1章-5.放課後の訓練、グレンに初めて抱きしめられた日
その日のすべての授業が終わった後。
特別に貸し切られた屋内訓練場は、私達の足音だけ響く。
「というわけで、早速その『闇属性魔法』の基礎訓練から始めてみようか」
訓練場の中央へと歩み出たアルが、いつものような軽い調子で両手を叩いた。
事の経緯を事前にすべて聞かされていたグレンは、ひどく心配そうな面持ちでアルと私を交互に見つめている。
「アル、本当に大丈夫なのか? 闇属性の魔法なんて、使い手が少なすぎて学園の教本にすらまともな記述がないんだぞ」
「まあ、そうだね」
「それほど未知で、かつ強力な力だからこそ……ルナリアの身体に、過度な負担がかかるんじゃないか?」
グレンの言葉には、純粋な気遣いと、私の身体をいたわる優しさが満ちていた。
「だからこそ、今のうちにやるんだよ、グレン」
心配性の主人に対し、アルは合理的な声音で淡々と反論した。
「教本がないなら、手探りで感覚をつかむしかない。それに、今の彼女は自分の内側には、とんでもない大きさの爆弾を抱えている状態なんだよ」
「それは、確かに……悔しいが、異論はない」
「アルの言う通りよ……これから先、何かの拍子で力が暴走して制御できなくなる方が……よっぽど危険だと思うの。私は、この力を制御したい。だから、グレン、見守っていて」
グレンは顔をしかめながらも、納得せざるを得なかったようだ。
「ルナリア、君は……本当にそれでいいんだな? 決して、無理はしていないか?」
「うん……。心配してくれてありがとう、グレン」
私は小さく息を吸い込み、胸の真ん中で燃えるような覚悟を灯した。
(怖がっている場合じゃない。私がこの『闇』を飼い慣らすことができなければ、いつか取り返しのつかないことになるかもしれない)
彼らの血塗られた未来の幻影を見てしまった。
今の私は、もうただ守られるだけの存在でいるつもりはない。
「私は自分のこの力について、もっと深く知りたい。……そして絶対にコントロールできるようになりたい。アル、よろしくね」
大切な人達を守るために、まずは私自身が強くならなければならない。
決意を胸に、私は訓練場の中央に佇むアルの姿を真っ直ぐに見据えた。
「良い覚悟だね。……今の君の闇属性は、扉の先に眠っているのと同じような状態なんだ。それを今から、ほんの少しだけノックして開けてあげる」
「扉を開ける……?」
ごくり、と喉が鳴る。
聞き慣れない術式の手順に、私の緊張は最高潮に達していた。
「そう、まずはちょっとだけね。まずは君の身体に、眠っていた魔力がカチッと流れる感覚をつかんでいこうか」
「……わかったわ」
「まあまあ、そんなに固くならないで。大丈夫だからさ。ほら、この前みたいに手を前に出して。そこから魔力を流すよ」
うながされるまま、私は小さく震える両手をアルの前に差し出した。
アルは私の怯えを受け止めるように、落ち着きのある柔らかな仕草で手を握り返してくる。
「いくよ。……今度はこの前より強めに流すから、絶対に驚かないでね」
その言葉の直後だった。
ドクン、と心臓を直接むき出しの氷で打たれたような、凄まじい衝撃が全身を突き抜けた。
「う……っ、あ……!」
身体の奥底、魂のさらに深い場所で、どす黒い何かが一気に沸き立つのが分かった。
まるで底なしの沼に足を取られたかのように、視界が黒に染まっていく。
(だめ……っ、意識が、持っていかれる……!)
「——ちょっとまずいかな。想像以上の出力だ」
私の異変を察知したアルの声が遠くで聞こえた。
「グレン、出番だよ! 早く!」
「わかっている……!」
その直後、視界を覆いつくしていた暗黒を引き裂くように、力強い腕が私を包み込む。
グレンが、私の身体を抱きしめてくれたのだ。
「ルナリア……!」
耳元で響く、必死な彼の声。
同時に、グレンの身体から伝わる温かさ。
そして、清らかな光の波動が、制服越しに直接流れ込んできた。
「あ……」
すると、意識を貪ろうとしていた黒の波動が、嘘のように一気におさまっていく。
血液がじんわりと熱を取り戻し、目の前を覆っていた黒い霧が散っていく。
「はぁ、はぁっ……、く……っ」
グレンの胸の中で、私は激しく呼吸を荒げながら、自分の意識が確かに現実へと戻ってきたことを自覚した。
まだドクドクと早く脈打つ心臓の音。
「アル……! 危険はないと言っていたのは嘘だったのか!?」
私を抱きしめたまま、グレンが怒気を含んだ声で叫んだ。
主君でもあるグレンから強い怒りを向けられても、アルは顔色ひとつ変えなかった。
「ごめんごめん、内包していた闇の魔力が俺の予想を遥かに超えていたんだ。……まあでも、目論見通り、君の『光属性』の魔力で綺麗に抑えられたじゃないか」
「事前に話を聞いていたが……もし抑えられなかったらどうするつもりだったんだ!」
「俺だって一歩間違えれば大惨事になる実験なんてしないよ。色々な伝承から推測して、ルナリア嬢のストッパーになれるのは、グレンの光の魔力だけだって確信があったからさ」
「まったく……」
グレンは、まだ納得がいかないように言葉を続けようとした。
腕の中の私が小さく身じろぎしたのに気づき、ハッと表情を和らげた。
「ルナリア、体は大丈夫か? どこか痛むところはないかい?」
「ん……っ、う、うん……。だ、大丈夫、だと思う……。あの、ただ……っ」
「! どこか怪我でもしたのか!?」
急にくちごもった私を見て、グレンが過保護なまでに顔を近づけてくる。
(違う……そうじゃないの……!)
