2章-23.揺らぐ天秤、吸血鬼の襲来
唇を微かに震わせ、その答えを言葉にしようとした、まさにその時だった。
部屋の大きな窓の外が、一瞬だけ不自然に揺れたような気がした。
「あれ……?」
「ルナリア?」
私の言葉の途切れと視線の動きに、グレンが不思議そうに眉をひそめる。
「今、バルコニーの外で……何か、黒い影のようなものが見えたような……」
視界の隅を、一瞬だけ何かが横切ったような、奇妙な違和感がぬぐえない。
私はなんとなく胸騒ぎを覚えて、グレンから離れバルコニーのガラス窓へと近づいた。
じっと目を凝らして夜の闇を見つめてみる。
けれど、そこにはいつも通りの静まり返った公爵邸の庭園が広がっているだけだ。
「気のせい……かしら」
胸を撫で下ろし、窓を背にした、まさにその瞬間だった。
——バンッ!!!
凄まじい衝撃音。
鍵がかかっていたはずのバルコニーの窓が、内側へ向かってひとりでに勢いよく跳ね上がった。
「え……っ!? ——うぐっ!」
吹き込んできた突風と衝撃に、驚きで振り返ろうとした、その刹那。
それが凄まじい速度で室内に侵入し、私の首筋へと巻き付いたのだった。
「ルナリア!?」
グレンの叫び声が、夜の帳の中に激しく響き渡る。
それと同時に、彼の右手に純白の槍——フォーサイス公爵家に伝わる『女神の槍』が、闇を払う苛烈な白亜の輝きと共に呼び出された。
「良い血の匂いだ……。これは、最高に上等な獲物を見つけたな」
私を背後から拘束している男が、下卑た悦びを滲ませて低く笑った。
「っぐ……、う……!」
「何者だ! 今すぐルナリアを離せ!」
グレンが女神の槍を構え、今にも男を貫かんばかりの眼光で睨みつける。
「おっと、近づくなよ? こんな細いお嬢ちゃんの首なんて、俺がその気になれば一瞬でへし折れるんだからな」
男が私の首を絞める手にさらに力を込めると、一歩踏み出そうとしたグレンの動きがぴたりと止まった。
「グレ……ン……」
かろうじて細い呼吸を繋ぐことはできるものの、急激な酸欠で頭がかすんでいく。
「さて……。それじゃあ、少しだけ味見をさせてもらおうか」
男の獣のような爪が私のブラウスの襟元にかけられ、引き破るようにして白い首元が容赦なく露出される。
冷たい夜風が肌を叩き、私は恐怖に身を震わせた。
男の不気味な顔が、私の無防備な首筋へと近づく。
「……!?」
その口からは、およそ人間のものとは思えない鋭い牙が覗いていた。
その牙が私の首に突き立てられようとした、まさにその瞬間。
「——よくも、俺の領域を土足で踏み荒らしてくれたな、三下」
闇の底から響くような凍てついた声。
それと共に、もう一つの夜を塗りつぶすような漆黒が、私の目の前へと音もなく舞い降りた。
「ア……ル……!」
霞む視界の先、黒い外套を激しくたなびかせ、そこに立っていたのは、間違いなく彼だった。
「な、なんだお前……っ!? どこから現れた!」
不意を突かれた襲撃者の、動揺した声が鼓膜を震わせる。
アルの、いつもは理性的で冷静なあの青い瞳。
けれど、今の彼の双眸には、見たことがないほど激しい憤怒の炎が揺らめいていた。
「ルナリア嬢……大丈夫。今、すぐに助けるよ」
その声は、その目とは裏腹に優しかった。
アルは静かに目を閉じると、自身の顔にかけられた眼鏡へと手を伸ばし、それをゆっくりと外す。
ドクン——ッ
大気に微かな亀裂が入るような緊張感。
心臓が鷲掴みされたかのような圧迫感が場を支配し、空気が一瞬にして凍りつく。
アルの結い上げていた長い三つ編みが、内側からの衝撃ではじけ飛ぶようにして、ハラリと解かれた。
そして、アルがゆっくりと、そのまぶたを開けた。
「——っ、あ……」
私の喉から、言葉にならない息が漏れる。
暗闇のなかで妖しく煌めいていたのは、血よりも濃い真紅の瞳だった。
「な……ッ!? まさかお前も、吸血鬼……」
私を後ろから縛り付けていた男の声が、恐怖で引きつる。
けれど、男がその言葉を最後まで言い切る時間は、残されていなかった。
アルが視線を向けた、ただそれだけだった。
目に見えない凄まじい衝撃が、男へと強烈に炸裂したのだ。
「あ……!」
男の体が弾き飛ばされ、同時に首を絞めていた腕がほどかれる。
拘束から解放された私は、よろめくように床へ向かって崩れ落ちた。
「ルナリア——!」
