1章-18.檻の中の反逆、二人からもらった勇気 .
案内された休憩室は、ゆったりとした贅沢なソファにローテーブル。
さらには冷たい水や軽食まで用意された、至れり尽くせりの空間だった。
レミントン伯爵家の、行き届いた気遣いが感じられる。
けれど、重い扉が閉まり、部屋に二人きりになった途端。
その静寂を切り裂いて、父の怒声が響き渡った。
「この……見下げ果てた役立たずが! 役に立つどころか、レミントン伯爵の前で、私の足を引っ張るとはどういうことだ!」
「も、申し訳ありません……っ」
花瓶を割ったのは私ではない。
かすりもしていない。
けれど、激昂して顔を真っ赤に染めている今の父にそれを言ったところで、火に油を注ぐだけだ。
私はただ嵐が過ぎ去るのを待つように頭を垂れるしかなかった。
「せっかくの、我がペンバートン家がのし上がるための絶好の機会を無駄にしおって……! ……ええい、こうなったら」
父は爪を噛みながら部屋を往復していたが、ふと足を止めると、こちらを振り返ってにたりと醜く唇を釣り上げた。
「爵位を金で買った、悪趣味な『少女趣味』で有名な大商人がいる。あいつなら、お前のような無能の身体でも、見た目さえ良ければ大金で買い取ってくれるだろう。もうじき初等部も卒業する、ちょうど良い機会だ。そいつの元へ送ってやる!」
「……っ!?」
あまりにも下卑た、そしておぞましい提案に、頭を殴られたような衝撃が走る。
貴族の娘が政略結婚の道具に過ぎないことくらい分かっていた。
けれど、目の前の男が言っているのは『結婚』などではない。
ただの『人身売買』だ。
欲のために、実の娘をそんな汚濁にまみれた怪物へ売り飛ばそうとする父。
あまりの恐ろしさと絶望に、私の心が悲鳴を上げる。
(もう私には、どんな道も残されていない……)
目の前が真っ暗になり、すべてを受け入れて諦めそうになった、その時。
私の凍てつきかけた意識の底に、あの温かな光をまとった少年の声が蘇った。
『ルナリア、君には何か――叶えたい夢があるかい?』
あの日、医務室でグレンが真っ直ぐに私に向けてくれた言葉。
私には、夢と言えるものなんて何もない。
なら、この悲惨な状況も、ただ静かに受け入れるべきなのだろうか。
けれど、グレンの言葉を続けざまに思い出す。
『君の隣には、いつだって私がいる』
(——いや、違う。違わ。私は、もうあの日までの私じゃない!)
私は、グレンとアルのために。
そして何より、私を人として扱い、私を認めてくれた二人の優しさに報いるためにも。
不幸せになるわけにはいかなかった。
今、ここに二人の姿はない。
けれど、二人から分けてもらった温かさが、私の心の中に息づいている。
私は胸の上で、まだ震える両手をぎゅっと強く握りしめた。
そして、ゆっくりと顔を上げ、私を見下ろしている父の目を、真っ直ぐに睨み返した。
「……嫌です」
「……何と言った?」
私の小さな呟きが信じられなかったのか、父が不愉快そうに眉をひそめる。
私はもう、目を逸らさなかった。
震える唇に、二人からもらった最高の勇気を乗せる。
人生で初めて、喉が張り裂けんばかりの声で叫んだ。
「私は、お父様の決めた人と結婚なんて絶対にしません! 私のことを人間とも思わず、道具のように扱う人の言うことなんか、もう二度と聞きません!」
「なっ……お前……っ!?」
父が驚愕に目を見開く。
無能の娘が自分を睨み返してくるなんて、夢にも思わなかったのだろう。
「お父様のことなんか……大嫌いです!」
言い切った瞬間、不思議と恐怖は消え去っていた。
私の胸の奥で、闇の魔力が呼応するように力強く脈打った。
「——その目で……母親と同じ顔で! 私に向かって、二度と同じような言葉を吐き出すなあああッ!!」
父の顔が、怒りと狂気で歪んだ。
私の反抗が、何か致命的な逆鱗に触れたらしい。
父は甲高い怒声を上げると、私の髪をつかみ上げた。
「う、あ……!」
突然の痛みに、思わず短い悲鳴が漏れる。
「お前は……私の、ペンバートン家の道具だ! 私の言うことだけを黙って聞いていればいいのだ!」
つかみ上げられた反動のまま、私は冷たい大理石の床へと叩きつけられた。
ドカッ、と鈍い音が室内に響く。
衝撃で、肺のなかにある空気が強制的に吐き出された。
「ごほっ、う……っ、うぐ……」
痛みのあまり声も出ない。
私は床に這いつくばったまま、激しく咳き込むことしかできなかった。
「二度と、私に口答えをするなと言っているんだ……ッ!」
荒い息を吐きながら、父はなおも怒りを収めきれないようだった。
そして、ローテーブルの上にあったガラスの水差しを乱暴に手に取る。
それを私の頭上へと、狂気に駆られた力で思いきり振り下ろした。
(あ、だめ——っ)
私は恐怖に身体を硬直させ、痛みに備えてぎゅっと目をつむった。
——ガシャンッ!!!
飛び散ったガラスの破片が床を転がる音。
冷たい水が、辺りに激しく滴り落ちる音。
それがはっきりと鼓膜を打った。
それなのに。
私の身体に想像していた痛みは、いつまで経ってもやってこなかった。
代わりにやってきたのは、私の小さな身体を包み込む、ひどく熱い体温。
「——ルナリア、遅れてすまない……っ!」
耳元で、聞き覚えるのある、けれど必死な声が響いた。
「え……?」
恐る恐る目を開けると、そこには、心を溶かすような赤髪。
私の頭を自分の胸元に固く抱きしめたグレンの姿があった。
衣服が濡れるのも、ガラスの破片が飛び散るのもいとわず、彼は私に覆い被さるようにして、その身を盾にして守ってくれたのだ。
彼が、今は見たこともないほど痛々しく、心配そうな表情で私を見つめ返していた。
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