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2章-30.六百年前の約束、這い寄る漆黒の影

 アルが足を止め、振り返って私の目をじっと見つめてきた。

 その目はいつになく真剣で、私を危険な目に遭わせることへの微かなためらいが感じられる。


「大丈夫……。やるわね」


 私は小さく息を吐き出し、懐から護身用の小さなナイフを取り出した。

 ひんやりとした金属の冷たさが、私の手のひらに恐怖を突きつけてくる。


「……っ」


 刃の先端を、自分の左手の指先に押し当てる。

 薄い皮膚に、私の赤い血がじんわりと滲み出てきた。


「ルナリア……っ! 痛く、ないか……?」


「平気よ。少しヒリっとするだけだから、心配しないで」


「作戦が終わったら、すぐに俺が止血するからよ。吸血鬼の真祖である俺の唾液には、止血効果と、強い痛み止め効果があるから」


 アルが私の指先を見つめながら、涼しい顔で微笑んだ。

 けれどその言葉が持つ含みに、隣のグレンがぴくりと眉を跳ね上げた。


「……舐めるのか? アルが、ルナリアの指を……?」


「そんなに顔に出さないでよ、グレン。ただの治療さ。親友の好きな人を横から奪うほど悪趣味じゃないから。安心してよ」


 アルはグレンのうろたえぶりを面白がるように、意地悪な笑みを浮かべて肩をすくめた。


「そ、そんな心配は……! 私はアルのことを心から信用している。お前が、意味のない無駄な行為をしない男だと知っている。だがそれとこれとは別で……!」


 からかわれて顔を赤くしながら、しどろもどろに口を動かすグレン。

 それでも必死に信頼の言葉を紡ぐ姿が、とても彼らしかった。


「……まあ、そうやって信じてもらえるのは素直に嬉しいよ」


 アルは眼鏡の奥の目を柔らかく細め、本当に嬉しそうに笑った。

 二人の息の合った、けれどどこか温かい掛け合いを見つめていると安心感がこみあげる。


「二人とも、本当に仲がいいのね……。そういえばアルは、六百年前のあの戦争が終わってから、ずっとフォーサイス公爵家に仕えていたのよね?」


「ん? まあ、そうだね」


 アルは視線を夜の闇の奥へと戻し、何かを噛み締めるようにつぶやいた。


「この国を守るためにはさ。政治や権力の中枢にいる公爵家に身を置くのが、何かと都合が良かったからね」


「守るため……。吸血鬼戦争という大昔の戦いが終わった後も、アルはずっと、この人間の国に残って守り続けてくれたのね」


 同族を滅ぼし、一人だけ人間の味方をして、そこから果てしない六百年。

 それは気の遠くなるような孤独な時間だったはずだ。

 私の視線を感じ取ったのか、アルは一瞬だけ、遠い過去を愛おしむように、ひどく寂しげに口元を緩めた。


「……約束だったから」


「アル……?」


 ぽつりと言い落とされたその切なげな言葉に、私の胸が締め付けられる。

 誰との、どんな約束なのだろう。

 彼の背負うものの重さに触れた気がして、もっと深く問いかけようとした、その時だった。


「さて、そろそろ世間話も終わりかな」


 アルの声音から、一瞬で感傷の響きが消え失せた。


「おいでになったみたいだよ」


 その短い言葉と同時に、私達の身体に緊張が走り抜けた。

 私の指先から滴る血の匂いに誘われて、ついに闇の奥から足音が這い出してきたのだ。


「グレンはルナリアのそばに。上位の吸血鬼には固有の能力がある。……人間に近しい姿に見えても、あいつらは化け物だ。躊躇した瞬間が、命取りになるからね」


「わかった。アル、お前も気をつけてくれ」


「はは、誰に向かって言ってるのさ。それじゃ、俺は先手を打ってくるから……ここはひとまず任せたよ。何かあればすぐに駆けつけられる位置にはいるからね」


 アルはふっと眼鏡を外した。

 その瞬間、彼の青い瞳は完全に消え去り、夜闇を妖しく照らす真紅の輝きが両眸からたなびいた。

 そして彼の身体が、最初からそこにいなかったかのように冷たい闇へと溶けていく。


「——女神の槍よ——」


 グレンの凛とした声が、神聖な詠唱を夜に響かせる。

 その刹那、眩いほどの純白の光がグレンの手に宿った。

 現れたのは、この世のものとは思えない白亜の槍だ。


「ルナリア。……怖くないか」


 グレンは正面の暗闇から一瞬も目を離さない。

 それでも、声だけは柔らかく私へと向けられた。


「怖くないって言ったら嘘になるけど……でも、大丈夫。絶対に足を引っ張らないから!」


 私はぎゅっと両手を握りしめる。

 ただ守られるだけの足手まといには、もう絶対になりたくない。

 その決意を伝えるようにグレンの背中を見つめると、彼の肩がわずかに力を帯びた。


「そんなこと、君は何も気にしなくていい。私が、必ずルナリアを——……っ!」


 言葉が終わる前に、グレンの槍が跳ね上がった。

 凄まじい踏み込みとともに、振り向きざまに背後の闇へと一閃する。

 白亜の残光が闇を切り裂いた直後、鼓膜を引き裂くようなおぞましい断末魔が響き渡った。


「——吸血鬼!」


 削り取られた闇の奥から、血の匂いとともに黒い影が這い出してきた。

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