意識がはっきりした今、至近距離でグレンの腕に抱きしめられているという現状を、ようやく理解してしまった。
彼の胸板から伝わってくる心臓の鼓動。
衣服越しに伝わる体温。
一気に顔が沸騰していくのが分かった。
私は真っ赤になって、消え入りそうな声で白状する。
「あ、あの、その……もう、完全に平気そうなので……だ、抱きしめられたままだと、その、話がしにくくて……」
「…………っ!」
私の恥ずかしそうな指摘を受けて、グレンは自分が何をしているのかをようやく自覚したらしい。
端正な顔を、瞬時に耳の根元まで真っ赤に染め上げる。
瞬時に音が出そうな勢いで、私から飛び退いた。
「す、すまない……っ!」
あわあわと両手を泳がせながら、見たことがないほど動転しているグレン。
公爵家の神童としての大人びた風格は、今や見る影もない。
「初々しいねえ。なんなら、もっと気がすむまでイチャイチャしてくれても良かったのに」
アルが腕を組んだまま、にやにやとした意地の悪い笑みを浮かべてこちらを凝視している。
「ア、アル……ッ! ルナリアに失礼なことを言うんじゃない!」
案の定、グレンが顔を真っ赤にしたまま声を荒らげる。
アルは、主の剣幕を受け流し、ひらりと手を振った。
「はいはい、グレン。まあ冗談はさておき……」
彼は唇の端に浮かべていた笑みをサッと消す。
アルの顔に真剣みを帯びた大人の表情が戻り、彼はじっと私を見つめ直す。
「ルナリア、怖いかもしれないけれど……これから徐々に身体を闇属性の魔力に慣らしていったほうがいいね」
「そう、ね……。これが暴走でもしたら……きっと、恐ろしいことになる。でも、さっきは全然コントロールできなかった……」
「大丈夫、何かあったときはグレンの光が君を止めてくれるから。……どうかな、また明日も訓練、続けられそう?」
「うん……。でも……少し……怖い……」
私は思わず、弱音と一緒に本音をそのまま吐き出してしまった。
意識を呑み込もうとした暗闇を思い出すだけで、指先がまた震えそうになる。
「安心して。君の中の闇の性質を俺もじっくり解析できた。明日はもっと魔力を小出しにして訓練できるよ」
私の不安を見抜いたのだろう。
アルは労わるような、慈愛を込めた優しい眼差しで目を細めた。
「……大丈夫、人間の可能性は無限大だからね。諦めなければ、絶対にいつかコントロールできるようになるさ」
「アル……わかったわ。私、がんばってみる……っ」
ぎゅっと拳を握りしめ、顔を上げてそう告げると、アルは満足そうに小さく頷いた。
その様子を、私と少しだけ距離を置きつつも見守っていたグレンは、私の顔を覗き込んできた。
「ルナリア……。くれぐれも無理だけはしないでくれ。アルは、時々無茶をするから」
「ちょっと、グレン。人聞きが悪いな」
背後からのアルの抗議を無視して、グレンはさらに真摯な声で言葉を重ねた。
「君の身体が何よりも一番大切なんだ。少しでもきつい、苦しいと感じたときは、すぐに休むことを考えてほしい。私はいつだって、君を守るために隣にいるから」
真っ直ぐに紡がれる、あまりにもまぶしい誓い。
私という存在そのものを全肯定し、慈しんでくれる言葉。
(ああ、やっぱり……私はこの人達を守りたい)
私の闇が彼を蝕むというのなら、その闇ごと完璧に支配してみせる。
「ありがとう……」
グレンの優しさに胸を熱くしながら、私は心からの笑みを彼に返した。
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