1章-26(番外編)グレンとアルのやんちゃな過去②
父上が配置した公爵邸の鉄壁の警備網――見張りの騎士たちの巡回ルートは、すでに完璧に頭の中に叩き込んであった。
(……今だ!)
公爵家の誇る一流の騎士たちにすら一切気づかれることのない、完璧な脱走劇。
無事に邸の敷地外へと抜け出し、私は小さく拳を握りしめた。
我ながら見事な手際に、胸の奥で小さな高揚感がふつふつと湧き上がる。
自然と口元が緩んだ。
——しかし、敷地を一歩出た瞬間に、早くも大問題が発生した。
「……! い、ない……」
大通りの喧騒に紛れ込み、周囲を見渡す。
だが、右を見ても、左を見ても、アルの姿は影も形もなかった。
完全に見失ってしまったのだ。
あまりのあっけなさに、
その場に茫然と立ち尽くしてしまった。
(いや、まだ公爵邸を出てからそこまで時間は経っていない。遠くには行っていないはずだ。とにかく、周囲を探してみよう)
公爵家の外を、護衛も従者も連れずに一人で出歩くのは、短い人生の中でこれが初めての経験だった。
街を行き交う平民たちの活気に圧倒されそうになるが、家を出る前に一番簡素な服を着ていたおかげか、幸いにもそこまで周囲の目を引くことはなかった。
(犯罪組織の調査なのだから、こんな開けた表通りを堂々と歩くはずがない。だとしたら……裏路地か?)
私は意を決して、大通りから外れた、昼間だというのに闇が差し込んでいる細い路地へと足を踏み入れた。
一歩入っただけで、外界の賑やかな声が嘘のように遠ざかっていく。
そこはまるで、世界から切り離されたかのような静けさに満ちていた。
(不気味だ……。アルはいつも、こんな場所に一人で平気な顔をして来ているのか? 怖いとは……思わないのだろうか)
普段、自分がどれほど安全で眩しい世界に守られていたかを痛感する。
恐怖感に足がすくみそうになる。
けれど、アルに負けたくないという意地だけが、私の震える足を辛うじて前へと進めさせていた。
はやくアルの姿を見つけたい。
その焦りから、私の意識は前方にばかり向いていた。
背後から忍び寄る、微かな足音に気づけないほどに。
——突如、視界が反転した。
「——ぐ!?」
背後から伸びてきた太い腕。
それが強引に私の身体を締め上げ、自由を奪われる。
同時に、鼻と口を目の粗い布で塞がれた。
「……んぐっ、う……!?」
抵抗しようと必死に手足をバタつかせるが、大人の圧倒的な筋力を前にして、子どもの身体は簡単に宙に浮かされてしまう。
「おい、見ろよこの燃えるような赤髪……地味な服で隠してやがったが、間違いない。まさか、本当にフォーサイス公爵家の子どもが、護衛もつけずに一人で外に出てくるとはな」
「へへ、運が向いてきたぜ。いい土産になりそうだ。アジトに連れていって、最高の人質として使ってやるよ」
薄れゆく意識のなかで交わされる、男たちの卑俗な会話。
その言葉を拾い集めた瞬間、私の脳裏に冷たい戦慄が走った。
(こいつらが……父上とアルが警戒していた、公爵家を嗅ぎ回っているという犯罪組織か!)
手足を動かそうと必死に魔力を練ろうとするが、巨躯の大人たちに完全に抑え込まれ、まともな術式すら構築できない。
私はなすすべもなく、男たちの思うがままに薄暗い裏路地の奥へと連れ去られていった。
どれほどの時間が経っただろうか。
冷たい床に乱暴に放り出された衝撃で、私は意識を取り戻した。
「さて、それじゃあこの公爵家の大物人質を使って、さっそく身代金でも要求するか?」
「それより、あの公爵家の敵対勢力に売り渡す手がある。そっちの方が足がつかないし、言い値で売れるぜ」
少し離れた場所で、男たちがランタンの鈍い光に照らされながら、汚れた交渉を愉しげに繰り広げている。
必死に身悶えして逃げ出そうとするが、口は固く布で塞がれ、手足は太い縄でこすれて血が出るほどきつく縛り上げられていた。
指先一つ、満足に動かすことすら叶わない。
(結局……私は、一人では何もできないのか……!)
胸の奥から悔しさと、自身の圧倒的な無力さへの絶望がせり上がってくる。
縄が食い込む痛みに耐えながら、私はただ、己の未熟さに涙を溢れさせそうになるのを、奥歯を噛み締めて堪えることしかできなかった。
——その、刹那だった。
湿気と腐臭が充満する閉ざされた地下水路に、およそ似つかわしくない。
ひどく冷たい、刃のように風が地下水路を吹き抜けた。
次の瞬間、私の目の前で不敵な笑みを浮かべていた男の一人が、目に見えない強大な衝撃に弾き飛ばされ、強烈な勢いで石壁へと叩きつけられた。
男が悲鳴を上げて床に倒れ伏すと同時に、ランタンの光さえ吸い込むような『漆黒』が、水路の闇を駆け抜ける。




