ……」
そんなはずはない、と心の中で激しい拒絶が渦巻く。
こんなにも危険な人物が、まさか攻略対象のひとりだとは思えない。
しかし、彼の容姿が、佇まいが、その疑念を打ち崩していく。
「ママ?」
私のただならぬ様子に気づいたエリオスが、不安そうに私の袖を引っ張った。
その小さな手の温もりに、私は衝撃を頭の隅へ追いやり我に返る。
ゲームのシナリオがどう進行しているか、今は関係ない。
とにかく、私の目の前にいるエリオスの安全が最優先だ。
「エリオス、逃げましょう。……今、転移魔法は使える?」
「使えるよ!」
「お願い、ここからすぐに離れましょう! できれば安全なところに……!」
「わかった!」
エリオスが詠唱を始めるのと、ヴィルが地面を蹴って飛び出してきたのは、完全に同時だった。
ヴィルの手が私の髪に触れる、そのわずか一瞬の手前。
エリオスの転移魔法が発動し、私たちの視界はすべてを洗い流すような真っ白な光の渦へと包み込まれた。
光が弾け、目を開ける。
そこは潮騒の音がすぐそばに響く、街外れの砂浜だった。
柔らかな砂の感触が靴の裏から伝わり、あの船から無事に脱出できたのだと実感する。
「エリオス、大丈夫!?」
「大丈夫だよ! ママのいうとおり、安全なところに飛んだよ!」
私はすぐにエリオスの小さな身体を抱き寄せ、どこにも傷がないか確かめた。
彼は元気いっぱいに声を返し、私の心配を吹き飛ばすように小さく胸を張ってみせる。
「あの船から、どのくらい離れられたのかしら……。どこにしろ、一刻も早くみんなの待つ屋敷を目指しましょう。高台の方角だから……あっちよね」
夜闇の中にぼんやりと浮かぶ高台の影を見上げ、自分達の目的地を定める。
エリオスの手を引いて歩き出そうとすると、彼が私の服のすそをぐいと引っ張った。
「あ、ママまって!」
「どうしたの? エリオス」
「安全なのあっち!」
エリオスが小さな人差し指で、暗い砂浜の先を指差す。
その視線の先を見つめた瞬間、私の目に明るい赤髪が映し出される。
「ルナリア! エリオス!」
「グレン……!」
夜の静寂を切り裂くようにして、私達の名前を呼ぶ声が響く。
砂を激しく蹴り上げ、こちらに向かって全力で駆けてくるのは、間違いなくグレンだった。
グレンは私達の元へ辿り着くなり、強い力で私とエリオスの体を一緒に抱きしめた。
「良かった……本当に、無事で良かった……!」
彼の大きな体が、激しく波打つように上下している。
耳元に吹き付けられる熱い吐息。
早打つ心音。
そして手の細かな震えから、彼がどれほど必死に探していたのかが、痛いほど伝わってきた。
グレンの温もりに包まれて、私の目頭が熱くなる。
「グレン……。どうしてここに……私がいなくなったことに、気づいてくれたの……?」
「部屋の窓を見ていたエリオスが、急に『ママがいなくなった』と言って屋敷を飛び出したからな。アルと二人で手分けして後を追ったんだ。……だが、まさか君が誘拐されるなんて……。本当に、すまない……!」
グレンは私を抱きしめる腕にいっそう力を込め、自身を激しく責めるように声を絞り出した。
「ううん、私の方こそ心配かけてごめんなさい……」
彼の優しさが胸に、心に染みて、私は彼の背中にそっと手を回した。




