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1章-19.(番外編)グレンとアルのやんちゃな過去③

「——やれやれ。うちの若君は、一体どれだけ無茶をすれば気がすむんだか」


 私の目の前に、音もなくふわりと舞い降りた人影があった。

 その特徴的な青い瞳を、心配そうに揺らしている少年。


(アル……!)


 アルは流れるような手際で、私の口を塞いでいた布と、手足を縛り付けていた縄を瞬時に切り去っていった。


「ごほっ……!」


「……うん、大きな怪我はなさそうだ。かすり傷程度かな」


「アル……私は、その……すまない……。お前の足を引っ張って……」


 私は消え入るような声で謝罪した。

 自分の浅はかさが生んだ最悪の結果。

 彼にどんなに罵倒されても文句は言えなかった。

 けれど、アルは小さく息を吐くと、私の頭にぽんと手を置いた。


「謝るのは後。君の血の匂いが漂ってきたときは、さすがに俺も肝が冷えたよ。……まあ、無事で良かった」


「アル……」


「とりあえずここを脱出して——」


 アルの言葉が、最後まで紡がれることはなかった。

 水路の闇の向こうから、何人もの騒々しい足音、怒号が地下水路に響き渡ったからだ。


「おい! 今、上で派手な音がしなかったか!?」


「ガキを捕まえた部屋だ、急げ!」


 仲間がやられたことに気づいたのだろう。

 包囲網が急速に縮まっていく。

 大人の犯罪組織を相手に、これだけの数を同時に相手にするのはいくらアルでも無理がある。


「はあ……。どうやら、もう一踏ん張りしなきゃダメみたいだね」


「アル……? 私も戦う。足手まといにはならないように――」


 身体を無理に動かそうとした時。


「いいからグレン。君は今すぐ目をつむって。……絶対に、何があってもその目を開けないこと。いいね?」


「え……?」


 アルの有無を言わせぬ声音に、言葉を失う。

 アルはいつものような笑みをやめ、自身の顔にかけられた『眼鏡』へと手を伸ばした。


 そして眼鏡を顔から外しながら、私に背を向ける。


 ——ドクンッ!!


 心臓を直接大きな手で握りつぶされたかのような、凄まじい衝撃が私の全身を駆け巡った。


 空気が、重い。

 アルの背中からでも感じ取れる、地下水路を埋め尽くしていく力の奔流。


(これが……アルの、本当の力……!?)


 その場に立っていることすら許されないほどの絶対的な捕食者の気配に身を震わせる。


「……目を閉じて、グレン。子どもにはちょっと刺激が強すぎるからさ」


 近いのに、どこか遠くから、アルではないかのような冷え切った声が聞こえた気がした。

 私は、彼の警告にただ従うことしかできなかった。

 言われるがまま、強く両目を閉じる。


 闇のなかで、男たちの短い、砕けるような悲鳴。

 それが響き始めるのを聴きながら、私はただ全てが終わるのを待つしかなかった。


「——はい、終わり。もう目を開けていいよ」


 耳元に届いたのは、いつもの聞き慣れたアルの声だった。

 目を開けた私の視界に飛び込んできたのは、言葉を失うほどの光景だった。

 大人の犯罪者達が、ある者は石壁に深くめり込み、ある者は床に転がり、ある者は水路に浮かんでいる。

 例外なく、誰もが一瞬で叩きのめされていたのだ。


 見上げると、そこにはいつも通り眼鏡をかけ直したアルの青い瞳があった。


(……アル、なのか……でも何かが違う気が……)


