2章-44.(番外編)アルの過去④ 未来へ続く一歩
俺が向かったのは、砦の冷たい風が吹き抜ける屋上だった。
そこには、満月の光を全身に浴びながら、ぽつんと一人で佇んでいるアリアの姿があった。
プラチナブロンドの髪が夜風にしなやかに揺れ、小さく儚げに見えた。
「そんな高いところでいつまでも夜風に当たっていたら、大切な身体を壊しちゃうよ」
俺が極力いつもの調子を装って声をかけると、アリアはその華奢な肩をビクリと大きく揺らした。
そして、慌てて両手でそっと目をぬぐうような仕草をしてから、ゆっくりとこちらを振り返った。
「ア、アル……。そこに、いたんですね……」
無理に作った微笑み。
けれど、その美しい瞳の縁はほんのりと赤く、涙の跡が月明かりに濡れてきらきらと光っていた。
「……ねえ、アリア」
俺は一歩ずつ、ためらいながらも彼女との距離を詰める。
もう二度と後戻りはできないという覚悟をその胸に抱いて、彼女の瞳を見つめた。
「アリアは……。俺のこと、好き?」
「え……っ!?」
思いもよらない俺の不意打ちの問いかけに、アリアはその声を震わせ、驚きで目を丸くした。
そんな彼女の動揺を包み込むように、俺は自分の胸の奥に閉じ込めていた本当の想いを形にして紡いでいく。
「俺はね……、アリアのことが好きだよ。初めて出会ったその日から……。ずっと、君のことが好きだったんだ」
「アル……っ」
「だから、アリア。……君の本当の気持ちを、俺に聞かせてもらってもいいかい?」
「私……、私は……!」
アリアの瞳から、大粒の涙があふれ出た。
彼女は俺へと向かって夢中で駆け寄り、その勢いのまま俺の胸の中へと激しく飛び込んできた。
小さな、けれどこの上なく愛おしい温もりが、俺の冷え切った身体にぶつかる。
「私も……! 私も、アルのことが好きです! ……あなたのことが大好きでした……!」
「そっか……。ありがとう、アリア」
抱きしめた彼女の身体の温かさを感じながら、俺は優しく目を閉じた。
この先、祝福された輝かしい未来なんて、何一つ待ってはいない。
広がっているのは深い暗闇だけだ。
それでも、たとえこの先にどんな地獄が待っていようとも。
俺はもうこの腕の中の光を手放すことなんて、絶対にできなかった。
「アリア。……君が本気で望んでくれるなら、俺は、君のこれからの生涯のすべてをこの手でもらいたい」
愛おしさが限界を超えて、俺は強い力で抱きしめ返した。
「私も……。私もアルと一緒に、これから先もずっとずっといたいです。……この、吸血鬼達との戦いから、私達の国を守りきることができたら……」
「待って、アリア。その先の言葉は、俺に言わせてほしい」
俺は腕の中の身体を少しだけ離した。
涙でひどく潤んだアリアの美しい瞳を、慈しむように愛おしく見つめつめた。
「アリア。……俺と、結婚しよう。正式な婚姻を結ぶことなんてきっと無理だろうけれど……。俺の長い命のすべてを懸けて、生涯、君だけを愛し、君だけを守り抜くことをここで誓うよ」
「嬉しいです……。本当に、とても……。私、生まれてから今までの人生の中で、今この瞬間が、一番幸せです……!」
「俺もだよ、アリア。……そうだ。この戦いがすべて終わったらさ、前に酒場で君に話した港町ダイアラ。あそこに、二人で一緒に旅に出よう。最高に美味しいおすすめのお酒を、今度こそ君にたくさん教えてあげるからね」
「はい! 絶対に行ってみたいです! ふふ、楽しみにしていますね……!」
アリアは涙を浮かべたまま、まるで夢見る少女のように、この上なく幸せそうな笑みを浮かべる。
月夜が作り上げた、二つの影が、屋上の床の上で深く重なり合う。
この先に待っているのは残酷な結末だけ。
でも、この静かな満月の夜だけは。
俺たちの小さな世界は、永遠に続くかのような幸福で、どこまでも美しく彩られていたのだった。
◇
そして訪れた、もう一人の真祖との決戦。
それは、凄惨と過酷を極めた、まさに地獄のような戦いだった。
荒れ狂う暴力と闇の嵐の中で、俺は、何があっても守ると誓ったはずの彼女を。
アリアを、この手で守りきることができなかった。
