3章-66.束の間の安らぎ、夜に来た手荒な迎え
前世の記憶が、不思議とどこかすっきりとして胸に落ちてくる。
仮眠から目を覚ますと、夕暮れが薄暗い室内を茜色に染め上げていた。
「……よし!」
私はベッドの上で、自らの両頬をパンと叩いた。
その時、部屋の向こうから、トントンと弾むようなノックの音が響いた。
「ママ! もうごはんだって! いっしょにいこう!」
「あ、うん! 今いくわ……。ちょっと待ってね」
私は急いでベッドから起き上がり、乱れた衣服を素早く整えながら、急ぎ足で扉を開ける。
扉を開けた瞬間、視界へと勢いよく飛び込んできたのは、まばゆい銀色の小さな影だった。
エリオスは待ってましたと言わんばかりに、私の足元へ嬉しそうに飛び込んでくる。
「ママ! おかしとごはん! たべよ!」
「ふふ、エリオス。ごめんなさいね、私が寝すぎてしまったせいだけれど……お菓子を食べるのはまた明日にしましょう? 今食べたら、せっかくの美味しいごはんが入らなくなってしまうわ」
「ええー……」
私の言葉に、エリオスはたちまち眉を下げ、表情を分かりやすくしぼませてしまった。
そのあからさまな落胆ぶりがたまらなく愛おしくて、自然と私の口元がほころぶ。
「そうだな、ルナリアの言う通りだ。エリオス、お菓子はまた明日にしよう」
エリオスの後ろに立っていたグレンが、夕暮れの光を浴びながら優しく声を添えてくれた。
彼の整った美しい顔を、私は吸い込まれるようにじっと見つめてしまう。
「……ん? どうしたんだ、ルナリア。私の顔に、何か付いているか?」
「ううん、なんでもないわ。早く食堂に行きましょう」
私は慌てて思考を切り替え、笑顔の裏へ決意を完璧に覆い隠す。
食堂での慌ただしくもどこか温かい夕食を終えると、アルが静かに口を開いた。
「とりあえず、屋敷の周囲を警戒している騎士たちからの報告だと、今日のところは怪しい奴らの目撃情報はなかったそうだよ。まだ油断はできないだろうけどね」
「良かった……。このまま何事もなく、一週間が無事に過ぎていけばいいわね」
私は胸をなでおろし、安堵の息を漏らした。
けれど、アルは油断なく青い瞳を細める。
「……まあ、そう簡単にはいかないだろうけどね。とにかくエリオスから目を離さなければ、防衛線の内側なら安全だし、大丈夫なんじゃない? エリオスも、絶対にパパとママから離れるなよ」
「うん! 僕、パパとママとずっといっしょにいる! ずーっといっしょ!」
エリオスは両手を大きく広げて、私たちの顔を見上げながら元気いっぱいに宣言した。
「はは、ありがとうエリオス。……それでは、そろそろ夜も更けてきたし、今日はもう寝る準備をするか。……ところで、この屋敷での部屋割りはどうなっているんだ?」
グレンがエリオスの頭を愛おしそうに撫でながら、向かいのアルに視線を向けた。
「今日はグレンとエリオスが同室かな。……さすがに公爵様がすぐ近くにいる手前、前の宿のときみたいにルナリアも一緒の部屋に、ってわけにはいかないでしょ?」
「そ、そうだな……。それは……確かにその通りだ」
公爵の存在を突きつけられ、グレンは途端に視線をさまよわせた。
その分かりやすすぎる動揺を見逃すほど、目の前のアルは優しくない。
「なに? グレン、もしかしてルナリアと別々の部屋で残念だった? ……もしかして、一緒の部屋だったとき、何か……よからぬことしちゃったとか?」
「な、何もない! そんな不埒なことをルナリアにするわけがないだろう! ほら、エリオス、夜更かしは厳禁だ、部屋に行こう!」
アルの意地の悪いからかいに限界を迎えたのか、グレンは顔を赤くして、エリオスの小さな手を引いて逃げるように立ち上がった。
けれど、手を引かれたエリオスは、寂しそうに私の服を引っ張る。
「ママは……? ママも一緒に寝たい」
「エリオス。その……私のためにも……頼むから今は我慢してくれ……」
グレンは消え入りそうな声で、懇願するようにエリオスに言い聞かせた。
「ふふ、ごめんね、エリオス。また明日、朝になったらいっぱいお話ししましょうね」
私はエリオスの潤んだ金色の瞳に後ろ髪を引かれながらも、二人を見送って食堂を後にした。
「と言っても……さっき夕方まで寝てしまったから、全然眠くないわ……」
頭が冴え渡ってしまって、すぐにベッドに入る気になれなかった。
私は少しだけ夜風にあたろうと、屋敷の裏手にある静かな庭園へと足を向けることにした。
高台にある庭には木々に囲まれた小さなベンチがあり、心地よい潮の香りを含んだ風が葉を揺らしている。
遠くから聞こえるかすかな波の音が、心を穏やかに解きほぐしていくようだった。
「今日は、これからのこと……色々と一人で考え過ぎちゃったな……」
一人でベンチに腰掛け、夜空に浮かぶ月を見上げる。
昼間からずっと胸の中に引っかかっていた、未だに出ていない一つの答えが脳裏を過った。
「グレンとの婚約……」
これも、世界の強制力がもたらす全滅エンドに深く関わっているのだろうか。
もし、これから先私がどんな選択をしようとも、結末が変わらないのだとしたら。
「最後に……ほんの少しの間だけなら、わがままに彼の婚約者として幸せになっても、いいのかな……」
膝の上で自分の小さな手のひらを見つめながら、私は目の前に迫る未来の選択に心を激しく揺らされていた。
——その時だった。
ドクン、と心臓が跳ね上がる。
背筋にぞっとするような冷たく禍々しい黒い魔力が走った。
「……!?」
平和な夜を切り裂く異様な空気に、私はすぐさまベンチから立ち上がる。
この不気味な闇の気配には覚えがある。
「暗殺者……!? 屋敷の防衛線が突破されたの!? 早くみんなに、グレンたちに知らせないと……!」
最悪の事態が頭を過り、慌てて屋敷の中へと駆け出そうとした。
だが、その一歩を踏み出すよりも早く、背後から音もなく迫った腕によって私の身体が拘束される。
叫び声をあげるよりも前に、口を強引に塞がれた。
「ん——!?」
息が詰まり、必死に身をよじるが一歩も動けない。
自分を背後からガッチリと縛り付けている存在を、涙目のまま必死に見上げる。
そこにあったのは、月光を吸い取る黒いローブと、見覚えのある仮面。
そしてわずかに覗いた、妖しく揺らめく紫色の髪。
「……迎えにきた。……行こう……」
男の唇から、焦がれたような吐息と声が漏れ出る。
男は私を押さえつけたまま、もう一方の手で懐から小さなガラスの瓶を取り出した。
その栓が抜かれ、鼻腔を突くような、ひどく甘ったるく濃厚な花の匂い。
それが周囲に漂ったかと思ったときには、私の意識は急速に混濁し、足元からぐらりと崩れた。




