1章-6. 彼が恋に落ちた最初のきっかけ、アルの問いかけ
夕暮れに照らされた彼の手のひら。
そこには、およそ大貴族の御曹司には似つかわしくない、無数の微細な傷。
(……これって……)
武器を幾度となく握り締め、手の皮を擦り切らせながら修練を重ねてきた証。
痛みに耐えてきたに違いない、努力の痕跡だ。
「グレンも……たくさん、訓練をしているのね」
ぽつりとこぼれ落ちた私の言葉。
それに、グレンは意外そうに自分の手のひらを見つめる。
「ああ……これか……」
この世界において、彼は誰もが羨む圧倒的な神童だ。
けれど、苦労せずにその座にいるわけではないことを、彼の手が物語っていた。
「私のこんな訓練なんて、君が日々耐えてきた苦労や、今日見せたあの強い決意に比べれば……気にするほどのことじゃないさ」
「そんなこと……っ」
「私の努力など、求められる水準にはまだまだ足りないくらいだよ。……現に、同い年であるはずのアルは私よりも遥かに強く、精神的にもずっと大人びている」
「それは、アルが特殊なんだと思うわ……。あんなに落ち着いていて、技量のある子どもなんて見たことないもの」
「そうかもしれない。だが彼は時折、父上から直々に実務の仕事を任せられていることもあるくらいに、周囲から信頼されている。……正直、悔しい」
私は一瞬言葉に詰まり、それから必死に言葉を探した。
「グレンとアルは違う人間よ。他の人と比べる必要なんてない」
「それは、そうなんだけれども……ね」
私の必死な言葉に、グレンは困ったように眉を下げて微笑んだ。
「——守られているだけなのは、嫌なんだ」
その声は、私のものとは比べものにならないほどの決意に満ちていた。
「私はフォーサイス公爵家の人間だ。いつか、この国を背負う人々を守る盾にならなければいけない。それなのに……周りの力に守られてばかりいる。そんな自分に、私はずっと腹が立っていたんだ」
グレンはぎゅっと、傷だらけの手を握りしめた。
「私はアル以上に強くなりたい。彼に守られる主君ではなく、お互いに背中を預け合えるくらいの存在になりたいんだ」
ドクン、と胸の奥が跳ねる。
(ああ、やっぱり、この人は……)
ゲームのキャラクターという、画面の向こうの存在ではない。
熱と血が通った一人の人間。
私が絶対に穢してはいけない、尊い存在なのだ。
「グレンなら、きっとなれるわ」
少しだけためらいながらも、私は彼の手をそっと両手で包み込んでいた。
「あなたなら、アルと並んで立てる日がくる。私も、『闇』に絶対に負けないって約束する。あなたのためにも……私、がんばるわ」
「ルナリア……」
私の突然の宣言に、グレンは驚いたようにその緑の瞳を大きく揺らした。
グレンの張り詰めていた肩の力が、ふっと抜けるのが分かった。
「君は……強いな、ルナリア。……本当にあの日、君の異変に気づけてよかった」
「グレン……?」
彼の言葉の響きに、どこか特別な意味が含まれているような気がして、私は思わず彼の顔を見上げた。
「あ、いや……なんでもないんだ。すまない、少し変なことを言った」
私の視線に気づいたグレンは、ハッと我に返ったように頬を微かに染め、慌てて視線を斜め下へと逸らした。
彼は照れ隠しをするように、もう一度私の目を見つめ直すと、力強くうなずいた。
「……ルナリア。これから、ともに頑張っていこう。君の隣には、いつだって私がいる」
「うん……。ありがとう、グレン」
訓練場には、もう先ほどの重苦しい闇の気配は残っていなかった。
窓から差し込む夕日が、私達の影を床の上に長く、ひとつに重ね合わせるようにして伸ばしている。
◇
その次の日。
私の滞在する医務室で、またしても午後の授業を堂々と抜け出したアルは、私の家庭教師をしてくれていた。
「——なるほど、この術式の展開はそう考えるのね。学園の先生の授業より、何倍も分かりやすい……」
「でしょ? 学校の先生って型にはまった教え方しかしないからね。要点さえ掴めば、座学なんていくらでもショートカットできるんだよ」
彼の解説は驚くほど明瞭だ。
私がずっと引っかかっていた難所を、まるでパズルを解くようにスラスラと導いてくれる。
「……そういえばさ、ルナリア嬢。君ってぶっちゃけ、グレンのことどう思ってるの?」




