2章-21.こぼれ落ちた血と、アルへの違和感
訓練場の重い扉の鍵を開けて中に入る。
大きな窓から差し込む夕暮れの見事な日差しが、室内を赤々と支配していた。
「……あら?」
ふと視線を落とした私は、訓練場の一角にある木製の机の上に、ある違和感を見つけた。
一振りの短剣が、鞘にも収められず、むき身のままぽつんと置かれていたのだ。
「誰かの忘れ物……かしら?」
近づいて観察してみる。
夕日に照らされた刃は、どこか冷ややかな鈍い光を放っていた。
その刃を見つめているうちに、私の脳裏にふと、ある考えが浮かび上がった。
(魔法だけじゃなくて……今後、何か不測の事態があったときのためにも、剣術とかの護身術も少しは学んでおいたほうがいいのかな……)
あの悲惨な『全滅エンド』はひとまず回避できたように感じてはいる。
けれど、この世界の危機が完全に去ったとは、まだ誰にも言い切れない。
これからの激動の未来を生き抜くために、守る手段を増やしておくことは、決して無駄な対策にはならないはずだ。
そんな、ほんの少しの軽い気持ちから、私はその短剣を一度握ってみようと手を伸ばした。
「おもっ……!?」
机から短剣を持ち上げた瞬間、ずしりと腕に響いた想像以上の荷重に、私は思わず短剣を取り落としそうになってしまった。
ただの飾り物の短剣とは違う、本物の武器としての重さ。
「あっ!」
慌てて体勢を崩した短剣を持ち直そうと、無我夢中で手を動かした、その次の瞬間。
鋭利な刃先が、私の右手の指先を深く切り裂いた。
「い、いった……っ!」
焼けるような鋭い激痛。
慌てて手を離すと、短剣はカランと甲高い音を立てて、訓練場の床へと転がっていった。
じわじわと、指先の傷口から赤い血があふれ出し、肌を伝って床へと落ちていく。
「どうしよう……結構深く切っちゃった。ハンカチじゃ血が止まらない……。グレンが来る前に、一度医務室へ行ったほうがいいかしら……」
一人でオロオロとしながら指先を見つめて途方に暮れていた、その時だった。
「——ルナリア嬢、そこで何をしてるの?」
静まり返った訓練場に、不意に、ひどく聞き覚えのある低く穏やかな声が響いた。
「……っ!」
私はハッとして、弾かれたように声のした方へと振り返る。
そこには、いつの間にか開いていた扉の隙間、夕日の届かない薄暗い影のなかに、一人の少年が佇んでいた。
「アル……!?」
驚きに、思わず声が漏れる。
そこにいたのは、間違いなく私の知る従者のアルだった。
いつもならきっちりと着こなしているはずの学園の制服姿ではない。
彼は黒い外套を深くまとっていた。
「どうしてここに……。今日は体調を崩して、公爵邸で休んでいる予定じゃなかったの……?」
「そのあたりの説明は後。とりあえず、その指を見せてみなよ」
私の戸惑うような問いかけをあっさりと流し、アルは低く落ち着いた声で促した。
私はまだ混乱のなかにいたけれど、脈打つ痛みに耐えかねる。
言われるがままに、深く切ってしまった指先を彼の前に差し出した。
アルはその細い指先で私の手首をそっと固定すると、傷口からこぼれる血をじっと見つめる。
「うん……ちょっと失礼するよ」
「え——」
断りを入れると同時だった。
アルはゆっくりと顔を近づけ、私の指先にじわりと滲んでいた赤い血を、その唇で直接舐め取ったのだ。
「ア、アル……っ!? 何を——」
あまりの突飛な行動に、私の思考は完全にフリーズした。
しかし、アルは私の動揺など気にも留めない。
そのまま今度は傷口ごと唇でぴったりと塞ぐ。
(な、に……これ……っ)
心臓が跳ね上がるような行為と、予想外の感覚に、頭が真っ白になる。
それと同時に、なぜだろう。
身体の奥底から、急速に力が抜けていくような、強烈な脱力感が一気に私を襲った。
「あ……っ、う……」
視界がぐらりと揺れ、膝の力が完全に失われる。
床にそのまま崩れ落ちそうになり、私は大きく足をふらつかせた。
「おっと……危ない」
アルがすぐさま私の腰へと腕を回し、しっかりと受け止めてくれた。
「ごめんごめん。急にこんなことしたら、そりゃびっくりするよね。……俺も驚いた」
「ア、ル……?」
私は、アルの胸元に預けた身体を震わせながら彼を見上げた。
その時、眼鏡の奥にある彼の青い瞳の奥に、『真紅』の輝きが煌めいたような気がした。
ガタ——ッ!!!
静まり返った訓練場に、激しく扉が押し開けられる音が鳴り響く。
「——あ……!」
そこに立っていたのは、息を切らせたグレンだった。
用事を終えて急いで追いかけてきてくれたのだろう。
けれど、グレンは愕然とした様子でこちらを見つめていた。
「アル……それにルナリア。お前たち、その、一体何を……」
グレンの震える声を聞いて、私はようやく今の自分の状況に気がついた。
アルに、私が抱きしめられているかのような格好。
誰がどう見ても、密事を働いているようにしか見えない光景だった。
「ちょっと、変な誤解はやめてよね。……ほら、ルナリア嬢、手を離すよ」
アルはいつもの飄々とした声音に戻ると、ゆっくりと私の腰から腕を解き、何事もなかったかのようにすっと私から身体を引き離したのだった。
「ちょっと気分転換がてら外を散歩してね、君たちの様子を近くまで見に来ただけだよ。そうしたら、ちょうど中で転びそうになっていたルナリア嬢がいたから、こうして支えてあげていたのさ」
アルは何のやましさも感じさせない、いつも通りの涼しい顔で肩をすくめてみせた。
「そう、か……。ならいいんだが……」
グレンはまだ少し釈然としない様子で、私たちを交互に見つめていた。
けれど、アルに悪びれる様子が一切ないのを見て、今度は親友としての純粋な心配をその瞳に宿らせた。
「……それより、体調はもう大丈夫なのか? 今日は公爵邸で休んでいるはずだったろう」
「うん、だいぶ良い感じだよ。心配してくれてありがとう」
アルは瞳を細めて微笑むと、黒い外套の襟元を軽く整えた。
「まあ、いいや。ルナリア嬢もなんだか少し疲れちゃっているみたいだし、今日はみんなで一緒に公爵邸へ帰ろうか」
それだけを言い残すと、アルはまるで何事もなかったかのように、軽い足取りで訓練場の外へと一人で歩き出してしまった。
「ルナリア、本当に大丈夫か? 気分が悪いところはないか?」
すぐにグレンが私の側へと駆け寄ってきて、心配そうに顔を覗き込んでくれる。
「ええ、大丈夫よ、グレン。ちょっとびっくりしちゃっただけだから……」
私はグレンに心配をかけまいと、驚きをなんとか笑顔に変えて応じた。
そして、抑えていた指先へと視線を落とす。
(え……、うそ……)
私は、その指先を見て小さく目を見張った。
血が流れ落ち続けていた指先が、今は綺麗さっぱりと止血されていた。
(アルが、血を舐めたから……?)
私は、先ほどアルの唇が触れた指先の、まだ微かに残る熱をじっと見つめる。
その感触のせいか、背中に冷たい汗が伝うのを感じずにはいられなかった。