 三つ編みに結い上げていたはずの、艶やかな黒髪が、今は解き放たれていた。

 だが容姿だけの変化ではない。

 彼が、人間ではない他の何かになったかのような違和感があった。


「ここの場所は……公爵家に報せてある。もうじき護衛が雪崩れ込んでくるから、もう、大丈夫……」


 アルはそこまで言うと、いつもの皮肉げな笑みを浮かべようとする。


「だから、ちょっと……俺、もう限界。……倒れる、よ」


「アル!?」


 言い終わるのと同時に、アルの身体が糸の切れた人形のように、私のほうへふらりとよろめいた。

 私は弾かれたように両手を伸ばし、倒れ込んでくる彼の身体を必死に受け止める。


 腕の中に収まったアルの身体は、驚くほど軽くて、そして凍りつくように冷たかった。

 アルの顔は、ただでさえ白い肌が青ざめ、唇の血気も失われている。


「アル……! おい、目を開けろ、アル!!」


 私は彼の身体をきつく抱きしめながら、何度も、何度もその名前を叫んだ。


「すまない、私が悪かった……! だから頼むから死なないでくれ、アル!!」


 胸を引き裂くような後悔と、自分の無力さへの怒り。

 私の悲痛な叫び声は、冷たい地下水路の不気味な闇のなかへと、ただ虚しく吸い込まれて消えていった。


 公爵邸の護衛たちが地下水路へと駆けつけてくれたのは、それからほどなくしてだった。

 無事に保護された私とアルは、すぐさま公爵邸へと連れ戻された。


 当然、待っていたのは父上からの、これまでにないほど厳しい叱責だった。

 深く頭を下げながらも、私の頭の中を占めていたのはアルのことだけだった。


「父上……アルは、本当に大丈夫なのですか?」


「アルは……大丈夫だろう。あれは…………まあ、病弱な体質だからな。持てる力を使いすぎると、倒れてしまうのだ。お前が本当にアルの身を案じているのならば、今後は二度とあのような勝手な行動は慎むことだ」


 父上の諌めるような言葉が、私の胸に深く突き刺さる。


 アルが病弱だったなんて、私は今の今まで全く気づかなかった。

 彼はいつだって余裕そうな態度を崩さず、むしろ私よりもずっと元気で、頑丈な気がしてすらいたのだ。


(アル……。私のせいで、こんな辛い目に合わせてしまった……)


 自分の身勝手な行動が招いた最悪の結果に、胸が潰れるほどの罪悪感が押し寄せていた。


 父上の言葉通り、アルはそれから丸一週間、自室のベッドで寝込むことになってしまった。


 私は、毎日のようにアルの部屋へお見舞いに足を運んだ。


「まったく……君だって暇じゃないでしょ? こんな一介の従者の様子を、わざわざ見に来なくてもいいからさ……。ただ寝ていれば治るんだから大丈夫だって」


 いつものような軽薄な笑みや、私をからかうような余裕はそこにはない。

 ただ酷く疲れた様子で、私はあしらわれるだけだった。

 その弱々しい姿を見るたびに、私は自分の無力さと未熟さを、嫌というほど思い知らされるのだった。


(そうだ……私が、弱いからだ……)


 アルの寝顔を見つめながら、私は何度も、何度も心の中でその言葉を繰り返した。

 私が弱く、世間知らずで、ただの無力な子どもだったから、彼に命を削るような真似をさせてしまったのだ。


 それから、私は取り憑かれたように一層激しく修練へと励むようになった。


 手の皮は何度もすりむけ、血が滲むのすら構わずに、ただひたすらに己を追い込み続けた。

 少しでも早く頼れる『大人』に近づけるよう。

 貴族としての作法や立ち振る舞いを心がけ、細心の注意を払って毎日を過ごす。


 二度と、自分の未熟さのせいで誰かを傷つけないために。


「……ねえ、大丈夫? なんか最近、ちょっと根を詰めすぎじゃない?」


 寝台から起き上がれるようになったアルが、包帯の巻かれた私の手のひらを見て、呆れたように、けれどどこか心配そうに声をかけてくる。


「……これでも、まだ足りないくらいだ」


 私は手をきつく締め直し、アルの顔を真っ直ぐに見つめる。


 私は、強くなりたい。


 本物の強さが欲しい。


 これから先の未来で、何があっても「大切なもの」を守り抜くことができるように。


 私は夕暮れの空の下、決意を新たにもう一度、強く拳を握りしめるのだった。

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