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2章-44.(番外編)アルの過去、六百年前の追憶④ 変わる関係性、誰も望まない未来

 陽の光すらさえぎる、鬱蒼とした暗い森の奥深く。

 立ちこめる腐臭と湿った空気の中、俺たちは行く手を阻む無数の吸血鬼の群れに完全に包囲されていた。

 赤く飢えた瞳が闇の中から幾重にもきらめき、鋭い牙が迫り来る。


「アル、そっちにいったぞ!」


「わかってるよ、グレイ」


 背後からの警告に、俺は振り返りもせずに短く応じた。

 次の瞬間、赤髪を振り乱したグレイが前に躍り出ると、その手にある白亜の槍を猛然と一閃させた。

 彼が作った空白へ、俺は間髪入れずに右手をかざし『空間操作』を展開した。

 グレイが弾き飛ばした敵の群れを狙い澄まし、その周囲の空間ごと強引に圧縮する。


 聖なる光の斬撃と、空間を歪める不可視の圧。

 この絶妙な連携に抗える吸血鬼など存在しなかった。


「ふう。……これでひとまずは片付いたかな」


 最後の一体が黒い塵となって消え去るのを見届け、俺は肩の力を抜いて息を吐いた。


「助かった、アル。私の背中を完全に任せられるのは、もう世界中でお前だけだ」


 グレイは槍を収めながら、汗をぬぐってニカッと人懐っこい笑みを浮かべてみせた。


 グレイという男は、本当に馬鹿正直で真っ直ぐな男だ。


 出会った最初の頃こそ、俺が真祖の吸血鬼だと知って猛烈に刃を向けて警戒していた。

 けれど、こうして戦場を何度も共に潜り抜けていくうちに、誰よりも俺の力を信頼してくれるようになった。

 最近では、戦いの合間に他愛のない軽口を叩き合えるくらいには打ち解け合っている。


「アル、グレイ! ……お二人とも、ご無事ですか!」


 戦いが終わったことを察して、それまで安全な物陰に隠れていたアリアが大急ぎでこちらへと駆け寄ってきた。

 彼女が近づくにつれて、森の中に清涼な空気が満ち満ちていく。

 アリアの持つ神聖——それは『領域』。

 彼女を中心に広がるその美しい結界の内部では、味方である人間の身体能力や魔力が爆発的に向上する。

 反面、吸血鬼のような闇の怪物は弱体化を強いられる。


「アリア、君も怪我がなくて良かったよ……」


 神聖魔法を展開した状態の彼女にこれほど近くまで寄られると、いくら俺でも少しだけ気分が悪くなってしまう。

 けれど、俺達のために必死に祈りを捧げてくれていた彼女を思えば、そんな不快感なんてどうでもよかった。


「君のその可憐な顔や肌に、戦場の傷跡なんて似つかわしくないからね。こうして君の甘くて優しい声を聞いているだけで、戦いの疲れなんて一瞬で吹き飛んでしまうよ」


「も、もう……、アルったら……。そんなこと急に言われると……すごく照れます……」


 アリアは『領域』の神聖魔法を解除しながら、両頬を真っ赤に染め上げ俺の顔を見上げてきた。

 恥ずかしそうに指先をモジモジと動かす仕草が、あまりにも無防備でかわいい。


「本当のことを言ったまでさ。……これほど素敵なアリアと将来結婚できる男は、きっと世界一の幸せ者だよ」


 俺はそう言って、アリアのプラチナブロンドの柔らかい頭をぽんぽんと優しく叩いた。

 笑顔のまま、そっと彼女の瞳から視線を逸らした。


 吸血鬼と、人間。

 真祖と、一国の王女。

 交わるはずのない二つの命。


 彼女を愛おしく想えば想うほど、自らの身体に流れる血の冷たさが浮き彫りになっていくような気がしていた。



 吸血鬼の群れを退け、前線の砦へと帰還した後のこと。

 勝利で盛り上がる広場を離れ、俺はほとんど人目のつかない薄暗い回廊を歩いていた。


「アル! よかった、ここにいたんですね」


 静まり返った回廊に、パタパタと小気味よい足音が響く。

 アリアが嬉しそうに顔を輝かせながらこちらへと走ってきた。


「どうしたの、アリア。さっきの戦いで、あれだけ強力な神聖魔法を酷使したんだ。しばらく自分の部屋で横になって休んでないとダメじゃないか」


 息を切らせている彼女の肩を気遣いながら、俺は少しだけ呆れたように優しくさとした。


「アルの方こそ……。さきほど、あれほど凄まじい力を行使したのです。……今のあなたには、何よりも燃料となる『血』が必要なのでしょう? 」


 アリアは俺の顔を覗き込み、その澄んだ瞳に強い心配の色を浮かべた。


「はは、俺の心配なら全くいらないからさ。これくらい、力を使ったうちにも入らないよ」


 俺はいつもの飄々とした笑みを浮かべてみせた。

 けれど、アリアの表情は晴れないどころか、まるで胸を激しく締め付けられたかのように歪む。


「……アル。何で、私の血を吸ってくれないのですか? 酒場での夜に、協力の対価としていくらでも吸ってもいいと……そう約束したはずなのに……」


 アリアは少し切なそうな瞳でこちらを見つめてくる。


「あのね、アリア……。一国の王女の血を吸ったなんてことが、万が一にでも周りの人間に判明してみな。せっかく築いた共闘関係も一瞬で崩壊して、俺は『討伐対象』になっちゃうよ」


