3章-54.魂に残った叡智、影魔法のヒント
部屋の中に、再び扉のノック音が響いた。
「おはよう。もう二人とも起きていたんだね。……と、そのちっこいの」
ひょっこりと顔を出したのは、夜通し出発の手配に走り回ってくれていたはずのアルだった。
疲れを一切見せない飄々とした態度で室内へ入ってきた彼は、私の腕の中にいるエリオスを見て、わずかに瞳を細める。
「アル、この子はエリオス。記憶はなくしてしまったようだが、名前だけは覚えていたようだ。……エリオス、こちらは私の従者のアル。仲良くしてやってくれ」
グレンが間に入って紹介すると、エリオスは私の腕の中から小さな身を乗り出し、アルをじっと見つめた。
そして、小さな人差し指をピシッとアルに向けて元気よく声をあげた。
「アル……おじちゃん!」
「……何で俺だけその呼び名なんだよ。せめてお兄ちゃんって呼びなよ……」
アルは面白くなさそうにため息をつき、私達の方に視線を向ける。
「まあいいや。本邸への連絡も済んだし、あと小一時間もすれば馬車を含めてすべての準備が整うから、いつでも出発できるように各自で身の回りをまとめておいてね」
「わかったわ、色々と手配をありがとう。……それにしても、私の影魔法の特訓ができなかったことだけは残念だわ」
私は自分の足元に頼りなく伸びる影を少しだけ見つめる。
アルは私の肩を、励ますようにぽんと叩いた。
「こればかりはしょうがないよ。公爵邸に戻って安全が確保できたら、そこからいくらでも付き合ってあげるからさ」
「……かげまほー?」
大人の会話をじっと聞いていたエリオスが、その不思議な響きを反芻するようにつぶやいた。
「何でもないわよ、エリオス。これは私個人のちょっとした練習のことで——」
幼い彼に説明しても難しいだろうと思い、私が優しく微笑みながら話をはぐらかそうとした、その時だった。
エリオスは金色の瞳が、大人びたように煌めく。
「影魔法はね、ひかり属性と深い関係があるんだよー。だから『影』の動きを操作するときに、それを世界に作り出している根本の『光』も意識するの!」
それまでの無邪気な子供のものとは明らかに異なる、底知れない知性の光を宿して、あまりにも流暢に言葉を紡ぎ出したのだ。
「……え?」
あまりにも高度な魔法理論に、私の思考が一瞬だけ停止した。
この世界において、闇属性——影魔法は使い手すらほとんど存在しない希少属性だ。
アルですら具体的な上達方法が分からなかったほどの高等技術。
それを、記憶を失って幼児化したはずの彼が、事もなげに言ってのけたのだ。
「エリオス……? 君、その知識はいったいどこで……」
グレンが碧玉の瞳を見開き、エリオスを見つめ続ける。
アルの顔からもいつもの余裕の笑みが消え去り、その場に静寂が降りる。
「? パパ、ママ、どうしたの?」
私とグレンが硬直しているのを見て、エリオスは不思議そうに金色の瞳をぱちくりとさせた。
その佇まいはどこまでも無邪気な幼子のそれだった。
「エリオス、あなたはいったい……」
私が震える声でつぶやくと、横で腕を組んでいたアルが、口元に手を当てて得心のいったように小さく頷いた。
「なるほどねえ。記憶そのものは卵への退化で消えちゃっているけれど、『知識』だけは、そのまま残っているって感じなのかな。エリオスの生前は相当な知識人……もしくは、俺達の想像を超える魔法使いだったのかもね」
「今のこの小さな彼からは全く想像できないけれど……。でも、本当にありがとうエリオス。あなたのアドバイスのおかげで、ずっと一人で悩んでいた影魔法の大きなヒントが得られたわ」
光を意識する。
影にばかり囚われていた私には絶対に辿り着けなかった盲点だ。
その視点を得られただけで、まるで正解を見つけたかのように心地よく魔力がうずき出す。
「ママ、うれしい?」
エリオスは私の顔をじっと覗き込み、期待に満ちた表情を輝かせた。
どうやら、大好きな母親の役に立てたことが、彼にとっては何よりも誇らしくて堪らないらしい。
「ええ、とっても嬉しいわ。エリオスは、こんなに小さいのにとっても賢いのね」
「えへへ!」
私は、腕の中の彼の柔らかい銀髪をふわりと優しく撫でてあげた。
エリオスはくすぐったそうに目を細め、小さな胸をこれでもかと誇らしげに張っている。
「……エリオスの出自や能力については疑問が尽きないけれど、まずは王都へ戻るための準備を始めよう。ここから王都までは、馬車を急がせても丸二日はかかるからね。すぐにでも出発しないと、下手人に先回りをされる危険もある」
「わかったわ。急いで身の回りのものをまとめるわね。……どうか、王都に着くまで何事もないといいけれど……」
私は胸の前にぎゅっと手を当て、窓の外に広がる森の木々を見つめた。
あの美しい湖畔の平穏が、今は嵐の前の静けさのように思えて、嫌な汗が背中を伝う。
「何も起きないのが一番だけどね。ただ、王都へ向かう街道ともなれば当然、周囲の目がある。俺も大っぴらに吸血鬼の力を使いにくいからさ。グレン、万が一のことがあったときは君が頼りだよ」
アルはいつもの調子を装いながらも、その瞳の奥に警戒心を滲ませながらグレンの肩を軽く叩いた。
「ああ、わかっている。吸血鬼の騒動からこの一年、私は力をつけるために鍛錬を重ねてきた。ルナリアも、エリオスも……ここにいる皆は私が必ず守り抜く」
グレンは力強く、優しい響きを乗せて言い切った。
その碧玉の瞳に宿る決意の光は、出会った頃よりも強く輝いている。
「パパ、かっこいー!」
グレンの佇まいに憧れたのか、エリオスが私の腕の中で無邪気にパチパチと小さな手を叩いて歓声をあげた。
思わず私達の顔に、ふっと緊張の緩んだ笑みがこぼれる。
「ありがとう、グレン。……エリオス、私達もパパに負けないようにがんばろうね」
「うん! ママ!」
エリオスの元気な返事を受け止めながら、私は新たな危機に立ち向かう決心をする。
新たな不穏な兆しをすぐそこに感じながら、穏やかだった別荘での空気を後にしたのだった。




