1章-2.キャラと近づく距離、公爵家の「グレン」との話し合い
医務室特有の、ツンとした薬品と、消毒液の匂いに包まれながら、私は深く息を吐き出した。
「これから……どうしよう……」
真っ白なシーツに身を包み、所在なく窓の外を見つめる。
(……どこかに逃げる? いいえ、無理だわ。そんなことをすれば、私を政略結婚の道具としてしか見ていない父親が、血眼になって私を探す。それに、もし運よく逃げ切れたとしても、子供の私が、一人で生きていけるわけがない……)
脳裏に浮かぶのは、あの忌まわしくも美しいゲームのパッケージ。
描かれていたのは、全部で五人。
中心にいる主人公らしき少女を囲むように、四人の美しい男性が並んでいた。
その特徴的な髪色や雰囲気からして、先ほどの二人は間違いなく攻略キャラクターだ。
(関わらないと決めた途端に、これ以上ない形で接点ができてしまうなんて……!)
コンコン——。
その静寂を破るように、木製のドアが静かにノックされた。
「あ……は、はい。どうぞ……」
慌てて声を上げると、ゆっくりとドアが開いた。
そして外の空間から、見覚えのある鮮やかな赤い影が滑り込んできた。
「失礼するよ。……体調は、少しは良くなったかい?」
グレンだった。
彼は、指先まで品格の漂う仕草で、こちらの体調を伺うようにして佇んでいた。
「あ……は、はい。その、おかげさまで……」
ベッドの上に上体を起こし、心配そうにこちらを見つめるグレンと向き合った。
夕暮れの薄暗い部屋の中で、短い、けれど妙に気まずい沈黙が二人の間に流れる。
それを破ったのは彼の方だった。
「もし君が嫌でなければ……もう少し近くに寄って、話をさせてもらえないだろうか?」
「話……ですか?」
「色々と、聞きたいことがあるんだ。もちろん無理強いはしない。けれど、君のためにも、少しだけでいいから話がしたい」
私はもう一度、彼の表情を盗み見るようにして伺った。
夕陽を浴びて輝く、森のように深く澄み渡った緑の瞳。
「……少し、だけなら……」
私がぽつりと呟くと、彼はほっとしたように目元を緩めた。
まだ初等部の少年とは思えないほど大人びたその表情に、私の心臓が不自然なほど波打つ。
彼は歩み寄ると、驚いたことに、その場に膝をついて私を見上げるような姿勢をとった。
「私はグレン・フォーサイス。もしかしたら、名前くらいは耳にしたことがあるかな?」
「はい……。フォーサイス公爵家の方、ですよね」
グレン・フォーサイス。
この国の最高峰に位置する公爵家の三男。
文武両道にして、初等部を代表する天才。
その名を知らない生徒など、この学園には一人もいない。
私は、夕陽に照らされた彼の横顔を見つめる。
「保健医の先生から君の怪我の状態を少し聞いたんだ。……それは誰に負わされたものなのか、私に聞かせてもらうことはできるだろうか?」
グレンの静かな問いかけに、私の心臓がドクリと跳ねた。
何も答えないわけにもいかなくて、私は震える声を必死に絞り出す。
「……い、いえ。これは……その、ただ私がドジをして、派手に転んでしまっただけ、ですから……」
自分で口にしながらも、あまりにも苦しすぎる言い訳だった。
服の下にあるのは、明らかに故意に刻まされた打撲痕だ。
階段から落ちたとしても、あんな風にはならない。
(ここで正直に言えば、少なくともあの家からは解放される……かもしれない)
それでも、私は実の父親を告発することなどできなかった。
この国において身内、特に抵抗できない子供への暴力は重罪とされている。
もし我が家の不祥事が公になれば、最悪の場合、爵位の剥奪や家門の取り潰しすらあり得た。
(そうなれば、私が真っ先に路頭に迷うことになる……)
そしてもうひとつ、何よりも私を縛っているのは、幼い頃に亡くなった今生の母親との約束だった。
『ルナリア。私があなたを守るから……あの人を、あなただけは愛してあげて……』
なぜ優しい母がそんな言葉を言ったのか、今の私にはまだ分からない。
けれど、記憶を取り戻す前の私も、そして今の私も、その約束を破ることだけはしたくなかった。
「……そうか……」
グレンは、沈痛な面持ちで私の言葉を聞き届けると、それ以上は何も聞いてこなかった。
嘘だと分かっているのだろう。
だとしても、あえて踏み込まない大人びた気遣いが、かえって私の胸をズキズキと痛ませた。
重苦しくなりかけた空気を変えるように、グレンがふっと表情を和らげた。
「そうだ。君の名前は……ルナリア・ペンバートンだったね。ルナリアと呼んでもいいだろうか?」
「えっ……? もちろんです、グレン様」
突然の提案に目を丸くする私に、グレンはさらに信じられない言葉を重ねる。
「私に対しても、その敬称や敬語はなしにしてくれ。気安く『グレン』と呼んでほしい」
「え、でも……! フォーサイス公爵家の方に対して、そんな不敬なことは……」
身分制度の厳しいこの世界。
下級……ましてや子爵令嬢が、公爵家の御曹司を呼び捨てにするなど許されるはずがない。