 俺はため息混じりに、彼女の前に歩み寄った。


「俺がこれからもこうしてアリアのそばにいて、君とグレイと一緒に戦い続けるためにも……、今は君の血を頂くわけにはいかないんだ」


「でも……! 私は、アルの一部になりたいのです……。だって、私、アルのことが……!」


 アリアの真っ直ぐすぎる情愛。

 その唇からこぼれ落ちそうになった言葉。


「……アリア」


 俺は彼女の口を。

 人差し指を彼女の唇にそっと当てることでさえぎった。


「心配しなくても、この吸血鬼達との戦いがすべて終わったらさ。その時は、君の首筋から遠慮なく、浴びるほど血を吸わせてもらうから。……だからそれまでは、良い子で我慢していて」


 俺の言葉の裏にある「踏み込んではいけない境界線」。

 それを察したのか、アリアはそれ以上何も言えなくなり、ひどく悲しそうな顔で視線を落とし、顔を伏せる。

 回廊に差し込む月光が、交わることの許されない俺たちの影を、長く引き裂くように床へと伸ばしていた。


 遠ざかっていくアリアの背中を見届けると、俺は重い溜め息をついた。

 冷え切った石壁に背中を預けながら、回廊のさらに奥へと視線を向ける。


「……で。さっきからそこでずっと俺たちの話を覗き見しているグレイ。一国の高貴な騎士様として、あまり良い趣味とは言えないな」


 俺が闇に向かって声をかけると、ふっと太い石柱の影が揺らめいた。

 現れたのは、すでに重々しい戦用の兵装を解き、簡素な隊服姿になったグレイだった。

 その碧玉の瞳に真剣な、どこか焦れったそうな色を宿して真っ直ぐに俺へと歩み寄ってきた。


「アル。……何故、お前はアリア王女の気持ちに応えようとしないんだ?」


「……さあね。何のことだか、俺にはさっぱり分からないよ」


 俺はわざとらしく視線を逸らし、冷淡な声音で話をはぐらかそうとした。

 けれど、グレンはさらに一歩、俺との距離を詰めて声を荒らげる。


「アリア王女の気持ちがお前にあることくらい、私だってとうに知っている! そして、誤魔化すなアル、お前だってアリア王女のことを……!」


「——だから何?」


 俺の胸の奥に、チリチリとした苛立ちが湧き上がった。

 向けられた眼差しを拒絶するように、グレイを真っ向からにらみつける。


「人間の王女と、吸血鬼の真祖。そんな交わるはずのない二人が恋に落ちて、一体この世界の誰が得をするっていうんだ? 誰も二人の関係を許さない。……何より、最終的にアリアが傷つくだけだ」


「それは……」


「そんなにアリアの将来を心配するならさ。いっそのこと、公爵家の君が彼女と正式に婚約でもすればいいじゃないか。光の加護を持つフォーサイス家と、神聖魔法を持つ王女。周りだって、それならお似合いの婚姻だと大喜びするはずだよ」


「アリア王女とは幼い頃からの仲だが、私達が男女の関係になることは絶対にない」


 グレイは俺の嫌みのような提案を、即座にはね退けた。

 その端正な顔立ちに、どこまでも気高き騎士としての誓いを刻み込んでいる。


「……だからこそ、私は一人の幼馴染として、アリア王女の真の幸せを心から願っているんだ。そして無論、無二の友であるお前の幸せもな」


「それはどうも。……まあ、余計な心配だよ。俺はこの吸血鬼の戦いがすべて終わったら、君達の前から姿を消すつもりだからね。君が未来の心配をする必要なんて、最初から何一つないのさ」


 最初から、俺は闇に生きる孤独な怪物だ。

 戦いが終われば元の場所へと戻るだけ。


 そう自分に言い聞かせるように冷たく言い放つ。

 だが、グレイは一切気圧されることなく、熱い言葉を叩きつけてきた。


「身分や種族の立場が問題だというのなら、次期フォーサイス公爵家当主であるこの私が、どんな手段を使ってでも解決してみせる!」


「おいおい……」


「だから、アル……! 頼むから、自分の本当の気持ちにだけは正直になってくれ! 私たちは、明日の戦いで生きているかどうかすら分からない身なんだ。……お前達が後悔するのは……絶対に嫌なんだ!」


 必死に俺の肩をつかみ、魂を震わせるように叫ぶグレイ。

 人間か吸血鬼かという境界線すらも飛び越えて、俺個人の幸せのために彼は本気で憂慮してくれている。


「……グレイ。君って奴は……世界一の、最高の馬鹿だな」


 俺は呆れたように、けれど心からの深い親愛を込めて小さく笑う。

 彼から視線を外して回廊の窓から夜空を見上げた。

 雲一つない夜空に、白く、冷たく輝く満月。

 月は激しく心を揺らす俺達を、ただ無言で静かに見下ろし続けていた。

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