3章-49.影魔法の焦れったい成長、黄昏を引き裂く血の匂い
食事後の少しひんやりとした風が吹き抜ける、黄昏の光の中。
私達は、別荘の裏手に広がる遮るもののない開けた場所に集まってた。
「影を動かしたりするのはできるのだけど、そこから発展させるのが難しくて。吸血鬼との戦いではできた影の固定も、なかなか安定しないの」
私は自分の足元から伸びる黒い影を見つめながら、もどかしさに小さく溜息をついた。
あの決戦から一年間。
必死に鍛錬を続けてきたけれど、影魔法の領域は、まるで深い霧に包まれているかのように一歩が進まない。
「俺も影魔法を使っている奴を、過去に一回見たことがあるだけだからね。これ以上上手くなるための具体的なアプローチを教えるのはさすがに難しいな」
アルは近くの切り株に腰掛け、長い三つ編みを指先で弄びながら苦笑した。
魔法の熟達者の彼ですら、手探り状態のようだ。
「でも、アルでも難しいのなら、いったい誰が教えられるの?」
「うーん。少なくとも、この国にはいないかも。それこそ歴史ある魔法大国とかの上澄みにいる、教科書に載るような伝説級の魔法使いとかじゃない?」
「それは……かなり難しそう……」
世界中を探さなければ見つからないような雲の上の存在を挙げられ、私はがっくりと肩を落とした。
「そこまで上位の魔法使いなんて、基本的には国家お抱えの重要人物だろうからね。まあ、今すぐ強くならなきゃいけない特別な理由もないんだし、ゆったり自分のペースで上達すればいいんじゃない?」
「そう、ね……」
私は曖昧に相槌を打ちながら、自分の手のひらをそっと見つめた。
アルの言う通り、かつての吸血鬼の脅威は去り、今の私たちは平和な日常を謳歌している。
焦る必要なんてどこにもないはずだった。
しかし、私の胸の奥には、言葉にできない微かな焦燥が燻っていた。
高等部入学まで、あと残り一年。
この幸福な平穏がいつまでも続くとは限らないという不安が、どうしても心の片隅にこびりついている。
もし次の全滅エンドフラグが降ってきたとき、大切な人を守るためにも、できることならもっと力を身につけたい。
そんな私の横顔に滲むわずかな陰りを、グレンは見逃さなかった。
「ルナリア。もし、これから先どんな災厄が迫ってこようとも……私が必ず君を守る。だから、そんなに焦らなくていい。君のペースで、一歩ずつ進んでいこう」
グレンが私の隣に寄り添い、私の手へと優しく己の大きな手を重ねてた。
私よりずっと大きくなった彼の手が、驚くほどの安心感を私に与えてくれる。
「そうね……ありがとう、グレン、アル……」
二人の温かい優しさに触れ、私の焦りがふっと融けていく。
紫色の夕闇が世界を静かに包み込んでいく中。
私は一人じゃないのだと、この頼もしい二人を信じて一歩ずつ強くなればいいのだと、改めて胸に刻みこむ。
「それじゃ、とりあえずは地道な反復練習からかな。影を自分の指先の一部みたいに操作する方法を——」
そこまで言いかけたアルが、唐突に言葉を凍り付かせた。
いつもの軽薄な笑みが一瞬で消え去り、別荘の裏手に広がる鬱蒼とした森の暗闇へと視線を向ける。
「アル、どうしたの?」
彼の尋常ではない雰囲気の変貌に、私はただならぬ気配を感じて思わず息を呑んだ。
「……血の匂いがする。それも、かなり濃いな……」
「え!? 誰か怪我でもしているの……?」
この辺り一帯は公爵家の私有地で、部外者は立ち入れないはずだ。
私の頭に最悪の想像がよぎり、思わず声が上ずる。
「なんだろうな、この匂い……。ひどく高潔で澄んでいるけれど……この俺ですら、今までに一度も嗅いだことがない妙な血だ。……とにかく、かなり出血してる」
アルは眉を寄せ、自身の吸血鬼としての感覚を探るようにつぶやく。
「なんだって!? それほどの負傷者が近くにいるのなら探しに行かないと……!」
グレンが碧玉の瞳を光らせ、森の闇に向かって一歩前に踏み出す。
「待った待った。グレン、落ち着きなよ。まだ敵か味方かも、何が潜んでいるかも全く分からないんだ。無闇に飛び込むのは危険すぎる。とりあえず、俺が一人で様子を見に行くから……」
「アル一人で行かせるのも危ないかもしれないだろう! それに誰かが大きな怪我をして、助けを求めてるかもしれない……すぐに行こう!」
「あーもう、分かったってば。……ここにルナリアを一人で残していくのも心配だ。ルナリア、君も一緒に来てくれる?」
アルはやれやれと肩をすくめながらも、憂いた青い瞳をこちらへと向けた。
「もちろんよ!」
私たちは短く視線を交わし合う。
そして黄昏の残光が完全に消え失せようとしている、不気味な静寂に包まれた森の奥へと一斉に駆け出した。




