1章-1.全滅か全員生存か、初日から進行するフラグ
「ねえ知ってる? 今、話題の乙女ゲームなんだけど……」
記憶の中の親友の声は、ひどく曖昧だった。
病床の私の目の前で、彼女はスマートフォンの画面を興奮気味にスライドさせている。
「これ、結末が極端な神ゲーなの。全員生き残るか、一人残らず惨殺されるか。……そして、これが全ての元凶。この悪役令嬢が『厄災』になるせいで、全員死亡ルートが確定しちゃうんだよ」
映し出されていたのは、傲慢に微笑む一人の女。
その凍てつくような瞳の面影が。
今、目の前にある「現実」と恐ろしいほどの精度で重なり合った――。
鼓膜を突き破る怒号。
激しい衝撃と共に、私の視界がぐにゃりと歪んだ。
気がつけば、私は冷たい床に膝をついていた。
……そうだ。
私は今、実の父親に髪を掴み上げられ、無理やり鏡に向かわされているのだ。
「ルナリア! 我が家の面汚しめ……! なぜ我が家に、お前のようなグズが生まれた!?」
鏡の中に映るのは、まだ幼さの残る少女。
けれど、その長い髪と冷たい双眸は、紛れもなくあの画面の中で見た「悪役令嬢」の容姿だった。
(どういうこと……? 私は、あの世界を破滅に導く悪役令嬢なの……?)
記憶の中の女の名は、ルナリア。
今の自分と、全く同じ名前。
幼さはあるが同じ顔。
鏡の中の私は、この世の全てに絶望し、ただ涙をこらえて震えることしかできない最弱の存在だった。
「ごめんなさい……っ」
だが、その謝罪は目の前で激昂する父へ向けたものではなかった。
いつか私のせいで無惨に命を落とすことになるかもしれない、ゲームのキャラクターたちへの、届くはずもない贖罪。
父からの苛烈な叱責を浴びながら、私はただ、暗闇の中で泣き続けることしかできなかった。
◇
翌日。
貴族の子ども達がその才能を競い、伸ばすために設立された、きらびやかな学園の初等部。
その喧騒の中を、私はなるべく目立たないよう、人の隙間を縫うようにして歩いていた。
(父からの叱責もひどいけれど……今一番の問題はそれじゃない)
私は遠くはない未来で、悪役令嬢として人を殺す。
その凄惨たる事実が、身体以上に心を痛ませた。
(でも大丈夫……。記憶を取り戻した今なら、まだ間に合う。私が彼らと一切関わらなければ、誰も死ぬことにはならないはず)
私が誰とも触れ合わず、孤独な影として生きれば、破滅の引き金になることもない。
前世の私は、成人する前に病気で死んだ。
だからこそ、若くして命を奪われる苦しみがどれほど無念か、痛いほどよく分かる。
あんな思いを、他の人にさせたくない。
ましてや自分がその原因になるなんて、絶対に嫌だ。
胸の奥で固く決意を結び、手に力を込めた、その時だった。
「見て……グレン様とアル様よ……!」
「いつ拝見しても、息をのむほど見目麗しいですわね」
華やいだ歓声に誘われ、ふと中庭へ視線を向ける。
そこには、燃えるような紅蓮の髪を揺らし、柔和な笑みを浮かべる少年。
そしてその隣には、黒髪を長い三つ編みにし、眼鏡の奥から理知的な瞳を覗かせる少年が立っていた。
二人の姿を見た瞬間、私の背筋に凍り付くような衝撃が走った。
(あの人達……、あのパッケージにいた……!)
脳裏に鮮烈に蘇るのは、スマートフォンに映し出されていたスクリーンショット。
血に濡れて倒れる、赤い髪をした青年の姿。
今、優しげな笑顔を振りまいている少年は、その破滅の未来にいた青年にあまりにも酷似していた。
その時、不意に赤い髪の少年——グレンの視線が、こちらを捉えたような気がした。
「っ……!」
心臓を激しく鷲掴みにされたような恐怖。
私は弾かれたように視線を逸らすと、逃げるようにしてその場を駆け抜けた。
「はぁ、はぁ……っ、く……う……!」
廊下の途中で、痛みが全身を襲った。
昨日の叱責の名残が残っているのに、無理に走った代償だ。
私はその場にうずくまってしまう。
(だめ、しっかりしなきゃ……)
さっきの眩しい笑顔が、脳裏の血だらけの死体と重なって離れない。
激しい吐き気が込み上げてくる。
(……でも、おかしいわ。彼らは学園屈指の実力者。才能なんてない私が、どうやって彼らを死に至らしめるの……?)
