3章-58.光がもたらす影、エリオスの転移魔法(□)
どこまでも優しく続くかと思われた、その月夜の静寂。
——ガタン!
それは、凄まじい勢いで乱暴に開け放たれた窓の衝撃音によって、無慈悲に引き裂かれた。
「くっ!」
割れたガラスの破片とともに、夜闇のなかから室内に向かって猛然と飛び込んできた不審な影。
それに対してグレンは、まばゆい光を一閃させてその影を窓の外へと力任せに弾き飛ばした。
「……え!?」
「ルナリア! エリオスのそばに!」
グレンの手に、純白の『女神の槍』が顕現する。
彼は私とエリオスを自らの背中で庇うように、一歩前に出て周囲を警戒した。
同時に、廊下側の扉が勢いよく蹴破られる。
入ってきたのは、廊下で見張りをしていたはずのアルだった。
「動きが思ったより早かったね。グレン、大丈夫?」
「ああ、問題ない」
「……外にけっこうな数が潜んでいるね。だけど、この深い夜闇の中なら、俺も本来の力を使いやすい。ここは君に任せていい? ちょっと外の連中を一掃してくるよ」
「わかった。アル、お前も気をつけろ」
「まだ俺の心配をするには早いよ。それじゃ、少しばかりひと暴れしますか」
アルは顔にかけた眼鏡を静かに外しながら、不敵な笑みを浮かべた。
彼はそのまま、開け放たれた窓から迷うことなく夜の底へと飛び出していった。
「うん……パパ、ママ?」
外の激しい物音を察してか、エリオスがまだ眠たげに目を擦りながらベッドの上で起き上がった。
私はその小さな身体へと駆け寄り、強く抱きしめる。
「大丈夫、絶対に私達が守るからね……!」
私の焦燥に満ちた声に、エリオスは何が起きたのか分からない様子できょとんとしたまま、私のネグリジェの胸元を小さく握りしめてきた。
「ルナリア、部屋の隅へ! 窓から一番離れた場所がいい!」
「ええ、わか……っ!?」
グレンの指示に応えようとしたそのとき、私の胸の奥が焼けるように熱くなった。
内なる魔力が不気味にうずく。
——その刹那。
「……!?」
グレンが凄まじい風切り音とともに、振り向きざまに女神の槍を斜め上方へと払った。
物音も、肌を刺すような殺気の気配すらも一切なかった。
ただ、彼の本能的な危機察知能力が、そこに死線が迫っていることを告げたのだろう。
——ガキィンッ!
硬質な音が響く。
いつの間にか室内に侵入していた、不気味な仮面をつけたローブの男が、黒い影をひらめかせながらそこに立っていた。
男はグレンの放った女神の槍の軌道を紙一重でかわすと、速度を上げた踏み込みでグレンの懐へと肉薄しようとする。
「グレン!」
私の悲鳴のような叫びが響くなか、グレンはあえて一歩も引かず、敵を迎え撃つようにさらに槍を払った。
その瞬間、まばゆい白の光と、すべてを呑み込むような黒の魔力が真っ向から激しく交錯した。
「これは……闇の、魔力……!?」
私の胸が、今までにないほど激しく騒ぎ立てる。
この世界において、きわめて希少とされる闇属性。
目の前の暗殺者から放たれる禍々しい魔力は、私の中に眠るものとあまりにも酷似していた。
私の魔力の奥底が、酷い悪寒とともに激しくかき乱されていく。
(怖がってる場合じゃない……!)
得体の知れない闇の魔力に気圧されそうになる心を、私は必死に奮い立たせた。
何か私にできることはないかと必死に思考を巡らせたとき、エリオスが口にしていた助言が脳裏へと蘇った。
『影』だけを意識するんじゃなくて、それを作り出す『光』も意識する
今、この部屋を満たしている光源は二つ。
窓から差し込む月夜の光と、グレンが放つ女神の槍の清廉な白き光。
その二つの光が、仮面の男の足元に色濃く黒い影を落としていた。
影の理を意識すると、私の内に眠る闇の魔力がこれまでにないほど滑らかに指先へと集束していく。
「影よ……!」
私が紡ぐと同時に、床に伸びていた男の影が意志を持ったように男の足元へと強固に絡みついた。
男の影そのものを空間に固定し、その肉体を物理的に縛り付ける。
男の俊敏な動きが、ほんの一瞬だけ停止する。
「今だ——っ!」
私が作り出した一瞬の勝機を、グレンが見逃すはずがなかった。
彼は光を宿した女神の槍を、男の無防備な肉体めがけて渾身の力で振り下ろした。
しかし。
男の手から放たれた漆黒の魔力の障壁が、グレンの必死の一撃を難なく正面から迎撃した。
「ママ……怖い……」
私の腕の中のエリオスが、恐怖に体を小さく震わせながら私にしがみついてくる。
「ルナリア! 部屋の外へ! こいつはかなりの手練れだ……っ」
今の一撃を防がれたグレンが、自身の体勢を即座に立て直しながら叫び声をあげた。
「でも、グレンが……!」
彼一人をこの場に残していくなんてできない。
私がためらうと、顔だけをわずかに振り返らせて私を強く射抜く。
「私は大丈夫だ。だから……早く!」
グレンの命がけの気迫に背中を押される。
私はこれ以上ここに留まるのは足手まといになるだけだと、涙をこらえて決断した。
「ママ、お外行くの?」
「……ええ、今は外に逃げましょう!」
「わかった! それじゃお外に行くね」
エリオスがそう健気にうなずく。
すると私の腕の中にいる小さな彼の唇から、今まで一度も聞いたことがないような、恐ろしく複雑で美しい発音の言葉が漏れ出た。
それは、まるで世界の根源に直接語りかけるかのような、清らかで不可思議な呪文の響き。
「え……!?」
私が目を見開いたときには、眩い銀色の魔法陣が、私たちの足元の床一面に展開していた。
視界が真っ白に染まり、強烈な浮遊感が身体を包み込む。
そう感じたと同時だった。
私達は部屋から一瞬で消失し、冷たい夜風が吹き抜ける宿の外へと転移していたのだった。




