3章-67.絡みつく白い鎖、ヴィルとの出会い
規則正しく響く波の音。
それが鼓膜を絶え間なく揺さぶる。
「う……」
頭の奥を惑わすような不快感のなか、私は気だるい体を寝台からゆっくりと起こした。
潮の匂い、湿気を含んだ古い木材の匂いが複雑に脳内に入り乱れる。
「こ、ここは……」
かすむ視界を無理やり動かし、ぐるりと部屋の周囲に視線を巡らせる。
そこは、古びた木の板が張り巡らされた、薄暗く狭い部屋だった。
床の奥底から伝わってくる、上下へかすかに揺れている独特な感覚。
それが、自分が今どこか別の建物の部屋ではなく、船の中に囚われているのだと理解させた。
「なんで……私、こんな場所にいるの……?」
混濁する意識の糸を必死に手繰り寄せ、ここに来る直前の記憶を思い出す。
夜の庭園、心地よい潮風、背筋を走った黒い殺気、そして私を後ろから組み伏せた紫色の髪の男と、あの甘ったるい花の匂い。
「私、あの暗殺者に誘拐された……!?」
最悪の現実に行き当たり、慌ててその場から身を起こそうとする。
だが、どういうわけか体が鉛のように重く、思うように力が入らない。
「う……」
ふと右手首に強烈な違和感を覚えて視線を落とす。
そこには見慣れない不気味な白い鎖が肌に食い込むように巻き付けられていた。
「なに……これ……!」
その鎖を外そうと触れると、指先から全身の魔力が吸い取られるような感覚が走り、凄まじい脱力感が私を襲った。
「はぁ……はぁ……」
息を荒らげながらベッドへ崩れ落ちる。
激しく体力を奪われながらも、この鎖から伝わってくる魔力に、私は覚えがあった。
「グレンの魔力に似ている……」
かつて初等部の訓練の最中、暴走しかけた私の闇の魔力を優しく包み込んでおさえてくれた、あのグレンの光の魔力。
だが、この鎖から流れてくるものは、似ているようで全く違う。
グレンが持つあの陽だまりのような温かさを抜き去ったかのような、氷のような白い魔力だった。
「……気づいたか」
その時、静寂に包まれていた部屋の扉が、ギィと音を立ててゆっくりと内側へと開かれた。
部屋の入り口に現れたのは、あの夜闇と一体化するような黒いローブに身を包んだ男。
その顔には無機質な仮面がはめられており、妖しく艶やかな紫色の髪が静かに揺れている。
「……!」
私は恐怖に喉を詰まらせ、言葉にならない悲鳴を飲み込んで寝台の上で身を固くした。
身構える私に対し、仮面の男は一歩ずつ距離を詰める。
「こ、こないで……!」
私は寝台の上で後ずさりしながら、懸命に思考を巡らせる。
仮面の男達の目的は、一国の命運を握る竜人の王子・エリオスのはずだ。
それなのに、なぜか私はその場で殺されることもなく、こうして生きたまま船へと連れ去られている。
「私を……人質にするつもり……!? エリオスやグレン達を脅し、おびき寄せるための道具として……!」
「……違う」
男は私の張り詰めた声をさえぎるように、ゆっくりと首を振った。
「じゃあ、なんで私を……」
「迎えにきた」
「え……?」
男の意図の読めない言葉に、私の頭の中はさらなる混乱と困惑に支配される。
冷や汗をかきながら固まる私を見つめ、仮面の男はほんの少しだけ声音を和らげるようにして、ぽつりと呟いた。
「……名前」
「な、何……?」
「名前を聞きたい。君の、呼び名を」
意図の読めない不可解な質問に、逃げ出したい恐怖に駆られる。
けれど、手首の鎖のせいで魔力も体力も奪われた今の私には、彼の問いを拒む術などなかった。
「……ルナリア……」
「ルナ、リア……」
男は私の名を確かめるように、口の中で何度もつぶやいた。
恐怖を必死にこらえながら、男の正体を暴くべく問いかける。
「あなたは……一体誰なの……? どうして私にそんなに執着するの……?」
「俺の名前はヴィル。ルナリアと同じ……闇属性持ちだ」
ヴィルと名乗った男の告白に、私は息を呑んだ。
「私と同じ……」
この世界において、闇属性は教本もないほどに希少だ。
そして災厄をもたらすとして忌み嫌われている。
「ずっと探していた……自分と同じほど深く、純粋な闇の魔力をもつ、対等な存在を……」
仮面の奥の瞳が、歓喜の光を帯びて揺らめく。
ヴィルと名乗った男は、恐怖に震える私の前へ、静かにその場に片膝をついた。
「ヴィル……さん」
目の前でひざまずく暗殺者の異様な雰囲気に圧倒されながらも、私はその名を呼んだ。
「呼び捨てでいい」
ヴィルは仮面の奥からじっと私を見つめたまま、短く告げた。
私は手首の鎖の重みに耐えながらも、必死に彼へと言葉を投げかける。
「ヴィル、どうして私をこんなところに連れてきたの? お願い、ここから出して……! 私には、戻らなきゃいけない場所があるの……!」
暗殺者達からエリオスを守らなければならない。
グレン達のところへ帰らなければいけない。
声が震えるほど訴えかけたが、ヴィルは一切動じることはなかった。
「それはできない。ルナリア、君はもう……俺のものだ」
「何を……。そんな勝手なこと言わないで!」
私の声など聞こえていないように、ヴィルはゆっくりと細い指先を伸ばす。
私の冷え切った頬を、そっと愛おしそうに撫で上げた。
右手首の鎖のせいで抵抗する力も湧かず、触れられた皮膚から気味の悪い寒気が全身へ伝わっていく。
「ずっと孤独だった……」
私の頬に触れたまま、ヴィルの唇からぽつりと独白が漏れ出た。
「この世界で、闇属性というだけで誰もが俺を化け物のように迫害し、忌み嫌った。血のつながりもない育ての親にすら、ただの便利な暗殺の道具として都合よく利用され……俺には、生まれ落ちてから今日に至るまで、どこにも居場所なんてなかった」
仮面の奥から伝わってくるのは、世界に対する果てのない絶望と、あまりにも深い憎悪の気配だった。
同じ闇属性を持つ悪役令嬢として、その言葉の重みが突き刺さってくる。
「だから……俺と同じほど強い闇の魔力をもつ人をずっと探していた。君のような存在なら、きっと、俺のこの苦しみや気持ちを分かってくれるはずだからと……」
頬を撫でるヴィルの指先に、微かな震えが混ざる。
それは、ついに見つけた唯一無二の光を前にした、救いを求める祈りのようだった。