慌てて首を振る私に、グレンはにっこりと、有無を言わせない完璧な笑顔を向けた。
その碧玉の瞳が「呼んでくれるまで引き下がらない」と雄弁に物語っている。
「……う……グ、グレン……?」
観念して、今にも消えるような声でその名前を呼ぶ。
すると、彼はそれまでの大人びた仮面を脱ぎ捨てるようにして顔を輝かせた。
「よろしくね、ルナリア」
それは、今日彼が見せたどの表情よりも、年相応で、子どもらしい満面の笑みだった。
夕暮れの医務室で、彼の眩しい笑顔を見た瞬間、私の胸の奥が小さく跳ね上がる。
グレンが年相応のはにかんだ笑顔を見せ、清涼な空気が室内に満ちたのも束の間。
再び個室のドアが小気味よくノックされた。
しかし、こちらが応じるよりも早く、ためらいなくドアが開け放たれる。
「こんにちは、ルナリア嬢。お加減は……うん、さっきよりは随分と顔色が良さそうだね」
現れたのは、漆黒の髪を綺麗に編み込んだ少年――アルだった。
眼鏡の奥にある深い青色の瞳が、部屋の空気を瞬時に見抜くように細められる。
(アル……。やっぱり、この人はグレンと行動を共にしているんだわ……)
ゲームのパッケージで見た主要キャラクターが二人もそろっているという事実。
前世の記憶が事実であると、私の心臓はまたしても警告音を鳴らし始める。
「ああ、一応俺も自己紹介をしておこうか。俺の名前はアル。フォーサイス公爵家に仕える身で……まあ、そこの若君のお守り役、兼、従者といったところかな。よろしくね、ルナリア嬢」
アルはひらひらと片手を振りながら、唇の端を上げて薄く笑った。
その身のこなしや言葉遣いは、グレンの気品とはまた違った意味で、とても同世代の子供とは思えないほどの老成した余裕を感じさせる。
「アル。学園内では同年代の生徒同士のように普通に接しろと……それに、私にお守りなど必要ないと言っているだろう」
グレンが眉をひそめて背後を振り返る。
「そうやってムキになって言い返しちゃうところが、まだまだお子様なんだよ、グレン」
「アルだって同い年じゃないか……!」
「おっと、精神年齢の話をしてるんだよ? 俺は君よりずっと大人だからね」
やれやれと大袈裟に肩をすくめるアルに、グレンが不満げに頬を少しだけ膨らませる。
公爵家の御曹司とその従者。
本来なら絶対的な身分差があるはずの二人。
だが、そこに漂っているのは、ごく普通の少年同士の空気だった。
「……ふふ」
二人のあまりにテンポのいい小競り合いに、私は思わず、小さく声を漏らして笑ってしまっていた。
慌てて両手で口元を抑えたけれど、時すでに遅く、二人の視線が私へと注がれる。
「あ……ごめんなさい、その……お二人は、とっても仲が良いのだな、と思って……」
不敬だと怒られるかもしれない。
そう身をすくめる私を、グレンはバツが悪そうに、けれどどこか嬉しそうに目を細めて見つめた。
「よかった……やっと笑ってくれたね」
「普通に笑えば、年相応の女の子って感じじゃん。もっとそういう表情していればいいと思うよ」
アルは眼鏡の位置を直しながら、その青い瞳に優しげな光を宿す。
彼らがもたらす温かで眩しい光は、私の拒絶の心を少しずつ溶かしていくようだった。
「ああ、そうそう。言い忘れていたけれど、君がしばらくこの個室に滞在できるよう、保健医と学園側に許可を取っておいたよ」
「え……っ!?」
「怪我が最低限治るまで……まあ、一週間くらいはここで大人しくしていた方がいい」
アルの口から飛び出したあまりにも唐突な言葉に、私はベッドの上で硬直した。
一週間の滞在——つまり、それはしばらく実家に帰らないということ。
あのヒステリックな父親のことだ。
私が無断で家をあけたと知れば、怒り狂いこの学園に乗り込んでくるに違いない。
呼吸が浅くなった私の焦燥を見抜いたかのように、アルは小さく息を吐く。
「大丈夫。ペンバートンの旦那様には、きっちり言伝をしておいたから。……だから君は、何も気にせずここで休むといい。授業の公欠手続きも、もうすませてあるよ」
「ええ……!」
アルの手回しの早さにめまいがしそうだった。
これ以上、この人たちに借りを作ってはだめだ。
深く関われば関わるほど、あの血塗られたエンドの足音が近づいてくる気がしてならない。
「私は、大丈夫ですから……。今日、これからすぐに帰ります。ですから、その言伝も撤回して——」
無理にでもベッドから降りようとする。
その私の肩を、グレンの手が優しく押し留めた。
「……ルナリア。今の君に必要なのは、何よりも休息だ。無理をしてはいけない」
「ですが、私は……」
「大丈夫だ」
私の反論を遮るように、グレンはさらに声を和らげる。
「何も心配いらない。……私達が、君についているから」
その言葉は傷ついた私にとって、これ以上ないほど欲しかった救いの手のはずだった。
けれど、その優しさこそが、シナリオへ縛り付ける蜘蛛の糸のように思えてならない。