震える小さな両手を見つめる。
とにかく、これから先はなるべく彼らに近づかないようにしなければならない。
よろめきながらも、壁を支えにして立ち上がろうとした。
「君——大丈夫?」
頭上から、清涼な声が降ってきた。
あまりに突然のことで、私は無警戒に振り返る。
「怪我をしているのかい? ずいぶんと身体を痛めているように見えるけれど……」
燃えるような赤い髪。
優しげに細められた、美しい碧玉の瞳。
「あ……、あ……っ」
今しがた、この先「絶対に関わらない」と心に誓ったばかりの少年——グレンが、心配そうに私を見つめていた。
「だ、大丈夫です……っ! なんでもありませんから、大したことないので!」
心配そうなグレンの視線から逃れるように、私は一歩ずつ後ずさった。
頭の奥が真っ白になるほどのパニックが襲う。
最も恐れていたこと。
最も避けるべきだった事態が、記憶を取り戻した翌日に起きてしまった。
「いやいや、どう見ても平気な顔には見えないじゃん。顔色、真っ青だよ? 医務室、行った方がいいんじゃない?」
グレンの背後から、ひょっこりと別の影が顔を覗かせた。
先ほど中庭で彼と一緒にいた少年——アルと呼ばれていた少年だ。
近くで見ると、彼の瞳は恐ろしいほどに澄んでいた。
インクを垂らしたような、不自然なまでに深く、綺麗な青色の瞳。
その冷徹ささえ感じさせる知性的な眼差しが、探るように私をじっと探ってくる。
「本当に、本当に平気ですから! ……失礼します!」
これ以上ここにいては、取り返しのつかないことになる。
私は彼らの返事を待たずに、脇目も振らずその場を立ち去ろうとした。
しかし、グレンの手が私の手首をつかみ、その場に縫い付けた。
「……失敬」
拒絶の声よりも早く、彼は私の制服の袖を、有無を言わせぬ手つきでまくり上げた。
「——っ、あっ、や、見ないで……! 見ないでください……!」
悲鳴に近い声を上げて腕を引こうとしたが、ビクともしない。
衣服の奥に隠されていた、昨夜の苛烈な叱責の痕。
肌に浮かび上がる痛々しい痣が、白日の下にさらされてしまった。
グレンの碧玉の瞳が、驚きで大きく見開かれる。
「これは……ひどいな。ただの打撲じゃない。……いったい、誰にやられたんだ?」
「あなた方には、関係ありません……っ。お願いですから、離して……!」
彼らの凄惨な未来を思い出し、涙があふれそうになる。
この出会いが何かを変えてしまう予感に、恐れが全身を駆け抜けた。
「こら、グレン。レディの領域にずけずけと踏み込まないの。追及は後。まずは医務室に連れていくのが先決でしょ」
見かねたようにアルが間に入り、グレンの肩を軽く叩いた。
眼鏡の奥の青い瞳は相変わらず冷静だった。
けれどその声には、私の怪我に対する不快感と、静かな怒りが滲んでいるように思えた。
「ああ、そうだったな。すまない、取り乱した。……君、歩けるかい?」
尋ねるグレンの手は、まだ初等部の少年とは思えないほどに大きく、そして力強かった。
私がどれだけ身をよじっても、その拘束を振りほどくことができない。
「っ……はい……」
これ以上抵抗すれば、余計に彼らが詮索してくるかもしれない。
私はついに観念し、涙をこらえながら、二人に引きずられるようにして医務室へと歩き出した。
これが、全滅エンドかを分ける、重大なフラグになるとも知らずに。
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