2章-41.(番外編)アルの過去、六百年前の追憶① 王女との出会い
今から六百年前、とある夜のこと。
薄暗いランプが頼りなく照らす、しなびた古い町外れの酒場。
そこは、当時の俺にとって、人間の生き血を効率よく狩るための格好の餌場のひとつだった。
人間が口にすれば喉が焼け付くような、安物で度数の強い酒をあおる。
俺は次に声をかける獲物を、退屈しのぎにゆったりと待ち構えていた。
「こんにちは。……お隣、よろしいですか?」
突如として、俺の真横から響き渡った声。
騒音と酒臭い空気に満ちていた酒場の雰囲気に、それはあまりにも似つかわしくない、鈴を転がしたような凛と澄んだ美しい声だった。
俺が視線を向けると、そこにはプラチナブロンドの髪を丁寧な三つ編みに結わえた若い女が佇んでいた。
着ている衣服は、彼女の面立ちに似つかわしくない地味な旅装だ。
「……こんなかわいらしいレディからの頼みなら、断る理由なんて何一つないよ」
俺はいつもの人間をたらし込むための、余裕たっぷりな笑みを唇に浮かべて隣の椅子を示した。
「では、失礼いたしますね」
酒場の使い古された高い丸椅子に、少し手間取りながらも、女はすっと美しい背筋を伸ばして上品に腰掛けた。
「マスター。……彼と一緒のお酒を、私にもいただけますか?」
女のそのオーダーに、カウンターの奥にいた酒場のマスターは、激しく緊張したように息を呑んだ。
マスターは手を震わせながら、少し曇った粗末なグラスに琥珀色の液体を注いでいく。
「ここへは、よく来られるんですか?」
「まあ、たまにね。……君のような綺麗な子が、こういう薄汚れた場所に一体何の用だい?」
「私、こういう大衆向けの酒場には、生まれて初めて来ましたの。なんだか……少しだけドキドキしてしまいます」
女は警戒心というものを忘れてきたかのように、あまりにも無防備で可憐な笑みを浮かべる。
吸血鬼の俺の前に、自ら極上の首筋を差し出しにきたかのような危うさ。
マスターが今にもグラスを落としそうなほど指先を震わせながら、女の前に琥珀色のグラスを置いた。
女は、その液体を何のためらいもなく、小さな形の良い唇へと一気に持っていった。
「うぐ、っ……! ごほ! ごほ……っ、げほっ……!」
「あーあ。それ、この酒場で一番アルコール度数が高い酒だからね。大丈夫かい?」
案の定、激しくせき込んで涙目になっている彼女の背中を、俺は苦笑しながらそっと手でさすってやった。
「だ、大丈夫、です……っ。お、お酒は……これでも強いほう、ですので……!」
「はは、全然そうは見えないんだけどね……」
白い肌を耳の裏まで真っ赤に染め上げながら、彼女は涙目で必死に強がっている。
その姿が、なんだか小動物のようで無性に愛らしい。
俺の胸の中で、それまで感じていた退屈が吹き飛んでいくのが分かった。
「その残りは俺が引き受けるからさ。マスター、彼女にはもっと軽めで甘いワインを、大急ぎで出してあげてよ」
「あ……、申し訳ありません……。とても助かります……」
女は恥ずかしそうに伏し目がちになりながら、消え入りそうな声で俺に感謝の言葉を述べるのだった。
「お酒、とっても強いんですね」
新しく手配されたグラスを両手で大切そうに包み込みながら、彼女は感心したように目を輝かせた。
「……まあね。俺にとっては、ただの雰囲気だけを楽しんでいるって感じだよ」
本当のことを言えば、真祖である俺の肉体にとって、アルコールなんてただの気休めにもならない。
俺が退屈そうにグラスを揺らすと、彼女はさらに興味を惹かれたように身を乗り出してきた。
「あなたは、どうしてこのような場末の酒場にいらっしゃるんですか?」
「どうして、ねえ……。それは……、目の前にいるような美しい女性と、甘い夜を共にするためさ。男が一人でこんな薄汚れた場所に溜まっている理由なんて、いつの時代もそんなものだよ」
俺はわざとらしく唇の端を吊り上げると、彼女の流れるようなプラチナブロンドの髪に、無遠慮に手を伸ばした。
シルクのように滑らかな美しい毛並みを、指先でふわりともてあそぶように撫で上げる。
——その刹那、酒場の外の暗闇から、無数の凄まじい殺気がこちらに向けて一斉に放たれた。
(まあ、そりゃいるよね)
影に潜む者たちの過剰なまでの反応。
だが、彼女は外の殺気など微塵も気づいていない様子で、俺の無礼な手つきを拒むどころか、むしろ嬉しそうに頬を緩めた。
「そう、ですよね……。それでは、また明日の夜も、ここで会いませんか?」
彼女は少しだけ視線を落とした後、すぐに顔を上げる。
期待に満ちた真っ直ぐな瞳で俺を見つめてきた。
「……え。君、明日もこんな場所にわざわざ来るつもりなの?」
思わぬ提案に、俺はグラスを口元に運ぶ手を止める。
「はい。私、お酒の正しいたしなみ方がまだよくわからないので……。あなたのように優しくて紳士的な方に、ぜひ教えていただきたいです」
曇りのない、どこまでも純粋な信頼の眼差し。
この俺を、『優しい男』として見つめてくる女。
窓の外からは、さらに激しさを増した殺気が突き刺さってくる。
それが妙におかしくて、俺の胸の奥に奇妙な高揚感が湧き上がってきた。
「……まあ、気が向いたらね」
俺はわざとそっけない態度を取りながら、残りの強い酒を一気に飲み干した。
退屈極まりなかった俺の六百年の孤独のなかに、突如として飛び込んできた光。
その光の危うさに、俺の真祖としての血が騒ぎ始めていたのだった。




