2章-24.アルの秘密と、血を捧げる覚悟
突如として発生した正体不明の襲撃者。
その襲来で、フォーサイス公爵邸はひっくり返ったような大騒動に包まれていた。
護衛騎士達や、真っ青な顔をした使用人たちが、指示を飛ばし合いながら慌ただしく廊下を行き来している。
そんな外の喧騒を遠くに聞きながら、私たちはアルの私室へと入っていた。
「アルは……本当に大丈夫なの……?」
ベッドの脇に佇みながら、私は意識を失ったまま静かに呼吸を繰り返すアルの寝顔を覗き込んで、隣に立つグレンにそっと尋ねた。
「おそらく……。かつて倒れた時よりは、いくらか顔色はいい気がするが……」
グレンは痛ましく思うようにその端正な眉をしかめ、じっと心配そうにアルの顔を見つめていた。
そこに、室内の張り詰めた空気を遠慮するような、静かなノックの音が響いた。
「グレン様、公爵様よりお呼び出しです。昨夜の襲撃の一部始終について報告をしてほしいとのことです」
「……そうか、わかった。すぐに向かう」
グレンは小さく息を吐いて頷くと、振り返って私を見つめた。
「ルナリア、申し訳ないが……しばらくの間、アルのことを頼んでもいいかい」
「ええ、もちろんよ。ここは私が見ているから、グレンは公爵様のところへ行って」
私の返身を聞いて、グレンは「ありがとう」と短く残し、部屋を後にした。
パタン、と静かに扉が閉まる。
一人きりになった途端、部屋を満たす余計なほどの静けさが、より一層私の耳に寂しくつく。
その時だった。
(……っ!?)
突如、頭を殴られたかのような激しい痛みが走り、視界が歪んだ。
あまりの衝撃に耳鳴りが響き、私は思わず自分の額を押さえる。
そして、混濁する私の脳裏に——前世の、あの白くて狭い病室の光景が、恐ろしいほどの鮮明さでフラッシュバックした。
◇
「このキャラクター、実は吸血鬼なんだよ! それでね……物語の途中で、同じ吸血鬼の同族と戦うイベントが発生するの。そこが最高なんだけど、とにかく戦闘が難しくって……。ここでゲームを投げちゃう人、すっごく多いんだから!」
お見舞いに来てくれた前世の友人が、楽しそうに目を輝かせて熱弁している。
スマートフォンの画面を私に見せながら、興奮を隠せない様子でベッドの柵を叩いていた。
「しかもこれ、ただのイベントじゃなくて、選び方を間違えると『全滅エンド』フラグが立つ重要局面なんだよね。だから本当に、慎重に進めないと取り返しのつかないことになるんだよ」
◇
「……っは!? え……、嘘……?」
唐突に途切れた前世の記憶。
ハッと現実に引き戻された私は、冷や汗で濡れた顔を上げ、荒い呼吸を繰り返した。
全身の血の気が、一気に引いていくのが分かる。
(どういうこと……? 同族の吸血鬼と戦うイベント!? 全滅エンドのフラグ!? ——じゃあ、まさか、昨夜私を襲ってきたあの吸血鬼って……!)
胸の奥を心臓の音が激しく叩く。
「破滅の運命から遠ざかった」なんて淡い希望を抱いていた自分を、今すぐ殴り飛ばしたかった。
避けられたどころか、真逆だ。
シナリオは止まってなんていない。
それどころか、あの最悪の『全滅ルート』は、今まさにリアルタイムで進行し始めている。
あまりの恐怖と混乱に、呼吸の仕方すら忘れそうになっていた、その時だった。
静まり返った室内で、ベッドの上でみじろぎする微かな影が私の目に入る。
「……どのくらい寝てた、俺」
布団がこすれる微かな音。
聞き慣れた、けれどまだ少しかすれた声が静かに響いた。
アルがゆっくりと、その長いまつ毛を持ち上げ、眼鏡のない剥き出しの真紅の瞳を私へと向けたのだ。
「アル……! よかった、目が覚めたのね……!」
私は弾かれたようにベッドの側へと一歩詰め寄り、安堵のあまり胸を撫で下ろす。
先ほどの記憶は頭の隅におき、今は彼の体調を最優先に気遣った。
「まだ昨夜の襲撃から、半日程度しか経っていないわ。まさかこんなに早く意識が戻るなんて……」
「そっか、半日か。……心配かけたね、ルナリア嬢。君のおかげで、予定よりだいぶ早めに起きられたみたいだ。ありがとう」
アルはベッドの上にゆっくりと上体を起こしながら、ふっといつもの調子で柔らかく微笑んだ。
「……? 私の、おかげ……?」
身に覚えのない感謝を告げられ、私は小首を傾げた。
「ほら、昨日……訓練場で、ちょっと君から『血』をもらったじゃん? あれが効いたんだよ。あの貯えがなきゃ、また前みたいに一週間は確実にベッドから起き上がれないコースだったからね」
「血……」
アルの口からさらりと告げられた不穏な単語に、私の思考が一瞬で昨日へと引き戻される。
夕暮れの訓練場。
深く切ってしまった私の指先。
そこからこぼれる鮮血を、慈しむように、強引に舐め取ったアルの冷たい唇。
そして昨夜のあの恐ろしい襲撃者の男が、アルの真紅の瞳を見て放った決定的な一言。
「アル……あなた、もしかして……」
息を呑みながら見つめる私を前に、アルは困ったように自身の頭を軽く掻いた。
「まあ……昨夜のあれを見ちゃったら、普通はわかっちゃうよね。否定するのも面倒だし」
未だにショックを隠しきれずに立ち尽くす私を、じっと見つめる。
「ついでにさ……俺から一つ、君に頼み事をしていい?」
真剣な表情の中に、いつもの少し意地悪な影を潜ませながら、アルは私に向かって静かに微笑みかけるのだった。
「私に?」
「ルナリア嬢……いや、ルナリアにしか頼めないこと、だよ。——ちょっと、こっちに来て」
アルの、どこか熱を帯びたような低い声にうながされる。
私は戸惑いながらもベッドサイドの側まで歩み寄った。
「わ、わかったわ……」
ベッドのすぐ横まで近づいた、その瞬間だった。
シーツの上に身を起こしていたアルが、私の右手を優しく引っ張ったのだ。
「え……っ!?」
不意にバランスを崩した私は、ベッドの上のアルに自らの身体を覆い被せるような形になってしまう。
至近距離で彼と視線が交わった瞬間、妖しい真紅の瞳が私を射抜く。
「血を、貰いたい。……ちょっとした緊急事態でね。これ以上の調査と、俺の身体の回復のために……どうしても君の協力が必要なんだ」
間近で告げられたそのあまりにも衝撃的な頼み事。
しかし、至近距離で彼を見つめるうちに、私はアルのいつもとは違う異変に気がついた。
アルの肩が、少しだけ荒い呼吸を刻んで不自然に上下している。
覗き込んだその肌は青白く透き通り、今にも消えてしまいそうなほどに儚い。
いつものように平気なふりをして微笑んでいる。
けれど、今の彼は、誰の目から見ても酷く衰弱し、頼りなさげに見えた。
(アル……)
思い返せば、子爵家から私を救い出してくれた時も、昨夜の襲撃の時も。
アルはいつも、さまざまな場面で私を助けてくれた。
そう思った瞬間、私の胸の中にあった恐怖は、綺麗に消え去っていた。
彼の力になれると考えたら、不思議と怖さが霧散する。
「……アル。私にできることなら……。大丈夫、私の血をあげる」
私はアルの真紅の瞳を見つめ返し、覚悟を込めて微笑むのだった。