「アリア! そんな、どうして……どうして君がこんな……っ!」
真祖が打ち漏らした残虐な一撃が、防壁を突き破って彼女の胸を撃ち抜いた。
地面に崩れ落ちたアリアの胸元からは、鮮血が止めどなく溢れ出している。
白い守護礼装が赤黒く染まっていく。
それが誰の目にも手遅れだと分かる、あまりにも残酷な致命傷となってしまった。
「アル、泣かないで……。ねえ、最後に……あなたにしか頼めない、大切なお願いがあるの」
命の灯火が消えかけ、視界すら霞んでいるだろう。
それでもアリアは、唇を微かに震わせ、俺のために優しく微笑もうとした。
その小さな手が、俺の頬をつたう涙をぬぐうようにそっと触れる。
「最後だなんて言うな……っ! 俺は、君がいるから、君がいてくれたからこそ、ここにいるんだ! 君がいない世界なんて……!」
嫌だ、置いていかないでくれ。
叫ぶ俺の視界は涙で歪んでいた。
彼女を失う恐怖のあまり、心臓が狂ったように脈打ち、頭の中が真っ白になる。
「私の血を、あなたの中に。……そして、この国を……みんなを、守ってほしいの……」
それが、彼女の最期の願いだった。
「……っ」
喉の奥が引き裂かれるように痛む。
俺の中で、理性が絶望の叫びをあげていた。
けれど、彼女の死に瀕してもなお美しい眼差しを受け止め、俺は血を吐くような思いで覚悟を決めた。
「——わかった。命が続く限り……君の愛したこの国を、俺が守り抜こう」
俺は愛おしい彼女の細い首筋へと、震える唇を寄せる。
そして、その滑らかで清らかな肌へと、吸血鬼の牙を深く突き立てた。
「——っ」
皮膚を貫き、アリアの体内からあふれ出た生命の濁流が、俺の喉の奥へと流れ込んでくる。
それは、俺が生涯の中で味わったどの人間の血よりも、圧倒的に甘美で、内側から激しく焼き焦がすような熱の流れだった。
この血をずっと欲していたのだと、本能が残酷な歓喜の声をあげる。
しかし、その極上の快楽と引き換えに、喉を鳴らして血を吸うごとに、腕の中に抱いた彼女の体温がみるみるうちに冷たく失われていくのを肌で感じる。
生の灯火を、俺自身の牙が奪い取っていく。
やがて、俺の頬に触れていたアリアの優しい手のひらから完全に力が抜け、地面へ力なく落ちた。
俺は静かに彼女の首筋から、ゆっくりと唇を離した。
血を止める必要なんてない。
彼女の体内にあった血を一滴残らず、すべて吸血した。
他でもない俺自身の手で、俺が彼女を殺したのだから。
「アリア……っ!」
もう二度と彼女の澄んだ瞳が俺を映すことはない。
俺は温もりを完全に失った彼女の亡骸を、強く抱きかかえた。
冷たい月明かりの下で、ただ激しく慟哭し続けた。
◇
それからの俺は、フォーサイス公爵家に匿われながら、ただ機械的に吸血鬼の残党狩りを続けた。
来る日も来る日も。
夜の闇に紛れては同族を塵へと帰していく。
アリアを失った世界に何の未練も価値もなかったけれど、彼女と交わした最後の約束だけが、俺の身体を動かす唯一の呪縛となっていた。
ただ無心で、虚無のなかに日々を生き続けていた。
「アル……顔色が悪いぞ」
静まり返った公爵家の薄暗い廊下を歩いていた時、背後から心配そうな声が掛けられた。
振り返ると、そこに立っていたのはグレイだった。
今の彼は必死に前を向き、公爵家の当主としての重責を果たし、俺の身を誰よりも案じ続けてくれている。
「別に、何ともないよ」
「そんなわけがあるか! 最近まったく血を吸っていないだろう。このままではお前は……」
「だから大丈夫だって。心配しすぎ」
俺はいつものように、適当な笑みを浮かべて話を切り上げようとした。
だが、グレイは、俺の突き放すような言葉を少しも聞いていなかった。
彼は表情を険しくして、俺の目の前へと詰め寄ってくる。
そして、腰に携えていた護身用の剣を少しだけ引き抜くと、その鋭い刃に己の親指を強く押し当てて、自らの皮膚を切り裂いた。
「少しでもいい。私の血を飲め!」
グレイが、俺の肩を大きな手で力強くつかむ。
どくどくと赤い血が零れ落ちる親指を、強引に俺の口元へと近づけてきた。
鼻腔を突いた、濃い鉄錆の匂い。
