1章-22.公爵から伝えられた、両親の過去
案内されたフォーサイス公爵邸の執務室。
そこは数々の蔵書や書類に囲まれた、静かで厳かな空間だった。
その一角にある応接スペースの革張りソファに、私は招かれるようにして座らされた。
目の前に置かれた紅茶から湯気が立ち上っているけれど、とても口をつける余裕なんてない。
「——この度は、本当に大変な苦労があったな、ルナリア子爵令嬢」
対面に腰掛けたフィン公爵。
その彫刻のように硬い面持ちこそ崩さなかったものの、私に向けてくれた声音には、驚くほど温かだった。
「い、いいえ! 滅相もございません。むしろ私の方こそ、公爵家の皆様には多大なるご迷惑をおかけしてしまいました。……本当に、感謝の言葉もございません」
緊張のあまり声が裏返りそうになるのを必死に抑え、私は深く頭を下げた。
「気にするな。そう言ってくれると、我が家としても善処した甲斐があるというものだ。これからのフォーサイス公爵邸での生活で、もし困ったことや不自由なことがあれば、何でも遠慮なく私や使用人達に言ってくれ」
「は、はい……っ」
予想に反して、私を責めるような気配は一切ない。
それどころか、あまりにも至れり尽くせりな歓迎ぶりに、私の心臓は緊張と恐縮で余計に荒ぶる。
「さて、さっそく本題に入ろう。君には、今ここで伝えておかねばならない重要な事柄が『三つ』ある」
フィン公爵が背筋を正し、その鋭い瞳で私を見据えた。
「まずは一つ目。——君の父親、ペンバートン子爵のことだ」
「——っ」
『父親』という単語が出た瞬間、私の身体が条件反射のようにビクリと強張る。
昨夜の怒り狂う父の姿を思い出し、無意識のうちにドレスの膝を握りしめた。
「安心しなさい。ペンバートン子爵は、近日中に、近親者への暴行の罪で投獄されることが決定となっている」
「そう、ですか……」
「さらにさまざまな事業での不正も見つかった。……いずれ爵位も剥奪されるだろう。今後、あの男が君の前に現れることも、君の人生に関わることも、二度とないから安心しなさい」
あれほど私を恐怖させ、支配していたあの男が、あっさりと瓦解してしまった。
襲ってきたのは、言葉にならないほどの安堵。
それと同時に、どこか現実味のない奇妙な喪失感が、胸の隙間に冷たく滑り込んでくる。
「我が家の影を使って少し調べさせたのだが……あの男は過去に、君の母親を力尽くで脅迫し、無理やり婚姻を結んだ経緯があるようだ」
「お母様、を……?」
「ああ。手に入れたいと思ったものは、他者を踏みにじってでも強引に我が物にする。あの男の人生は、終始そういう欲の塊だったと言っても差し支えないだろう」
公爵の冷徹な言葉が、私の胸の奥を軋ませる。
今まで巧妙に私への暴力を隠していた父が、なぜ伯爵邸で逆上したのかが分かった気がした。
確かに、私の母は父を愛しているように見えなかった。
むしろ、嫌っているようにさえ思えたくらいに冷たい態度しか記憶にない。
その瞬間、私の記憶の奥底に眠っていた、母の細く、今にも消え入りそうだった震える声がふいに蘇った。
『ルナリア。……あの人を、あなただけは愛してあげて……』
幼い私を抱きしめながら、涙を流して言われたあの言葉。
無理やり結婚させられ、愛することすらできない男の側で、どれほどの苦渋と絶望を味わっていたのだろう。
手に入らない母の愛。
拒絶され続けた男。
(だから、母と生き写しの顔をした私が『大嫌い』と言った瞬間に、怒り狂ったのね……)
あの男にとって私の完全な拒絶は、周囲の目や社会的地位などすべてが吹き飛ぶほどの地雷。
絶対に触れてはならない、致命的な感情が爆発してしまったのだ。
真実を知らされた私の心は、言葉にならない複雑な感情で、激しく掻き乱されていく。
「——だが、過去のしがらみも、両親がどのような事情を抱えていようとも、今の君には何の関係もないことだ。ルナリア子爵令嬢、君は君の思うように、これからの人生を自由に生きるといい」
私の暗い葛藤をすべて見透かしたかのように、フィン公爵は重ねて優しい言葉をくれる。
呪いのようにな過去が、公爵の静かな声音によって、ひとつずつ丁寧に上書きされていくような気がした。
「そして二つ目だ。今後の君の処遇について話をしよう」
公爵はデスクの上から一通の厳封された書類を取り出すと、私の前のローテーブルへと静かに差し出した。
「これは、ペンバートン子爵家が営んでいた事業の目録だ。当面の間は、我がフォーサイス公爵家が全責任を持って引き継ぎ、運用する。そして君が高等部を卒業した際、もしその意志があるならば、すべての事業と資産を君が継承するといい」
「え……」
「……それまでの間、つまり高等部を卒業するまでは、我が公爵家が責任を持って君の身柄を保護しよう。学園での生活はもちろん、君が新しくやりたいこと、学びたいことが見つかれば、何不自由なく支援する用意がある」
「あ、あの、お待ちください……」
あまりにも破格で、至れり尽くせりな提案に、私は不安さえ覚えた。
「それは、あまりにも……っ。そんなことをしていただいても、フォーサイス公爵家には何の利点もありません……!」
私の必死の訴えに、フィン公爵はフッとその厳しい唇の端を和らげた。
その表情は、どこかグレンに似ている。
「ルナリア子爵令嬢。子どもは、大人に甘えなさい」
「——っ」
「今の君が考えるべきは、損得勘定ではない。まずはその心身の傷をじっくりと癒やすことだ。そして、もしできることなら……これから先の人生で、どのような道に進みたいのか、ゆっくりと見つけるといい」
あまりにも大きすぎる温情に、私は完全に言葉を失ってしまった。
貴族社会とは利害関係だけで動くドロドロとした世界のはず。
それなのに、目の前にいるこの国の最高権力者の一角。
その人は、ただ「大人だから」という理由だけで、傷ついた私に無条件の救いの手を差し伸べてくれている。
(なんて、温かい場所なのかしら……)
この公爵家は、きっとこの歪んだ世界のなかで、奇跡のような存在だった。
じわりと胸の奥が熱くなるのを感じながら、私は深く息を吸い込んだ。
子爵家の暴力から解放された事実が、呼吸を楽にしてくれたように感じる。
私は、もうあの冷たい家に戻る必要はないのだ。