床に叩きつけられる直前。
グレンが地面に倒れる寸前の私を、その両腕でしっかりと受け止めてくれた。
「ルナリア、大丈夫か! 怪我は……どこか痛むところはないか!?」
グレンの焦燥に満ちた声が耳元で響き、私を支える彼の腕にぎゅっと力がこもる。
「私は大丈夫……。それより……!」
グレンの胸を借りてなんとか上体を起こし、私は前方の光景へと視線を上げる。
床には、先ほどまで私を人質にとっていた襲撃者の男が、這いつくばるようにして無残に倒れ伏している。
そしてその男を、一切の温度を感じさせない瞳で見下ろしているのは、黒い外套を翻したアルだった。
「聞きたいことがある」
アルが男に向けて静かに右手をかざす。
それだけで、男の周囲の空間が奇妙に歪み始めた。
「ぐあ……っ、が、は……っ!?」
目に見えない圧倒的な質量に押し潰されているのか、男の口から苦悶の呻き声が漏れる。
「少しでも言いよどんだり、嘘を言ったり、黙ったら……弾き飛ばす。いいな?」
「ひっ……」
とても私の知るアルのものとは思えない、深淵から響いてくるような冷え切った声音。
ただ聞いているだけで、私の背筋に冷たい悪寒が走り抜ける。
「最近、王都の裏で暴れ回っているのはお前たちだな?」
アルの短い問いかけに、男は圧迫感に耐えかねて必死に首を縦に振った。
「う、ぐ……! そ、そうだ……俺と……仲間どもだろう……」
「俺のこの姿を見てもろくに反応しないところを見ると、泥臭い新入りのようだな。……誰に吸血鬼に変えられた?」
「わ、わからない……! 俺にも、何もわからないんだ……っ! フードを深く被った男に、怪しげな薬品みたいなものを無理やり飲まされて……気づいたら、こんな体に、吸血鬼になっていたんだ!」
男は涙を撒き散らしながら、必死に弁明を口にする。
「薬品、ね。……出来損ないの割には、お前たちは全員、吸血鬼特有の『血の匂い』が巧妙に隠されている。しかも、まるで一つの目的を持っているかのように、どれも似たような不気味な動きをしている。なぜだ?」
「それは……血が、頭の中で命令するんだ……っ! ……もっと人間の血を集めろ、と……!」
「……なるほど。血を一箇所に集めるような行動、その目的は……『真祖の復活』。——だろ?」
「ぐ……っ!?」
核心を突かれた男の顔が、驚愕と絶望に大きく歪んだ。
六百年前の歴史の授業で聞いた、あの恐るべき化け物の王の存在。
それが、現実の脅威として今、アルの口から語らている。
「それで、真祖はどこにいる?」
「わ、わからない! 本当にわからないんだ! ただ俺は頭の中の血に命令されているだけで……仲間の居場所も、どこにいるかも知らない! これ以上は何も知らない、本当だ、信じてくれ……っ!」
必死に命乞いをする男を、アルの真紅の瞳が見つめる。
「そっか。……それなら、もういいよ。じゃあね」
アルが、かざしていた右手を、静かに、力強く握り込んだ。
その刹那。
男の周囲の空間が一瞬にして激しく歪曲し、大気が爆発するように軋んだ。
「——ッ」
声もなく、男はその場から完全に消滅してしまった。
あとに残されたのは、不自然にえぐれた床と、静まり返った夜の匂いだけ。
グレンの腕の中で、私はただ、信じられないものを見た恐怖と衝撃に、息をすることさえ忘れて硬直していた。
「ふう……。グレン、ルナリア嬢。二人とも、怪我はなさそうだね。無事で何よりだよ」
男を空間ごと消し去った凄まじい衝撃の余韻が残るなか。
アルはいつもの、けれどどこか疲れ切った声音で私を気に掛ける。
「アル……お前、その姿……一体、それは……」
彼の絞り出すような声、その碧玉の瞳はショックと混乱に大きく揺れている。
「まあ……。目の前でこんな派手な真似をしちゃったら、さすがに、もう誤魔化しようがないか」
アルはほどけた長い髪を指先で払うと、小さため息をついた。
「まあでも、その重大発表の前にさ……。悪いんだけど、俺、ちょっと寝るね」
「え……?」
アルの両膝から、突然すべての支えが失われたように力が抜ける。
「アル……!?」
グレンが驚きに目を見開く。
アルの身体は床に向かってよろめくようにして、そのまま盛大に倒れたのだった。
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