おぞましいほどに鮮やかな、生命の赤い色。
同時に、アリアの命を自らの牙で奪い去ったあの夜の光景が蘇った。
自分の喉が鳴るたびに、愛する人の体温が冷たく失われていった、あの最悪の感触が全身を駆け巡る。
「——っ!」
身体が、本能が、恐怖に狂った。
俺はグレイの身体を、力任せに全力で突き飛ばしてしまっていた。
グレイの頑丈な身体が、背後の分厚い石壁に激しく叩きつけられ鈍い音が響く。
その衝撃の音を聞きながら、突き飛ばした反動のままに、俺自身も地面へと無様に倒れ込んだ。
「ぐ……がはっ、ごほ……っ、う……っ……!」
喉の奥から、猛烈な吐き気が込み上げてくる。
首を締めつけられているかのように、喉が完全に拒絶反応を起こしていた。
嘔吐しそうなほどの凄まじい気持ち悪さに、俺は床に手を突き激しく咳き込み続けた。
「アル……お前、まさか……」
壁に背を預けたまま、グレイが痛ましげな表情で俺を見つめていた。
「っは……。どうやら俺は、公爵家の血とは相性が悪いみたいだ。……二度と俺の前に、その血を見せないでよね」
口元を手荒くぬぐいながら、俺は精一杯の強がりを口にする。
ふらつきながらも壁を伝ってどうにか立ち上がった。
勘が鋭いグレイのことだ。
今の俺の無様な醜態を見て、すべてを悟ってしまったのだろう。
俺が自らの意思で血を吸うのを拒んでいるのではなく。
もう二度と、人間の血を身体が受け付けなくなってしまったのだという事実に。
◇
それから、六百年の時が流れた。
フォーサイス公爵家の奴らは気のいい人間が多く、俺という存在を世代を超えて固く守り続けてくれた。
たまに性根の腐った奴もいたけれど、そういう時は俺が影から叩きのめして分を分からせてやった。
国に襲いかかる脅威と、公爵家の守護。
やるべきことは多く、退屈を覚える暇はなかった。
だが、空虚なままの心と、一滴の血も受け付けずに渇ききったこの肉体は、もう限界を迎えて砕け散りそうだった。
真祖としての強大すぎる力を使う度に、身体の奥底がガリガリと削れて摩耗していく嫌な感覚がある。
きっとそのうち、いや、そう遠くない未来。
俺は飢餓の果てに死ぬのだろう。
そんなことを考えながら、俺は執務室に向けて歩いていた。
「アル、これからは私の息子の護衛を、直々に頼みたい」
目の前を重々しい足取りで歩くのは、現公爵家当主であるフィンだった。
「急にどうしたの、フィン。君の代替わりには、まだいくら何でも早すぎるでしょ?」
「私の三男……グレンのことだ。グレンに、我が家に伝わるあの神聖魔法……『女神の槍』を受け継ぐ可能性が強く示唆された」
「女神の槍、ね……」
その言葉がフィンの口から飛び出した瞬間、何とも言えない気持ちがざわついた。
脳裏に浮かぶのは、俺の身を誰よりも心から心配してくれていた、あの燃えるような赤髪の戦友の姿。
「女神の槍は、その時代に本当に必要だからこそ顕現すると言われている。それはつまり、受け取った者は、いずれ過酷な災厄と戦う運命にあるということだ」
「なるほどね。つまり、その来たるべき災厄から、君の可愛い息子を守ってほしいってことか」
「ああ。真祖、アル。……頼めるか?」
「いいよ。俺はフォーサイスの影だからね。君達の言葉には喜んで従うさ」
俺は窓の外に広がる、月明かりに照らされた王都の街並みを見つめた。
もしかしたら、この新しく始まる護衛任務こそが、俺がフォーサイス公爵家に捧げる最後の時間になるかもしれない。
飢餓による肉体の限界はすぐそこまで迫っている。
その最後の仕事相手が、かつての友が握っていた、あの『女神の槍』の継承者だなんて。
運命の神様とやらの悪戯にしては、実におあつらえ向きだ。
「私の愛する息子を……グレンのことを、どうか頼んだぞ」
「わかった。まあ、まかせてよ」
まさか、これから始まるそのグレンという少年との日々が。
そして、彼の婚約者となる令嬢と過ごす時間が。
この六百年の中で、最も騒がしく、慌ただしく、そして何よりも愛おしい奇跡の時間になるなんて、この時の俺は露知らず。
俺はいつものように、軽薄に、ひらひらと手を振って微笑むのだった。




