1章-2.関わらないでほしいのに、キャラと近づく距離 .
「だ、大丈夫です……っ! なんでもありませんから、大したことないので!」
心配そうなグレンの視線から逃れるように、私は一歩ずつ後ずさった。
最悪だ。
頭の奥が真っ白になるほどのパニックが襲う。
最も恐れていたこと。
最も避けるべきだった事態が、記憶を取り戻した翌日に起きてしまった。
「いやいや、どう見ても平気な顔には見えないじゃん。顔色、真っ青だよ? 医務室、行った方がいいんじゃない?」
グレンの背後から、ひょっこりと別の影が顔を覗かせた。
先ほど中庭で彼と一緒にいた少年——アルと呼ばれていた少年だ。
近くで見ると、彼の瞳は恐ろしいほどに澄んでいた。
インクを垂らしたような、不自然なまでに深く、綺麗な青色の瞳。
その冷徹ささえ感じさせる知性的な眼差しが、探るように私をじっと探ってくる。
「本当に、本当に平気ですから! ……失礼します!」
これ以上ここにいては、取り返しのつかないことになる。
私は彼らの返事を待たずに、脇目も振らずその場を立ち去ろうとした。
しかし、その目論見は無惨にも打ち砕かれる。
グレンの手が私の手首をつかみ、その場に縫い付けた。
「……失敬」
拒絶の声よりも早く、彼は私の制服の袖を、有無を言わせぬ手つきでまくり上げた。
「——っ、あっ、や、見ないで……! 見ないでください……!」
悲鳴に近い声を上げて腕を引こうとしたが、ビクともしない。
衣服の奥に隠されていた、昨夜の苛烈な叱責の痕。
肌に浮かび上がる痛々しい痣が、白日の下にさらされてしまった。
グレンの碧玉の瞳が、驚愕に大きく見開かれる。
「これは……ひどいな。ただの打撲じゃない。……いったい、誰にやられたんだ?」
「あなた方には、関係ありません……っ。お願いですから、離して……!」
羞恥と恐怖で涙があふれそうになる。
実の親につけられた殴打の痕など、見られたくなかった。
そして、この出会いが何かを変えてしまう予感に、恐れが全身を駆け抜ける。
「こら、グレン。レディの領域にずけずけと踏み込まないの。追及は後。まずは医務室に連れていくのが先決でしょ」
見かねたようにアルが間に入り、グレンの肩を軽く叩いた。
眼鏡の奥の青い瞳は相変わらず冷静だった。
けれどその声には、私の怪我に対する不快感と、静かな怒りが滲んでいるように思えた。
「ああ、そうだったな。すまない、取り乱した。……君、歩けるかい?」
尋ねるグレンの手は、まだ初等部の少年とは思えないほどに大きく、そして力強かった。
私がどれだけ身をよじっても、その拘束を振りほどくことができない。
「っ……はい……」
これ以上抵抗すれば、余計に彼らが詮索してくるかもしれない。
私はついに観念し、涙をこらえながら、二人に引きずられるようにして医務室へと歩き出した。
◇
「……はぁ」
医務室特有の、ツンとした薬品と、消毒液の匂いに包まれながら、私は深く息を吐き出した。
応急手当てを終えた私の身体を気遣って、保健医の先生は医務室の奥にある個室のベッドを貸してくれたのだ。
「これから……どうしよう……」
真っ白なシーツに身を包み、所在なく窓の外を見つめる。
校庭からは、授業か何かだろうか。
生徒たちの元気な話し声や、楽しげな喧騒が風に乗って響いてくる。
その眩しさが、今の私には酷く遠い世界の出来事のように思えた。
(……どこかに逃げる? いいえ、無理だわ。そんなことをすれば、私を政略結婚の道具としてしか見ていない父親が、血眼になって私を探す。それに、もし運よく逃げ切れたとしても、子供の私が、一人で生きていけるわけがない……)
途方もない前途の暗さに、またため息がこぼれる。
私はそっと目を閉じ、強く差し込む陽の光を遮った。
脳裏に浮かぶのは、あの忌まわしくも美しいゲームのパッケージ。
描かれていたのは、全部で五人。
中心にいる主人公らしき少女を囲むように、四人の美しい男性が並んでいた。
その特徴的な髪色や雰囲気からして、先ほどの二人は間違いなく攻略キャラクターだ。
(関わらないと決めた途端に、これ以上ない形で接点ができてしまうなんて……!)
話しかけられても、無視した方が良かったのだろうか。
それとも、今のうちから良好な関係を築いておくべきなのか。
いくら考えても思考は堂々巡りを繰り返すだけで、答えには辿り着かなかった。
◇
「ん……。……あれ、寝てた!?」
あれこれと考えを巡らせているうちに、いつの間にかうたた寝をしてしまっていたらしい。
思えば、実家での叱責と深夜にまで及ぶ勉強のせいで、ここ最近はまともに眠ることすらできていなかった。
誰にも邪魔されずゆっくりとした時間を過ごせたのは、いつ以来だろう。
視線をかすかに傾けると、太陽はすでに西の空へと傾き、室内は茜色の夕陽で満たされていた。
コンコン——。
その静寂を破るように、木製のドアが静かにノックされた。
「あ……は、はい。どうぞ……」
慌てて声を上げると、ゆっくりとドアが開いた。
そして外の空間から、見覚えのある鮮やかな赤い影が滑り込んできた。
「失礼するよ。……体調は、少しは良くなったかい?」
グレンだった。
彼は、指先まで品格の漂う仕草で、こちらの体調を遠慮がちに伺うようにして佇んでいた。
「あ……は、はい。その、おかげさまで……」
ベッドの上に上体を起こし、心配そうにこちらを見つめるグレンと向き合った。
夕暮れの薄暗い部屋の中で、短い、けれど妙に気まずい沈黙が二人の間に流れる。
それを破ったのは彼の方だった。
「もし君が嫌でなければ……もう少し近くに寄って、話をさせてもらえないだろうか?」
「話……ですか?」
警戒心を高める私に、グレンはどこまでも柔らかな微笑みを返した。
「色々と、聞きたいことがあるんだ。もちろん無理強いはしない。けれど、君のためにも、少しだけでいいから話がしたい」
「…………」
私はもう一度、彼の表情を盗み見るようにして伺った。
夕陽を浴びて輝く、森のように深く澄み渡った緑の瞳。
その奥には、優しさだけではない、決して曲げることのできない強い意志が宿っていた。
この瞳から逃げることは、きっとできない。
「……少し、だけなら……」
私がぽつりと呟くと、彼はほっとしたように目元を緩めた。
まだ初等部の少年とは思えないほど大人びたその表情に、私の心臓が不自然なほど波打つ。




